- ナノ -



子どもの頃、近所に成っていた果物がとても美味しそうだったので、石垣を伝って木を夢中でよじ登ったことがある。
いざ取ろうとした時に下を見ると、地面までの距離が相当高いことに気づいた私はパニックになって泣き叫んだ。ジゴウジトクという言葉もまだ知らなかったけれど、まさにジゴウジトクな状況であったことは間違いなかった。

大声で泣き喚いていると、その家の人や通りがかった人も何だ何だと集まってくるし、血相を変えた親も自分の名前を叫ぶし、恥ずかしいやら何やらで自分でも訳が分からなくなって、ひきつけを起こしかけたその時だった。

「もう大丈夫だぞ!」

白い服を着た男の人が同じように石垣から木に飛び移って、よじよじと幹を登って私に近づいてくる。私と目が合うたび、ニッと笑ってくれた彼に深い安心感を抱いたのを覚えている。
程なくして私のいる地点に到達したその人は、私をしっかりと抱えてゆっくりと幹を降りていった。
頭を撫でてくれた大きな手がとても温かくて、木の上にいた時よりも大泣きしてしまった。

「ハッハッハ! コドモはこのくらい元気でないとな! では、さらばだ!」

平身低頭で謝る私の親に、白い歯を輝かせながら彼は立ち去っていった。今泣いたカラスがなんとやら、私の頭の中はあっという間に彼でいっぱいになった。

(か、かっこいい……)

正義のヒーローみたいな彼にもう一度会ってお礼が言いたくて、翌日もその次の日も同じ場所をうろうろしてみたけれど、やっぱりそんなにツゴウのいい話はないわけで。
次に彼と会えたのは私が高校生になってからで、落とし物を交番に届けた時だった。

ずっと会いたかったあの人がおばあちゃんに道案内をしている姿を見かけた時、背中に電流がビビッと走ったのを覚えている。きっと、ううん、間違いなくこれは恋だった。
少女漫画みたいなことがあるものだと一人感激していたところで、道案内が無事に終わったらしい彼と私の目がかち合った。

「む、どうしたのだね? キミは迷子だろうか?」
「あ、あの! お名前は!」
「それはジブンが聞こうと思っていたのだが……まあ、いいだろう! ジブンの名は番轟三という!」

パカッ!と誇らしげに突きつけられた警察手帳に、私は釘付けになった。バンさん。バンゴウゾウさん。厳粛な正義を秘める彼にぴったりの名前だと思った。
ああ、煌びやかなエンブレムなんかより、写真に写る笑顔の方が何百倍も眩しい!

「あの、番さん、私、……必ず刑事になります。あなたの背中を追いかけるから、それまで刑事でいてください!」

彼の正義を邪魔しないよう考えぬいた、自分なりの精一杯のアピールだった。
番さんは目を瞬かせた後、私の大好きな笑顔を満面に浮かべて、「ウム! 共に市民の安心安全を守ろう!」とぽんぽん頭を撫でてくれた。会えただけでも奇跡なのだから、ステップを飛び越えていきなり付き合ってくださいなんて、あまりにもバチ当たりだと思った。
今は子ども扱いでもいい。恋愛重視でアプローチするのは、彼と同じステージに立ってからにしようと心に固く誓った。

◇◇◇

「番さぁーん!」
「ぬおおッ!!!」

番さんが大きな声を出したせいで動きを止めた周りの人達も、ああまたか、みたいな顔をして元の仕事に戻っていく。
非日常を日常と思わせたら勝ちなのだ、この世の中は。
番さんの背中を追いかけ続け早数年、晴れて刑事になれた私は、とても充実した刑事ライフを送っている。

「コラ、なまえくん! いきなり大きな声を出すのは非ジャスティスだと言っただろう!」
「……ふーん。良いんですか、私にそんなこと言って。弁護士さんに情報漏らしてること、ユガミ検事に言いつけちゃいますよ」
「ぐ……なまえくんは手厳しいなあ……」

人差し指を合わせていじける彼が見たくて、つい意地悪してしまうこともあるけど、刑事になれるまで会うのを辛抱したのだから許されたって良いはずだ。
そんな自分勝手な暴論を振りかざしても、結局は私を許してくれるのだ。初めて会った時のような、爽やかな笑顔で。
ああ、この人と一緒に仕事ができるなんて、なんて幸せなんだろう……そんな喜びを噛み締めていると。

「……ところで、なまえくん。キミに訊ねたいことがあるのだが」
「はい、何でしょうか?」
「ユガミくんが追っている『例』の調査を、キミも任されたというのは本当だろうか?」

レイバンのサングラスをきらりと光らせながら、番さんは声を潜めて私に耳打ちした。いつもより近い距離感にどぎまぎしつつも、私はゆっくりと頷いた。

「……そうです。でも、事件を完全に把握しているわけでもないのですが……」
「なまえくんのようなか弱い女性まで私的な調査に駆り出すとは……全くもって非ジャスティス! どれ、ジブンが直談判しようではないか!」

今にもユガミ検事の元へ走り出そうとする番さんの腕を、慌てて掴んだ。

「で、でも、与えられた仕事を放棄することだって非ジャスティスだと思います! それに、ユガミ検事が私に頼むのはほとんどが書類のダブルチェックくらいですし、私だって役に…………番さん?」

ふ、と影を落としたような彼の無表情に、なんだか胸騒ぎがした。脳裏でぐるぐると回る今までの思い出に、ほんの少しだけ違和感が芽生えたのだ。

あの時、王子様みたいに私を助けてくれた番さん。
交番で再会した時、私の頭を撫でてくれた番さん。
そして今、私の目の前にいる番さん。
どれも同じ番さんのはずなのに。なんだろう、この底知れないような不安は。

「どうかしたのかね、なまえくん? 顔色が悪いようだが……無理は禁物だぞ?」
「い、いえ、なんでもないです」

にっこりと笑った番さんは私の手をぎゅっと握って、警視庁の玄関口へと向かっていった。

「よし、昼時も近いし、レストランまで走ろうではないか!」

彼を怖いだなんて思ってしまったことは、やっぱり私の勘違いみたいだ。
だって私の知る彼は、初めて会った時と同じようにキラキラと輝いていて、太陽みたいにあたたかい人のはずだから。
それに、もし番さんが――――だったとしても、彼の隣にいたい気持ちはこれからもずっと変わらないだろう。

体の端から感じる温もりにどきどきしながら、つられたように私も笑った。