- ナノ -



なまえは驚いて王泥喜を見たが、今度は目を合わせてはくれなかった。武器として温存しておくため、敢えて黙っていたのだろうか。
牙琉も目を瞬かせた後、微笑を浮かべて首を横に振った。

「……フッ、どんなトチ狂ったことを言いだすかと思えば。つまりおデコくんは、被害者が『自殺した』という都合のいいストーリーを夢見てるってワケかい?法廷内のオーディエンスも納得できるだけの、確かな証拠はあるんだろうね?」
「いいえ……夢なんかじゃありません。裁判長、ここで新たな証拠品を提示します」
「ふむ。この書類は一体なんですかな?不思議とどこかで……」

「被害者から預かった、遺書ですッ!」

◇◇◇

法廷が大きく響めく。裁判長が何度か木槌を叩いたが、騒ぎが沈静化するのにしばらく時間がかかった。
牙琉は唇を震わせながら、王泥喜に指を突きつける。

「…………お、おデコくん!どうしてキミは、その証拠品を最初から提出しなかったんだ!」
「牙琉検事、落ち着いてください。この書類……どこかで見覚えがありませんか?」
「……こ、これは、復讐計画書……?」
「はい。注目すべきは裁判長が先程読み上げた、"これで、全て終わらせよう。あの時関わったヤツらに、少しでも苦しみを味わわせてやりたい"の部分です。一読すると遺書だと思わないかもしれませんが、被害者が自殺だと仮定した上で、もう一度確認してみましょう」
「あ……あアアアアッ!」

不協和音が流れたかのように、牙琉は表情を歪めて机を叩いた。

「"終わらせよう"としたのは……被害者自身の命だった……」
「……はい。数年前の横領事件で、彼は全てを失った。当時法廷の場にいた関係者達が、自分の幸せを奪ったという妄想に取り憑かれたのでしょう。当時の関係者を訴えるだけでは足りない、すぐにでも一矢報いることが出来たら―そう考えていた時です」
「……事件当日、カフェに入店した被告人を偶然見かけてしまった……」

王泥喜は腕組みをしながら、首を縦に振った。

「オフィスビル内にあるカフェの出入り口は、ドアもなく広々とした設計になっています。そのため被害者は遠目からでも、被告人の姿に気がついたはずです。ただ、すぐに被告人の後を追ったわけではなく、トイレなどの人目につかない場所で毒を飲んでから入店したと思われます」
「……何故、そう思うんだい?」
「着席してから服毒しても、毒が回る前に被告人が退席する恐れがあったからです。千載一遇のチャンスを、どうしても逃したくなかったのでしょう」
「…………」
「被害者が直接服毒したならば、カップに痕跡も残らない。毒が全身に回る前に、被害者は辺りのものをなぎ倒してカモフラージュしながら、被告人のカバンに薬瓶を投げ入れた―こう考えると、スジが通るんです」

水を打ったように静かな法廷に、王泥喜の声が反響する。なまえも固唾を飲んで、話の流れを見守った。

「ふ、むう……しかし、被害者はなぜそんな回りくどいことをしたのでしょうか?もともと名誉毀損で訴えるほど被告人を憎んでいたのであれば、被告人に毒を盛る……というのが自然な流れでは?」
「いいえ、それは出来なかったのです。カフェに入る前まで被害者は、オレと面談していました。もし被告人が毒で殺された場合、彼の素性を知っているオレは警察に間違いなく証言するでしょうね。"彼は毒薬を持っていた"……と。逮捕されたことで全てを失った経験のある彼にとって、自分が捕まることは死よりも余程恐怖だったのです」
「!な、成る程……しかし、一度その手を使ってしまうと、他の事件関係者に復讐を遂げられないのでは?」
「片っ端から訴訟を起こすつもりだったとは言え、ほとんど勝ち目がないことは被害者も分かっていたはずです。勝つ望みのない勝負に挑むか、標的を絞って確実に実刑を食らわせるか……天秤にかけた結果、今回の事件に繋がったと弁護側は考えます。それに、名誉毀損罪よりも殺人罪の方が、量刑は遙かに重いですしね。自分のイノチと引き換えに、計り知れない精神的苦痛を被告人に味わわせようとしたのでしょう―かつての自分と同じように」

深く息を吐いた裁判長はしばらく沈黙した後、検事席に問いかけた。

「……いかがですか、牙琉検事。弁護側の主張にムジュンはないように思えますが……?」
「ま、まさか……そんなバカな……」

構わず王泥喜は息を深く吸い込み、とどめの一撃とばかりに人差し指を鋭くつきたてた。

「そもそも、被告人が毒を入れるところを見ていない証人を、召喚したのは検事側です。これ以上被告人が毒を入れたと言いがかりをつけようとするなら―検事側から決定的な証拠を提示してくださいッ!!」
「ぐ…………ぐおおおおォォッッ!」

◇◇◇

「……さて。多少意外な結末ではありましたが、ようやく我々は真相に辿りついたようです。双方とも、もう異論はありませんな?」
「弁護側、異論ありません」
「…………フッ、予想以上の熱いギグが楽しめたよ」

リズミカルに指を鳴らしながら、牙琉は王泥喜と被告人席のなまえに微笑みかけた。
一方で、裁判の一部始終を見届けていたなまえは放心状態に陥っていた。書記官として数え切れないほど法廷に立っているのに、立場が違うだけで気持ちの在り方がこれ程までに違うなんて、想像できなかった。
呆然としているなまえに気づいた王泥喜は、焦りを含んだ声でなまえに呼びかけた。

「なまえさん、大丈夫ですか?」
「………………」
「話の流れにまだ心が追いついていないのでしょうな。私もよく経験があるのでそのキモチ、痛いほど分かりますぞ。……それでは、後のことは弁護人にお任せするとして」

裁判長は弁護側と検事側に視線を向けた後、木槌の柄を握りしめた。

「被告人・みょうじなまえに対し、無罪判決を言い渡します!」

閉廷の木槌が、大きく振り落とされた。