- ナノ -



暗くじめじめとした監獄に、外の光が差し込む。ここを気軽に尋ねて来られる部外者など一人しかいない。
なまえは視線だけを男に向けた。

「やあ、やあ。なまえくん、元気かな」

監獄に足を踏み入れた男は大して気にした様子もなく、看守を一瞥した。
案内した看守が男に敬礼して、扉が鈍い音を立てて閉じられたあと、再び静寂が満ちる。

「ああ、牢の鍵はしっかりと閉じられているね……やっぱり、自分で確認しないと安心できないなア」

いくら知り合いが管理する刑務所といってもね、と一柳は微笑んだ。
かつてなまえの上司だったこの男は、ほぼ毎日この場所を訪れる。

「ここに入ってくるとき、泥だらけの犬や猫がいっぱいいてさー……アニマルセラピーって言うの?そういうのウトいから、どんな効果があるのかよく分からないけれど」
「……」

男がここに来てすることといえば、今のように喋りかけてくることくらいだ。それも、かなり一方的に。
当のなまえは、収監した張本人と和気あいあいと話す気は毛頭ないので、どうしてこんなことになったのかと自身の過去を振り返る日々を送っている。

◆◆◆

結婚の約束をしていたなまえの恋人は、ある日突然帰らぬ人となった。書き置きも何も残されておらず、鍵のかかった自室で一人首を吊っていたらしい。現場からは恋人の指紋しか検出されなかったため、初動捜査の時点で事件性なしと判断されてしまったのだ。
誰が見ても"自殺"としか考えられない状況だったし、現場に立ち会ったなまえが血眼で証拠を探しても、争った形跡や不審物すら見つからず、結局立件することが出来なかった。

(どうして、どうして、あの人が)

検事としての任務をこなす傍ら、どうしても恋人の不可解な死を受け入れられなかったなまえは地道に調査を続けた。ファイルにまとめた現場写真を見返しては現地に足を運び、近隣住民に聞き込みを繰り返した。

そしてついに、事件当日に現場付近を通りかかった人物が見つかり、面談の約束を取り付けた日のことだった。
なまえの執務室にわらわらと警察がなだれ込んできて、とある凶悪事件の容疑者として身柄を拘束されたのだ。なまえにとっては当然身に覚えのない事件だったので、自ら潔白を証明するつもりでいた。
しかし、事件の担当検事―なまえの目の前にいる男だ―が公判で提出した捏造の証拠が、正式に受理されてしまったのだ。

「現場に残された凶器を調べたところ、被告人の指紋が付着していた。紛れもなく決定的な証拠である」

なまえや担当弁護士が捏造だといくら訴えても、裁判官の心証は悪くなるばかりだった。有罪判決が下された時に高笑いした一柳の姿に、ようやくなまえは察したのだ。ずっと手の平の上で踊らされていたのだと。
◆◆◆

「……なまえくん、僕を無視しないで欲しいなア」

一柳の低い声が鼓膜を震わせて、はっとなまえは現実に引き戻された。いつのまに牢の鍵を開けていたのか、男はなまえのすぐ目の前にいた。なまえは悲鳴を上げそうになったが、そんなことをしても相手が喜ぶだけだと分かっているので、何とか声を抑えた。

長い牢生活で冷たくなったなまえの手を、一柳は壊れ物を扱うかのように両手で優しく包み込む。男から伝わる温かさに、なまえは生理的嫌悪感を覚えた。

「収監されても検事の身分を失わないケースなんて、滅多にあることじゃあない。これだけでも、僕がどれだけキミに心を砕いているか分かるだろう……?」
「……」
「もしキミの気が変わって、僕のものになってくれるのなら、すぐにでもここから出してあげるよ。生きる時間をこれ以上ムダにすることなく晴れて自由の身だ。輝かしい未来を約束しようじゃないか」
「…………、あの人がいない人生なんて、死んだも同然なので」

ふ、と自嘲気味に笑うと、一柳の表情が初めて歪んだ。自身の感情を落ち着かせるためか、ライターで付けた火を左右に揺らしはじめた。

「キミが口を開くのは、いつもあの男のことばかりだね。……気分が悪くなるよ、ホント」
「正常に愛することができない貴方には、一生分からないと思います」
「……へえ、言ってくれるね。なまえくんこそ、僕がどんなに苦労してこの状況を実現したかなんて、想像もつかないだろう?僕ほど君を、あ、愛している男はいないのに」

一柳は涙をほろりと落とした。それが本心からくるものとは思えないなまえは、何故、どうすれば、とブツブツ独り言を呟く男に冷たい一瞥を投げた。
それにも構わず、やがて自分が納得できるロジックに辿り着いたと見える一柳は、ライターをジャケットの内側にしまった。

「……ここで飼い殺しにするのも悪くはないんだけど。キミ自身の意思で僕を選ぶ日を、気長に待つことにするよ」

それまで此処には来ないと言い残して、なまえに背を向けた一柳は牢屋を後にした。
しかし、すぐに男はなまえの元を訪れるのだ。彼女の変化を待ち焦がれるように。何度も何度も。
再び静寂を取り戻した空間の中、なまえは震える手をぎゅっと握りしめた。