デッドマンズQの吉良としのぶと早人
心が在れば



薄く覚醒し出した意識を引っ張ったのは、家全体に漂う甘いチョコレートの匂いのせいだった。「今日はバレンタインデーか…。」川尻早人はベッドから飛び降りて、頭を掻きながら一人で呟いた。
昨日の夕食時、あんたの分も作るからね。そう言った母親が朝から張り切っているのだろう。手が止まった。あんたの分って、他に誰の分を作るっていうんだ。
分かっていたことだが、少女のように笑う母親の表情に、言葉をなくす。うん、楽しみにしてるよ。そう笑う事しか出来なかった。

「おはよう早人」
「おはようママ…」

朝の挨拶、会話、コミュニケーション全て。皮肉な話だが、しのぶと早人がそれらを交わすようになったのは、彼がいなくなってからの話だ。
顔を洗って湯気を立てる朝食の前に腰かけると、更の横に小さな包みが置かれた。

「ハイ、バレンタイン」
「ありがとう」
「ママったらバカね。気付いたら二つも作っちゃった。…昨日も浮かれてたわ。変なこと言っちゃってごめんね」
「…ううん。気にしないで。あとで食べるから。学校行ってきます」
「ええ、行ってらっしゃい」

特別遅刻しそうなわけでもなかったが、しのぶの表情の痛々しさに、たった11歳の少年の心が耐えられるはずもない。
慣れることなく思わず溢れそうになる涙をこらえながら、逃げるようにランドセルを担いで学校へと向かった。



クラスで特に喋った事のないような奴でも、キャッキャとはしゃぎながら、チョコレートを渡してくる。
本当は学校内で渡すのは禁止だというのに、持ってきてしまう。女子っていうのはそのやってはいけないことをしているというその感覚が好きなのだろうか。よく分からない。
義理なんて返すだけの損なものじゃあないか。どーせ本命なんて一つもないくせに。
期待なんて別にしていなかったが、想像よりもらえた事に複雑な想いを抱えながら帰宅すると、ちょうど玄関に靴を履いている所の母親の姿があった。

「あら、おかえり」
「…ただいま」
「チョコレートもらえた?」
「…別に」
「ふぅ〜ん…。あ、ママ買い物行ってくるから、お留守番しててくれる?」
「分かった…」

―――別にという返事の割に…。
唇を尖らせてそっぽを向いた早人の様子に、猫のような目でじろりと頭上から足先まで見つめて、にやっと笑った。
踵をトントンと鳴らして、買い物へと向かう母親を見送り、リビングへと戻る。ランドセルを放り投げてソファに飛び込み、深いため息をついた。
視線の先に朝の包みがそのまま置いてある。
その横には違う色をしたラッピングの箱があった。何故だかそこだけ妙にシンとした空気を感じて、胸がずきりと痛んだ。



S市杜王町という所はおだやかな所で、緑と青空の比率がちょうどよく美しく、わたしは此処を歩くのが好きだった。
普段借りるのはマンションの方が圧倒的に多かったが、所謂気まぐれというやつだ。
通りがかりの一軒家の家から、母親らしき女性が出て行くのを見た。閉まりかけの扉にちらりと映ったのは、おそらく少年の姿だ。
小学生のようだったし、あれならばさほど苦もなく忍び込めるだろう。
わたしは気まぐれで、その家のインターホンを鳴らしたのだ。
ピンポーンと無機質な音が耳を刺す。散歩をする犬の鳴き声が後ろを通り過ぎた頃、随分と訝しげな声で「ハイ」と先ほどの少年らしき人物の声がした。

「光丸デパートのものです」
「…あー…今親いないんで」
「ハンコかサインを頂いて、受け取るだけで大丈夫ですよ」
「はぁ、わかりました…今行きます」

慣れたものだ。いつものやり口でおびき出す作戦に出ると、さすがに子供だからか折れるのは早かった。
私がいないときは出ちゃだめよ。とかそんな感じで母親から教育は受けてるだろうが(受けていなかったら、と考えるとおぞましい物がある)こういわれると断るのも中々難しいものだ。
そして「わかりました」この一言さえあればいい。許可を得た。わたしは扉が開く前に、そこを通り抜けていった。
入口を抜けると正面には階段があって、二階へ通じている。大層立派な家だった。

「…?」

瞬間、胸の奥がどくりと音を立てるのを感じた。
一体なんだろうか、生憎わたしは生前覚えていることが一つもない。
ただ感覚として分かるのは、例えるならば"懐かしい"という感じだろうか。

「はぁ…ハンコやっと見つけた…」

インターホン越しに聞こえたものと同じ声が、リビングの向こうからこちらへやってきた。もう帰っちゃったんじゃないかな。とかブツブツ独り言を言いながら。
まあ本当の運送屋だったならば帰ることはなくても相当苛ついているだろうな。とかなんかそんなことを考えた。
わたしは余裕だった。見えないようになっているのだから。そう人の独り言の揚げ足を取るのもなんてことはない。いつも通りだった。

「…え?」

少年が自分の元を過ぎるのを待っているつもりだったが、少年がこちらを向き、今にも瞳孔が開きそうな目をしてこちらを見ていた事に気付くのに時間がかかった。
まさか、と胸がざわめく。片手に握られた判子が震える手から零れ落ちて、カツンカツンと音を立て転がって行った。
しかしそれどころではない。少年の口がガタガタと震えはじめる。青ざめた顔から、冷や汗が滝のようにあふれだしている。

(このガキ、オレが見えているというのか…!?)
「あ、あ、」

今まで"見える"犬とかに出会って散々な目にあったことはあったが、人間はなかった。まさか、子供には見えるやつがいるとか…?果たしてそんなファンタジックな話があるのだろうか。

「お、おまえ」
(まずい、脱出しなくては!)
「ま、待て!」

背を向けたが、足がびたりと止まってしまう。なんだ?なぜ動かない?
嫌な汗が伝うのを感じながら静かに振り向くと、そいつはわたしを今にも殺しそうな目で(既に死んでいるが)睨みつけていた。
ドッドッと心臓の鼓動が早くなる。この小僧は一体なんだ。
わたしは目の前の少年が、幽霊という向こうからしたら全くもって非科学的な存在を目の当たりにしているので、ここまで恐れまくっているのだと思っていたが、まさか違うらしい。
その目は、この吉良吉影を見ていた。

「何しに来たんだ…。お前にこの家にあがる資格があると思っているのか…?ママに会いに来たのか?ふざけるな…ふざけんなよ!」

少年は喉が引き裂けそうな声で叫んでいた。その衝動でたまった涙が次々にボロボロと落ちていく。

「それとも、死んでなお僕たちを呪いにきたってのか…?いい加減にしてくれよ!さっさと成仏しろよ!お前の!お前のせいで!僕のママはお前のせいで…っ!」

嗚咽が言葉の邪魔をする。少年は膝から崩れ落ちて喉を鳴らしながら泣いていた。
わたしが物凄い剣幕でまくし立てられていることは重々承知しているが、その言葉の意味は理解しろと言われても無理な話だ。
最近はツイてないな…。平穏とは程遠い、随分と面倒な場所に来てしまったらしい…。

今なら逃げることも容易だ。あの母親ももしかしたらわたしのことが見えてしまうかもしれない。
動かなかった足も大丈夫そうだ。

「フー…失礼したな」
「…!こ、殺さないのか…」
「わたしは君を知らない。全ては気まぐれだ」
「…!」

歯をギリギリと鳴らし、やりきれないような顔をして、少年はリビングへと戻っていった。
わたしはもう一度フーと息をついて、その場を後にしようとする。気の抜けた瞬間、ヒュンと頭を何かが通り抜けて転がっていった。
最後の最後に包丁でも投げて来るものかと一瞬恐れたが、そんなものではなく、ラッピングの施された小さな箱のようだ。

「何しに来たんだ!ママに会いに来たんじゃあないのかよ!クソ!クソ!お前なんてまだ会う資格はない!僕が会わせてたまるもんか!でもママは待ってる!ずっと待ってるんだ!クソッタレのアンタを!アンタの分の、チョコレートまで作って…!」

少年の悲痛な声を背に、どうやらわたし宛ての物らしいその小包を拾い上げて、今度こそわたしはそこを立ち去った。

(しのぶ)

―――今頭に浮かんだのは?名前?
一瞬手の中にあったとおもったら、すぐ消えてしまった。どんなに考えても戻ってはこない。
空中を漂いながら箱を開くと、小さなチョコレートが幾つか入っていた。そういえば、今日はバレンタインだったか。甘いものは特別好きではないが、たまにはいい。
一つ口に入れると、妙に胸がうずまいて、感傷的な気持ちになった。
しかしそれもすぐ消える。今日も最初からやり直しだなんて、本当にツイていない。そう、今のわたしにとっては、今日の寝床を探す事の方が余程困難で、大事なことなのだ。


sunx 舌




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