初めて言葉を交わしたあの日、あの人の手の平に乗った椿を見て心を擽られてしまいました。

店先に植えられた椿を背負い呆気に取られているわたしを、無表情で見下ろしたその蒼い瞳の中に花の朱が良く映えて。
ぼとりと落ちる椿を見て不吉だと言う人も居る一方で、元より前から皆に愛されて来たこの花を、空と同じ色の羽織りを纏った彼は落ちたひとつを掬い上げわたしにこう言いました。

「落ちてなお、見目良い物は他にこそ無いだろう」

その表情で相反の言葉をわたしに告げ、彼がそっとわたしの手の平に落ち椿を乗せてくれたあの日から、わたしはいつもこの場所で彼の姿を探している。


慶応二年、十二月。
この頃になると彼とは少なからず顔見知り程度の間柄へとなっておりました。
相変わらず浅葱色の羽織りを靡かせて颯爽と京の町を歩く新選組を、避けて通る人が多いこの時勢。しかし、それも一顧だにしない彼をわたしは心より好いておりました。
道の向こう側から歩いてくる彼を見つけると、邪魔にならない様脇に避け、胸を高鳴らせながらその時を待ち、わたしはいつもほっと頬を染めておりました。
擦れ違う際、一度だけわたしを見た彼は相変わらずの無表情でゆっくり瞬きをしてくれるんです。それを見ると自然と笑みが零れ、頭が下がってしまう。この時は会話など無いけれど、わたしはそれだけで十分に幸せで…。いつも彼の姿を目にした後は、お仕事にもいまいち力が入らないくらいに思い煩いておりました。

「なまえ、変わりないか」
「はい、斎藤様も巡察いつもご苦労様です」
「いつも様はよせと言っているが。…それに、毎度思うがあんたの方が俺より良く働いている」
「そうでしょうか…、」

彼、斎藤さんいつも隊の皆さんを率いて歩いてくる時には目配せで済んでしまうのですが、いつの内からか一人足を返しわざわざお声を掛けに来てくださる様になりました。

「…すまない、もう行かなくては」
「はい、お気を付けてくださいね」
「ああ、あんたの顔を少しでも見れて…その、良かった」
「……はい、わたしもです」
「それに、本日も椿が見事だな」
「少しでも斎藤様…いえ斎藤さんの休息になれたらと切ってきたんですよ」
「……では、その花が落ちる前にまた見に来る故、待っていてはくれぬか」
「…お待ちしております」

束の間の時間。
まだ日も傾かない空の下、わたしと斎藤さんの唯一の交流は物の僅かで終りを告げてしまいます。特にどちらかが言い出した訳でもなければ、約束を交わした訳でもないのですが、それでもこうしてお仕事の合間にお声を掛けてくださるだけでわたしは見っとも無くも身体の芯から喜んでおりました。
何処へとも無く歩き去っていくその背中をじっと見つめ、いつの間にか人が行き交うその隙間に浅葱色が紛れて無くなるまで目で追って、その姿を心に刻むのです。

「また明日も、どうか逢えますように…」

そんな願掛けを毎度すると、漸く思い出した様に店へと舞い戻るのです。
今は季語で言う冬椿の季節であり、外にずっと居ると足先が凍ってしまいそうになる。わたしは火照る頬を両手で包むと、奥歯で幸せを噛み締めていました。

年も変わり慶応三年、一月。
相変わらずこれまでのわたしの日課は、巡察に訪れる斎藤さんと少ない言葉を交わし一人喜び暮らす事が主になっていて、特にそれ以上を望んでいた訳では無かった。
でも、この頃から斎藤さんはお忙しいのか、あまり巡察する新選組の列の中に彼の姿をお見掛けする事が無くなってしまいました。その日も、いつもにこにこと笑顔を纏った茶色毛の方と、赤い髪の寒そうな衣を着た方が京の町を歩いて行きます。

勿論、彼以外の方とお話をした事が無いので、聞こうにも出来ませんし…ただ毎日目も暮れず通り過ぎていく浅葱色群を眺めている他ありませんでした。

ぼとり、また一つ落ち椿がわたしの足元で悲しそうな音を立てて散りました。

「逢いたい、ね…」

無言でわたしを見上げる朱色を掬い上げ、あの日の様に手の平に乗せてそう語りかけても、当然の如く何も応えてはくれませんでした。「なまえ、変わりないか」いつもそう切り出し、さも通りすがりだと言わんばかりに逸らされた視線が、恋しくて堪らなかった。照れたお顔も、わたしとの目配せの時だけすっと細められる蒼も、何もかもがわたしの生きる糧へとなっていたなんて、この時のわたしは気付きもしませんでした。

そして、その日がやってきました。

同月の終りに、久し振りに浅葱色の先頭に彼の姿を見つけました。どきんと一度跳ねた胸を何とか収め、わたしは慌しく髪を整えました。今にも駈け寄りたい衝動を押さえ、斎藤さんの姿を目で追います。何だかいつもより無表情なのは、多忙ゆえお疲れになっているのでしょうか。

「ああ、どうしよう…、そうだ。昨日落ちたばかりの椿を贈ろう!」

少しでも気休めになってくだされば。
いつも店先の椿を見て「綺麗だ」と言ってくださる斎藤さんだからこそ、きっとお気に召してくれるだろう。
着物が乱れるのも気にせず奥へと一度引っ込むと、水に浮かべていたその一輪を掬い上げ外へと走る。ここで呼べたらどれだけいいだろう。ここで微笑みを投げてくだされば、どれだけ天にも昇る気持ちだろう。だから、わたしは今日も、引き返しさり気無く声を掛けて頂く事を、この場で待つのみでした。

「…あ、」

目の前を歩く斎藤さんは、この時。
一度もこちらを見ぬままいつも通りの無表情で真っ直ぐ前を見据えていました。
いつもの目配せも、瞬きも、何一つ無いまま、その背中はわたしの前を通り過ぎていく。ざ、ざ、と揃った足並みは崩れる事無く京の町を進んでいきます。手の中にある椿が、一度だけ手の中で踊り、そして後ろでまた一つ一生を終えた音がぼとりと聞こえてきました。

それから、相も変わらずこの場に留まったままのわたしの手の中で、変わらず美しかった赤は萎れ黒くなっていきました。待てど暮らせど現れない彼の姿を追い、空を見上げては溜め息を漏らし、足先が凍ってしまってもわたしはじっと待っていました。
気付いて貰えなかったのでしょうか…。しゅんと肩を落とすが、無常にも陽は傾くのを止めません。後ろで落ちた椿も、いつの間にか人に踏まれ潰れてしまっています。

「明日は、逢えるでしょうか…気付いて貰えるでしょうか、」

いつの間にかよれて小さくなってしまっている椿に話掛け、諦めようと踵を返した時だった。

「あ、斎藤様っ!」
「……………、」
「お久し振りにございますっ!逢いたかった!」
「……………、」
視界の隅に映った浅葱色に混じる黒を見つけ、顔からぱっと華が咲いた様な笑顔がこぼれました。
しかし、わたしが駈け寄ったのを機に足を止めてくださった斎藤さんは、相変わらず無表情で真っ直ぐ前を向いたまま何も言葉を紡ごうとしませんでした。わたしが見上げたのは彼の前髪が垂れて隠れた横顔だけ。それにちくりと痛んだ身体は、必死に言葉を貰おうと前に出ていました。両手で包んだそれを差し出して、一番見せたかった笑顔を作ると、次に振ってくるだろう彼の照れ笑いを思い浮かべて温かい声を期待したのです。

「少し、萎んでしまいましたが、あのこれをよかったら、」
「…………いらぬ、」
「…え、」
「俺は忙しい。あんたに構っている暇など無いのだ。他をあたってくれ」
「さ、斎藤…様、」

今まで聞いた事が無いくらい低い声で、「失礼する」と続けた斎藤さんは一度もこちらを見る事無くわたしに背を向け歩き出す。
差し出した両手をそのままにして、固まってしまった思考と身体はその背中を最後まで見送る事すら出来ないで居て。寒さで赤くなった指先とは似ても似つかない、黒く汚れた椿が代わりに、わたしをじっと見つめていた。

何で。どうして。

そしてまた。あの日から…あの浅葱色の中に彼の姿を見る事はなくなりました。

次々散っていく椿を掬う事もしなくなったわたしは、抜け殻の様に日々を過ごしておりました。いつの間にか外に居ても足先は凍る事が無くなり、季語も移り変わり春を越し、熱い季節がやってきても京でその姿を見る事は無くなりました。あの時わたし達を繋げてくれた椿も季節を終えそれぞれの花を落とし緑葉の季節になった頃、わたしはいよいよ実感しておりました。
あんなにも毎日が輝いて頃の事を思い出しては、心が痛み。空を見るだけで涙が出そうになりました。斎藤さんはこの空の下で今何をしているのでしょうか。
最後に見た横顔は凍えてしまいそうな程に冷たく、最後に聞いた言葉はまるで刺の様に低く尖っておりました。わたしの存在は、やはり迷惑以外の何ものでも無かったのでしょう。きっと毎日がお忙しい彼だからこそ、あそこで期待を持たせない様取り計らってくださったんだ。

舞い上がっていたのは、わたしだけ。

また暫くすれば秋も過ぎ、また椿の季節がやってくる。
それでも今までと同じくその儚い落ち花を愛でていられる自信なんてありませんでした。斎藤さんはもうわたしに目配せも、温かいお言葉も、そのお姿も、何もかも残してはくださいません。だったら、もう忘れる他無いのです。

ただ、自分の為に生きる事だけをすればいい。あの樹の様に、いつかは落ちる物だから。人も、同じ事なのだと己に言い聞かせて、わたしも今日は店先に立ち心とは裏腹にその背中を探していた。



そして、慶応三年、十一月の事。その日は突然やってきたのです。
相変わらずこの頃になると、見事な花を咲かせた椿の木を背後にぼうっと地面を眺めていた時の事でした。いつの間にか再び凍えそうな寒さの中、颯爽と歩いてくる一団の中に、懐かしい彼の姿を見つけたのは。
お久し振りに見た彼の姿は、矢張り誰よりも凛とし、真っ直ぐ前を向き、相変わらずの無表情で町人の中心を割って歩いて居りました。
余りにもお変わり無かった故、心が痛む反面どこかでほっとしておりました。生きていてくださっただけでも…それだけで十分ではないでしょうか。
ぼんやりと滲み出した視界の中、わたしはまだ遠い彼の姿に一度お辞儀をしました。
もうきっと交わる事が無い視線だけれど、一方的に見ていればそれだけでささやかな喜びへと変わる日が来る。

くるりと身体を返すと、今年も相変わらず見事な華を咲かせた椿の朱色がわたしを見降ろしていました。





「まき、変わりないか」

目の前で、早咲きの華がひとつ落ちたのと同時。懐かしい声が、わたしの背後に掛けられました。その声は、何度も何度も夢に見たあの日の低い声では無く、相も変わらず真っ直ぐでとても心地の良い響きを持ってわたしの身体を震わせたのです。

「…以前はすまなかった。あんたに酷い事を言った」
「……っ、」
「あの日より暫く新選組を抜けなくてはならぬ事情があった…、それがいつ終わるかも解らなかった故、どうして振舞えばいいかあの時の俺には…」
「…っ、ふ、っ、」

まだ沢山隊士の方達が居るにも関わらず、そっとわたしと並ぶ様に隣にやってきた斎藤さんは、今し方落ちたばかりの椿を掬い上げそれをじっと見下ろしながら、たどたどしく言葉を紡いでおりました。
わたしはと言うと、もう止める事すら不可能な位頬を濡らしていて、相槌を打ちたくても零れてくるのは、情けない泣き声のみで。きっと困らせてしまっているだろう、斎藤さんを見る事も出来ずただその場で立ち尽くしていました。

「………だが、何処に居ようと…いつもあんたの事を思っていた」
「う、…っ、」
「実が落ち路に浮かぶ此れを見ると、あんたが泣いているのでは無いかと心配になった。そして、季節が代わり緑葉だけになった苗木を見て、あんたは元気にしているだろうかと…いつも思っていた」
「わ、わたしもっ、ずっと…っ、逢いたかっ、」

そっとわたしの耳に髪を掛け、手にあった椿を飾る斎藤さんをやっとの事で見上げるとそこには椿と同じ様に朱色に染まった彼の笑顔がありました。


「やはり、落ちてなお…ここまであんたを飾れるのは此の花以外に見付からん」
「斎藤さんっ!」
「まき、俺はどうやらあんたを、」


思わず飛びついたわたしを、きちんと受け止めてくださった斎藤さんは、周りの方々から隠す様に羽織りを広げわたしの頭に頬を付けてくださいました。一層濃くなった椿の甘い匂いがわたし達を纏い、これから始まる季節に向け蕾を咲かせていきました。






いつまでも落ちず、あなたの傍で

(良く似合っているな、)
(あ、あの…斎藤さん、)
(どうした)
(み、皆様が、見てます…っ)
(なっ!?)


あとがき


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