三話
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 ひんやりとする廊下に全身の熱も吸いとられてしまいそうなそんな寒さが辛くなってきた如月。
 身を刺す空気を纏った廊下を拭き掃除していた私は体を動かしていた所為で幾分ましになってきた寒さに負けじと桶に雑巾を突っ込んだ。
「なまえちゃん冷たそう」
 後ろから覗いた千鶴ちゃんは副長に呼ばれて居たのだけどそちらの用事は済ませたのだろう手には雑巾と盥を持っている。
「廊下を往復していたら幾分ましになってきましたよ」
「私も頑張ろう!」
 そう言って雑巾を突っ込んだ千鶴ちゃんに頬を綻ばせるとまだ拭いていない所に其を滑らせた。
 お春さんは買い出しに行くと言っていたから千鶴ちゃんと二人の空間にほっとすると力が抜けてしまった。最近前にもまして増えたのだ、小言と言うべきなのか嫌みなのか…
 ただ変わったことと言ったら、他者が居るときは優しい。
何故私にだけ態度を変えるのかと疑問に思うけど誰にも相談できない私は彼女が居ないときは軽くなる気持ちにただ嫌味をいわれるからだけではなく、彼女の後ろにちらつく斎藤さんの影を見なくていいからだと思う。
 以前よりも増えたと感じたのは、そう斎藤さんと恋仲になってから。
 あれから二月、まだ斎藤さんへの気持ちは消える気配は無いけれどその気持ちの心の置き方を何となく分かってきたから割りと心穏やかに過ごせていた。夜になって布団にはいると勝手に涙が出てしまうと言うことも前よりは減った。ただお春さんのお小言は気が滅入ってしまう。
 千鶴ちゃんに気取られないように小さく溜め息を吐くと盥を持って立ち上がった。
「千鶴ちゃん、私あっち拭いてきますね」
「うん、私はこっち」
 そう言って微笑みあって分かれて仕事をすることにした。
広い屯所内全部を拭くとなると結構な重労働で時間がかかることから前日に出来なかったところから重点的にやることにしていた。
 ひたすら木目に集中してると二手に分かれた突き当りを今日は此方側だと目線は手元のまま人の気配が無いことを感じ取って雑巾を横に滑らせながら曲がった。無心に手を動かしていた私は微かに感じた気配にぶつかってしまっては大変だと手を止めて視線を上げると縁側に腰かけた斎藤さん。
 手元には日の光を反射させながら彼に手入れされている刀があって…
 綺麗だと見とれてしまった。
 背筋を伸ばし濃紺の瞳を真っ直ぐ向ける横顔が…
 はっと我に返ったのは眼前へと晒した刀に向けていた視線が此方に向いたから。だけど視線が絡んだのはほんの一瞬、斎藤さんからは何の感情も読み取れなくて私の存在自体を無いものにしているみたいで痛んだ胸に踵を返したくなる。
 けれどそんなことをすれば不自然で一方的な想いを読み取られないように拭き掃除する手に力を入れて彼の後ろを通るときに「ご苦労様です」と小さく口にした。
「なまえこそ、骨が折れるな。広い屯所故」
「え、」
 振り返った斎藤さんの瞳に移る私は目を見開いていて慌てて視線を外した私は頷くので精一杯だった。斎藤さんの瞳に移るのは何時振りだろうか…
 前はこうして縁側で刀の手入れをしている斎藤さんと話したり一緒にお茶を飲んだり同じ刻を過ごしていたんだ。懐かしむ気持ちでぎゅっと胸が痛んだのを悟られる前に盥の水を変える振りでもしようと立ち上がると背から聞こえて来た声に反射的に振り向いて後悔した。
「一さん、お茶でもどうですか?」
 買い出しから帰ってきたらのだろうお春さんが盆に二つの湯飲みとお茶請けを持って笑顔で斎藤さんの横へと腰かけるのが見えた。そんな二人を視界から追い出すように落ち着かない気持ちで曲がり角まで行くとそこに置いた盥を持ち上げようとして滑った手によってぶれた盥から水がばしゃっと溢れおちた。
「あっ、」
「なまえちゃん、大丈夫?」
「は、はい」
 少し離れた所からお春さんが掛けてきた問いに返事だけすると、手に持っていた雑巾をじわじわと広がっていく水溜りに押し付けた。拭き取ろうとしても思いの外沢山零れてしまったそれは今の私の気持ちのようになかなか無くなってはくれない。
 絞ってまた拭こうとして近くに寄ってきた彼女がまた「大丈夫?」と手伝ってくれようとしたので大丈夫ですと言おうと振り向いてその優しげな声とは不釣り合いなほど歪めた顔で睨まれていた。
 びくっと揺れる体にやはり他の人がいるところでは優しい。今のこの恐ろしく歪んだ顔も背を向けているから斎藤さんには見えていない。複雑な気持ちを隠せずに揺れてしまっているだろう瞳をお春さんから視線を反らした。
「お春ちゃん、そんな怖い顔で睨まないであげてくれる?失敗なんて誰にでもあるでしょ」
 頭上から言葉が降ってきて仰ぎ見れば口は綺麗に弧を描いているのに目は射るように冷たい沖田さんがお春さんを見下ろしていた。
「お、沖田さん」
「なまえちゃん虐めると、斬っちゃうよ?」
 斎藤さんまでは聞こえないだろう声量で口にした沖田さんはにこりと笑うのに底冷えするような顔に別の彼が居るようでぞくりと粟立つ背中。私を助けてくれようとしてくれているだろう彼を怖いと思ってしまった自分の気持ちに複雑になった。
「さあ、お春ちゃんは一君とお茶でもしてて?僕がなまえちゃん手伝うから」
 懐から出した手拭いを持って私の横へとしゃがむとそれを水溜まりになった廊下に着けた。
「お、沖田さんいいですよ!私一人でできますから」
「いいのいいの、僕がなまえちゃんを手伝いたいだけだから」
 そう言って私に微笑みかけてくれた沖田さんの顔はいつものそれでほっとした。
「ほら早く一君の所でもいって?じゃないと僕のなまえを虐める君を本当に斬っちゃうかも」
 お春さんはひきつったような不自然に感じる笑顔を此方に向けてから斎藤さんへと駆け寄ると盆を持ってから彼の手を引いて自室へと去っていった。沖田さんは庇ってくれるために言ったんだろうけど、"僕の"という言葉に少しだけ気恥ずかしい気持ちになってしまった。
 私はその気持ちを隠すように二人の後ろ姿を見詰めていた為か手が止まってしまっていたようで視界にぬっと入ってきた目の前の彼に焦って焦点を合わせた。
「もう、僕にばっかりやらせないでよね。溢したのはなまえちゃんなんだからね」
 不貞腐れたような顔をしながらも声音は優しく響いてきてなぜかほっとしている自分に沖田さんが助けてくれたことによってお春さんのお小言が幾らか軽く感じたことに感謝した。


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