一話
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 いつから……

 いつから私を取り巻く環境が変わっていってしまったのでしょうか……

 いつからだなんてはっきりわからないけれど……確かに私にも幸せな刻はあったはずなのです。


 廊下の隅で俯いて歪んで見えなくなる木目……やがて落ちる雫がそれを濡らしていく。泣いたら駄目だと思っても止まってくれないのは、先程告げられた現実に酷く絶望した私が居るからだと思う。
 
なんとなく寝付けなかった私は廁へ行くのに斎藤さんの部屋の前を通ると夜も更けているのにまだ行灯の明かりが付いていた。
 こんな刻まで仕事に精を出しているであろう斎藤さんに一息付いてもらおうとお茶を入れて尋ねた。
この行動は巡察に出ていなければ女中をしている私には当たり前の行動で、もう一人女中をしているなまえさんがいるけれど、斎藤さんは何時も私の入れるお茶がいいと言って下さって何時しか私が斎藤さんのお茶出し係りになっていた。
 以前この様に夜半にお茶を出しに行ったときにこの様な時刻に男部屋を訪ねるなど警戒心がないと叱られたけれど、寝ずに文机に向かっている斎藤さんを思うと見過ごすことはどうしても出来ない。
 叱られても仕方ないといつものようにその障子戸に声を掛けると短く返事が在ったので、傍らに湯呑みと簡単なお茶請けを乗せた盆を置いて戸を開けた。
「どうぞ」
 そう言って邪魔にならないように机に置いて立ち上がろうとした私に「待て」と静止の声が掛かった。
 その声がいつもより低く、私に一線を引いているような……
 初めてこの屯所へ来たときのようにまるで今までの私達の刻が無くなってしまったかのように冷たく感じられた声色に肩をぴくりと上げた私は「なんですか?」と小さく呟いた。夜半に訪ねたことを咎めるだけといった雰囲気ではない空気に身構えてしまう。
 何を言われるか想像もつかないけれど斎藤さんの放つ空気にきっと良くないことなのではないかと心臓がどくどくと速くなってしまった私は居たたまれなくなり両の手で持っていたお盆をぎゅっと握った。
 聞きたくないけれど……
 呼び止められてしまえば聞くしか出来ずに立ち上がろうとした腰を据えた。
「明日から茶を持って来なくていい」
「……何処か遠くへの隊務ですか?」
 今まで隊務で数日屯所を空けることはあった。その度にこうして声を掛けられていたので、今回もなんだといつもより低い声の斎藤さんに身構えて居た身体の力を抜いたのも束の間……
 次の言葉に大きく目を見開いた。
「……否。明日からはお春に頼む事になった故」
「お春……、さんに?」
 斎藤さんがお春さんに話し掛けたり親しい素振りを見掛けなかった私は益々分からないと首を傾げた。そんな私に放った斎藤さんの言葉は剣よりも鋭く私の胸へと突き刺さった。
「お春と想いが通じた、故」
「……え」
「あいつに入れてもらう」
 その言葉で私の頭は真っ白になった。斎藤さんと…お春さんが……
 此れが恋心を抱いていない相手に言われたのならば、そうですかおめでとうございます!と目出度い事にお祝いを言って笑顔を向けることだろう。でも、今の私が口に出せたことは「わかりました」と言う言葉だけ……
 その言葉が震えないようにする事で精一杯だった。
 私が部屋に入ってから出て行くまで、書物をしている手は休むことも無く濃蒼の瞳に私が映ることもなかった。泣いてしまわないよう、唇をきつく噛んで斎藤さんの部屋を後にした。
 こんな顔で誰かに会いたくない。
 けれど自室はお春さんとの相部屋……彼女は寝ているけれど今は何より彼女の居る部屋には帰りたくない。そう思うと廊下の隅で何処に行ってたらいいのか分からなくなってしまって佇むと着物をぎゅっと掴んだ。
 昨日までは…お茶を持っていけば手を止め「すまない」と言って此方を見てくれた。
その濃蒼に私を映してくれて、瞳の奥が少しだけ優しい色に染まるんだ。
 小さな変化だけれど毎日交される斎藤さんとの刻に少しだけど彼の読み取りにくい表情の変化に気づけるようになった。
 なのに……
 なんで今日は一度も私を見てくれなかったの……
 霞んでくる視界とずきずきする胸の痛みに耐えていると「こんな所で何してるのさ?」と頭上から軽い声が振ってきた。想いに耽っていて足音や、気配に気づかなかった私は弾かれる様に顔を上げた。
「……おき、た、さん」
 はぁ、と何故だか分からないけれど盛大に溜め息を吐かれてしまえば居た堪れない気持ちになって顔を俯ける私の手を引いて歩き出す。
「あ、あのっ…」
「……」
「お、おきたさん?」
 急に沖田さんに腕を引かれて歩きだした今の状況に着いていけない私は彼を呼ぶけれど無言のまま歩くだけで。
「おきたさん、」
「そんな辛気臭い顔で廊下に立っていたら幽霊みたいだよ。皆怖がるからとりあえず僕の部屋」
「へ?」
 確かに泣きそうではあったけれどそんなに辛気臭い顔をしていただろうか。でも、沖田さんの部屋に行けば今は会いたくないお春さんにも会わずに済むと思うと少しだけ救われた。
 勝手な私の片思いで、お春さんに会いたくないなんて思うのは私の我侭なのは分かっているけど。
だけど、今はどうしてもこの展開に頭がついていけなかった……
「…で、なんで君はあんな所で世も終わりみたいな顔してたわけ?」
「……」
「黙っていたって分からないじゃない」
 先程から黙って膝の上に置いた手を見て俯いている私に問いかけた沖田さんに黙りの私。少し棘のある言い方に目頭が熱くなって、ぽたぽた落ちてくるものを止められなくなってしまった。
 沖田さんの言い方が悪いわけではない。さっきの斎藤さんの言葉を思い出して溢れ出す涙を止められなくなってしまったんだ。
 泣き出した私に、「ちょ、ちょっと… …泣いたって分からないでしょ」と言った沖田さんの音色が優しくて益々涙が溢れてきてしまう。暫く泣き止まない私の隣へと胡座を欠いた沖田さんは、戸惑いがちに私の背中を撫でてくれた。いつも意地悪ばかり言ってからかわれるのに今はそんな雰囲気なんて微塵もなくて、「好きなだけ泣きなよ」と言ってくれた言葉にまた涙が止まらない。

「落ち着いた?」
「……は、い」

 私の傍らに座った沖田さんが小さく息を吐き出すと「それでどうして泣いたの?吐き出した方が楽になると思うけど…」ととても小さな声で呟いた。斎藤さんと仲の良い沖田さんはもうこの話を知っているのかもしれないけれど……
 人の色恋を他人に話すのも躊躇された。もし沖田さんが知らなければ私によって露見されてしまうわけで……
 それでも吐き出した方が楽になるという言葉に負けた私は口を開いた。
 だって、苦しくて自分の胸に留めておいたら壊れてしまいそうで。そのぐらい大きくなってしまった斎藤さんへの想いに胸を抉られると「斎藤さんに明日からお茶出ししなくていいって言われちゃいました」とぽつりと呟いた。
 眉間に皺を寄せた沖田さんは「そんなこと?痴話喧嘩なら、他所でしてよ。この世の終わりみたいな顔してたから部屋まで連れて来てあげたのに」呆れたように言うと、ごろんと畳に転がった。
「お春さんと恋仲になったから…だからお茶は彼女に入れて貰うって。沖田さん仲が良いですし知ってますよね」
 無理矢理笑うと、がぼっと起きた沖田さんに両肩を痛いぐらいに掴また。思わず「いたっ」と声が漏れ出てしまう程の痛さだ。
「なにそれ?お春ちゃんと?」
「い、痛いです、沖田さん」
 顔を顰めて身体を捻ると、「ご、ごめん」と焦った沖田さん。
「でも、なんで?君たちあんなに仲が良かったじゃない」
「…そうですね、でもそれは私の思い過ごしだった様ですね」
 そう笑うと切なそうに顔を顰める沖田さん。なんで、貴方がそんな顔をするんですか……

 私ちゃんと笑えてません、か……?



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