▼柵に囚われて(前編)



給湯室のコーヒーメーカーの前で我慢していた涙が一滴静かに流れる…

優しく拭ってくれる人などいなくて…
苦しくても誰にも言えない胸の内に全てを忘れられたらどんなにいいかと思っても犯している過ちは消えてはくれない…

コポコポ音を立ててコーヒーの香ばしい匂いが鼻をつく。
此を持ってくるように頼まれた人の顔を思い浮かべて胸を鷲掴みにされたように痛んだ。
音がしなくなったコーヒーメーカーの取っ手に手をかけ、マグカップに注いでいく。
このマグカップも彼の為にプレゼントしたもの…長い年月を彼だけに想いを寄せて生きてきたんだ。
私だけ。何時しか私だけが彼の為だけに生きている…
手の甲で、化粧が落ちないように涙を拭ってお盆に乗せて副社長室に向かう。

ドアの前まで来ると痛みだす胸に苦しい…逃げたいと告げる心。
それでも私は笑顔を張り付けてノックをした。
「はい」と返事が聞こえてお盆を慎重に片手で持つとドアノブを握った手が少し震えていて、笑顔でいれるか不安で瞳を揺らした。


『珈琲お持ちしました。土方副社長』

「あぁ。」

書類に目を通したまま…ちらりとも見ずに返事をした副社長の傍まで行くと机にマグカップを置いた。

『失礼します…』

踵を返そうとした私の腕を掴んだ副社長に肩が跳ねる。
お盆を脇に抱えて反対の手は捕まれている私は踵を返した所為で副社長に背を向けているから良かった…
こんな情けない顔晒せない…
たぶん今の私は泣き出しそうに歪んだ顔をしていると思うから…
軋んで痛くて仕方ない胸がそう知らせていた。

「…どうした」

『どうも…しません。業務に戻ります』

やっとの事で口にした言葉も震えてしまっていて鋭い彼には見破られてしまうだろう。
掴んでいる手をグッと引っ張られよろめいて副社長の方へとたたらを踏むと反対の手で腰を引き寄せられて椅子に座る彼の膝の上へ抱き止められてしまう。
お姫様抱っこの様に横座りにストンと彼の腕のなかに収まった私は俯いて…
やっとの事で言葉を吐き出した。

『副社長…離してください。』

「副社長じゃねぇ。二人の時はなんてぇんだよ」

『いつ誰が来るかわかりません』

「構わねぇ」

彼は、私が副社長と呼ぶのを嫌がる。
私だって呼びたくない…
彼が副社長だから…そのせいで私は未来を見れなくなって暗闇で一人ぼっちになってしまったから。

『私が気にします…』

そう口にした私に強引に唇を押し付けて口内を味わい暫くすると離れた唇。
激しくて息も絶え絶えで…
触れられて辛いのに…心が痛いのに、嬉しくて仕方ないんだ。

「今夜行くから待ってろ」

『…奥さんは?』

「関係ねぇよ」

そう口にした歳三さんも辛そうに顔を歪めていて…
今夜こそ…今夜こそ話そうと決意するしかなかった。
私が居るから彼は苦しくなるんだ。



歳三さんの車で一緒に帰宅していたのが何時だか思い出せないぐらい遠い昔になってしまった。

街灯が点々と点く薄暗い道を一人家へと向け歩いていた。
やはり、一人になると我慢できないのだ。頬に流れる滴を拭くでも無くただ歩く。
掠める風が涙の所為でひんやりと頬を冷やす。
熱くなった目頭には心地よいけど、心が冷たく凍りつくみたい。
あぁ、私本当に壊れちゃう…
限界だよ、歳三さん。

家に着き、只付けただけのテレビからの声で一人じゃないんだと不思議な安堵感が生まれた。
暫くしてチャイムが鳴り、宣言通り歳三さんが姿を現した。

『歳三…さん。もう終わりにしよう?やっぱり何時までも良くない』

ソファーに腰を下ろした彼の横には座らずラグの上へと正座して彼を見上げた。
俯いたまま何も言わない彼に口を開こうとした私より先に言葉を発した。

「なんで今更なんだよっ。何年も続けてきただろ?」

そう、不倫の関係になっても離れられなくてすがり付いていたのは私だ。

『奥さんを…大事にしなよ…』

「政略結婚だ。お互い恋人が居ようが関係ねぇ。 愛なんかねぇんだよ」

『それでも…』

そこまで口にした言葉は荒々しく口付けられた歳三さんの口づけで先を言うことが出来ない。
貪るような激しいキスに隙間から声が漏れてしまう。

『…ふっ…んっ……』

想いをぶつける様な口付けに胸がぎゅっと潰れるように痛くて息もまともに出来ない…
思い合っているのに…添い遂げられない現実に苦しくて仕方ない。



『…あっ…あぁっ…んっぁっ』

薄暗い部屋でベッドの軋む音と融合した箇所からぐちゅぬちゅと厭らしく響く、濡れ音…
歳三さんに組み敷かれて喘ぐ私はなんて浅ましいのだろう。
でも、気持ち良くて…歳三さんを身体で感じることが出来て幸せだと感じてしまう。
蜜壺は、彼の物を加え込んで離すまいと膣壁が轟いている中を擦られてひっきりなしに艶声が漏れる。

『ぁあっ、あぁん、はぁ…と…しぞう…さんっ!』

声を荒げて名前を呼べば、目を細めて微笑んでくれて…あぁ、ちゃんと愛してくれているんだと思うと目頭が熱くなる。
壊れ物に触れるように優しく降ってくる口付け…
首筋から胸へと降りてくる口付けは時折ちくっと痛みを伴い肌を朱に色付けて行く…
突き上げるように激しい行為とは逆に優しすぎる口付けから愛しいと言う歳三さんの想いが流れ込んできて目尻から滴が流れた。
腰を掴んで、早くなる律動の快楽の波に乞うことなど出来ずに、早急に背を駆け上がる感覚が私を襲う。

『ああっ!い…っ、ちゃ…ぁっつ!』

「…くっ」

『ああっ…あぁぁぁっ!!』

呻き声と共に、最奥に放たれた熱に身震いし薄れる意識の中で"誰よりも愛してる"と苦しそうな歳三さんの掠れた声がした……


私が目を覚ました時には歳三さんは居なくて…
怠い身体を起き上がらせてベッドに座ったまま歳三さんが居たと言う形跡を探すけど…
脱いだスーツも…パンツも…どこにも無い。
夢だったんじゃないかと思うけど…
乱れた衣服が夢じゃないと物語っていた。
いつだって、存在を確かめ合うような激しい行為に意識を飛ばす私に服を着せてくれるんだ。

『優しく…しないで』

両手で身体を掻き抱き震えた。
いっその事、私になんか酷く邪険に扱ってくれたらいいのに…嫌いになれたらこんなに苦しくなかった…
いつだって、あなたは優しくて、私を繋ぎ止める…狡い人。

二年前……当時、歳三さんと三年も付き合っていてそろそろ結婚でもと言っていたんだ。
そんな中、会社の経営が傾き会社のためにかなりの利益を生む取引先の娘と政略結婚をすることになってしまった。
結婚にショックを受けて…
私にはこの人しか居ないのにと真っ暗な未来に絶望するしかなかった。
でも…結婚する時に、互いに感情は無いから好きにすると決めたのだと言う。
奥さんにもその時から付き合っている彼が居たから…
いけない関係だとわかっていても此処から抜け出せない。
歳三さんをどうしても手放せなかった。
でも、私の心は限界だったんだ。
いくら気持ちが無いとは言え、愛する人が自分以外の人と結婚してしまった…
私を抱くように…あの人の事を抱いているかもしれないと考えただけで嫉妬で狂いそうだった。
それでも…それでも愛しているから一緒に居たかった。
だけど、世間的には私は影の存在…認められない存在なのだ。
彼との明るい未来など無い…
その現実に二年間苦しめられてきた…

泣きすぎて涙など枯れ果ててしまったんじゃないかと言うほど泣いたのに…
まだ出続けるそれをただ流して…
薄暗い部屋に、布団に顔を埋めて泣きじゃくる私の声だけが響いていた。



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