▼柵に囚われて(後編)



朝日が差し込む副社長室の窓からの柔らかな日差しとは裏腹に俺は、腕時計を睨んで舌打ちをした。

9時半を回ったってのになまえが出社してこねぇ。
何時もならこの時間には、一日のスケジュールも報告し終え、秘書室でデスクワークをしている筈だ。
なのに、一向に姿を現さねぇってどう言うことだ。
真面目なあいつはギリギリになることは稀だがあっても遅刻した事は無い。
一日のスケジュールを確認するミーティングか何かに時間が掛かってんのか?…それとも、もう俺とは会いたくねぇのかもな、と考えて複雑になる胸中に顔を歪めた。

昨日…別れを告げてきたあいつに焦って抱いちまってろくに話も聞いてやれなかった。
俺だってこんな関係で苦しんでるのを見ているのが辛くて…普通に幸せになる道を歩んだ方がなまえの為だと手放そうとしたことだってある…
だが、喉まで出掛かった言葉は決まって音になることは無い。
他の男に触れられると思うだけで、嫉妬で狂っちまう。
自分は結婚しといて、あいつの幸せを願ってやれないなんざ随分身勝手な話だよな。
短く息を吐き出すと開く気配の無いドアを見て困惑を滲ませた。
それにしても、放っておかれるのがこんなに面白くねぇとはな。
仕事だの結婚してからは前のようにあまり構ってやれなくなっちまった…
逆の立場になって放っておかれる気持ちがこんなにも鬱々しい気持ちになるとはな。
なまえは、いつも俺に合わせて尽くしてくれたからこんな気持ち知らねぇ。
改めてあいつの大切さを痛感させられて仕事も捗らず手元を弄ばせていると、ドアをノックする音に勢いよく顔を上げた。
会いたいと逸る気持ちを押さえ込み、返事をすると"失礼します"となまえでは無い声がして姿を表したのは、秘書の千だ。

「なんだ?みょうじはどうした」

俯いたまま、俺のデスクの前まで来て無言のまま差し出された書類の束に眉間の皺を濃くした。

「なんだ、この退職届は?」

書類の束の一番上には茶封筒に綺麗な字で書かれた退職届の文字…
この文字…俺は知ってる。目の前のこいつの字じゃねぇっ…
目をそこから離せず嫌な汗が出て不安に揺れた瞳で其を見つめた。
俺の勘違いであってくれ…

「みょうじさんのです。机から出てきました。その書類は…引き継ぎの為のもののようです。」

「……」

「……みょうじさんは出社していません。連絡があり渡してほしいと」

「…ふざけんな」ダンと机に拳を降り下ろすとジンジンする痛みが広がるがそんな所では無い…
スーツのポケットからスマホを出し、なまえの名前で通話を押す……
瞳は動揺で揺れ、冬で節電の為にそんなに暑くない筈なのにじっとりと嫌な汗が出てくる様な感覚かする。
電話口から聞こえてきたアナウンスにスマホが軋むんじゃねぇかってぐらい握りしめた…

「どうされました?」

「…どうもこうも、繋がんねぇよ」

「そうですか…解約したんですね」

目の前のこいつの落ち着き払った口調になまえが俺の元から逃げたのは全て俺の所為だと攻め立てられているようで苦しいくてしかたねぇ。
事実、あいつが逃げ出したのは俺の所為以外のなんでもねぇんだ。

愛する人を苦しめる以外出来ねぇ俺の存在価値ってなんだ?

なぁ、なまえ…

いつもみたいに笑って俺は俺のままでいたら良いって言ってくれ…

「あと…引っ越したとも言ってました。」

握りしめたスマホを握ったままの手を力なく机に置くと息を吐き出した。

「なぁ、一つ良いか…お前はあいつが何処に行ったか知ってるのか?」

俺を見詰めたまま見下ろして首を横に振った彼女から視線を反らして空中にさ迷わせた。

絶望の縁に立たされたやり切れない気持ちの滲んだ顔で「そうか」とだけ口にした。



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