斬り捨てよ、戦星

「ヒカルさあ」
「名前で呼ぶのやめてもらっていいすか」
「主将やんない?」
「やるわけないっしょ。つか聞いてんすか」
「やっぱり?」

まあわかってたけど。
そう言ってつまらなそうにするなら、最初から聞かなきゃいい。春先、プール開き前。プールサイドで陸トレに励む一年を眺めて呟く主将から、鼻を鳴らして視線を外す。物憂げな主将に遠慮した様子は露ほどもなく、篠崎光琉は悠々と柔軟に戻った。

「ていうか、『なんで私?』とか聞かないんだ」
「聞く意味あります?ハナからさせる気もないクセに」
「…っとに可愛くない後輩よね、アンタって」
「そんなら、その『可愛い』後輩から選びゃいい」
「よく言うわ、そうしない理由もわかってるクセに」

そう「しない」。篠崎はほんの一瞬だけ、前屈する上半身の動きを止めた。そう「したくない」ではなくなった。となると秋前の引き継ぎに、何らかの結論が出たということか。

ゆっくりと身を起こし、気取られぬ程度に視線を滑らせた。一つ上の敏腕主将の、瀬戸美波の視線が向く先には、十数名の新入部員が基礎トレに息を上げている。
篠崎は知らず、眉を潜めた。自然、剣呑な調子で言う。

「まさか、一年から引っ立てようってんじゃないですよね」
「人聞きの悪い言い方しないでくれる?」
「事実人柱でしょうよ」
「なら、アンタが代わりにやってくれるわけ」
「椅子に座るだけならいくらでも」

指名したけりゃ勝手にどうぞ、責任を果たすつもりはない。つまりそういう意味である。
間髪入れぬ切り返しの明け透けな無責任さに、さすがの瀬戸も睨みを入れた。知ってはいるが、この後輩の個人主義は筋金入りだ。どうでもいいものに対し、とことん無関心で心底冷徹。


「…アンタ『たち』がそんなんだから、一年なんかを犠牲にすんのよ」


飄々とした口ぶりに初めて苛立ちが滲んだ。隠しきれない悔しさと焦燥には、責めるような棘があった。

アンタ『たち』。篠崎は口を噤んだ。明記しておくが、間違っても傷ついたわけじゃない。そんな繊細さをこの唯我独尊たる少女が備えているはずがなく、天下の減らず口に切り返しが思い浮かばなかったわけでもない。

ただ、すとんと納得するところがあった。同族ではないが、同レベル。間違っていない。だから、口答えしようとは思わなかった。

たった一つしか変わらない、それでいて言葉にも背中にも歴然の差を感じさせてきた主将。年の割に未熟な後輩たちを好きに泳がせながら、揺るがぬ要として手綱を握ってもきた瀬戸が、初めて一つ下の後輩に対し顕にした苛立ちを、篠崎は淡々と受け止める。

そんならそうと、もっと早くに言えばよかったんじゃないすかね。「しょうもない派閥化やお友達ゴッコはやめろ」とでも。

思ったそれを、しかし篠崎は舌の根にしまっておいた。不遜で無責任な後輩だが、当人もそれを自覚している。世話になっている主将に対し、最低限の敬意示すだけの分別はあった。

瀬戸は辛抱強く、後輩たちの成長を見守り待つ姿勢でやってきた。篠崎の同期は──つまり篠崎を除いたメンバーのことだ──自分たちの部について関係良好と満足しているようだが、篠崎に言わせれば鼻で笑える勘違いだ。そんなめでたい錯覚をしていられるのは、一重に現三年の器があってのこと。

篠崎は同輩と群れない。彼女らの間に流れる生温い空気が、シビアだがストイックでもある彼女には覿面に不快だった。

びゅお、と初夏の風が吹く。温暖化の叫ばれる昨今では珍しく入学式の時点ですら七分咲きだった桜にも、青々とした若葉が揺れている。


『人柱』が発表されたのは、それから三ヶ月ほど先の、夏の終わりのことだ。






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存外辞めないもんだな。

人気の絶えたプールサイドの監視室で、ぱらり、部誌を流し見る。見覚えのある字を追いかけ、ページに人差し指を挟んだ。几帳面な字だ。日時、天気、水温、参加者、見学者、メニュー内容、留意点。追記部分には、体調不良で途中から早退した一年のことが仔細に書き込まれている。
同期であっても、書いた当人が保健室に連れて行ったわけではない。よく把握したものだ。

がちゃ。監視室の戸が無造作にあけられ、60度ほど開いたところで弾かれたように動きを止めた。監視室に人が残っているとは思っていなかったのだろう、肩を揺らして直立した水着姿の二つの目が、まず篠崎を、そしてその手の部誌を見つけて強張る。その様子をじっと見ていた篠崎に、開いたページの書き主は一拍置いて、思ったよりずっと落ち着いた声で尋ねた。

「何か不備がありましたか」
「…。いや?」

ぱたん。
篠崎は片手で部誌を閉じ、元あった本棚に適当に差し戻した。そして、監視室の開けた窓から、プールサイドを広く眺める。ラックにきちんと収まったビート板、整然と並ぶデッキブラシ、所定の位置の水面に浮かぶカルキ入れ。

もともと几帳面なタイプなんだろうが、おおよそ「外野に文句を言わせない」ための完璧さだろうと穿っていた。しかしこの様子からして、そう捻くれた性格でもないらしい。
なら、「認めてほしい」なんていう願いの表れだろうか。だとしたらお門違いだ、と篠崎は頭の片隅で鼻で笑うが、本心では何となく、そういうヒロインぶった甘ったれでもないだろうという確信があった。

肝の据わった無神経なタイプには到底見えない。随分表情に出さなくなった(それが二年連中にはまた面白くないんだろう)が、隙を見せれば嫌味の口実を得ようと突き刺さる視線を過敏に拾うアンテナは健在だ。今だって出会い頭に鉢合わせた自分へ、肩に入れた力は抜けていない。

でも折れない。辞める気配もない。

「…変なヤツ」
「…?」

言い残し、一つ下の新副将を脇に押しやるようにドアを潜る。背中に向けられた困惑の視線に応えることなく、篠崎は下の部室に向かった。

副部長の座を新一年──それも推薦組でも実力者でもない平凡種だ──に奪われた同期の反応は、篠崎の辛口な想像以上に稚拙そのものだった。その中学じみた嫌がらせと陰口とて、一つ下の、しかも実力の足りない副将には覆せない。
押しつけられた部誌、後片付け、隅のロッカーでひとり着替える部活終わり。

くだらない。反吐が出る。

部室の戸を突くように押し開ける。不機嫌を隠してやる義理はない。そんな配慮も篠崎には皆無だ。
皆に遅れて開け放たれた扉に、一瞬集まった皆の目が、そそくさと散らされた。それがまた鬱陶しい。

安心しな、アンタらが聞かれたくない陰口の矛先は、水着のまま監視室に詰めてるよ。押しつけられた部誌を書くためにね。

遅れてやってきた自分がプールサイドで何をしていたのか気になるんだろう。散ったくせしてまたちらちらと纏わる視線を、大雑把に脱ぎ捨てた水着で追い払った。






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ついにやりやがったな。


「名字」

何してるの。


落ち着いた声質の、それゆえに加わる圧が目に見える、気の立った問い掛けだった。

名を呼ばれた少女を責めるものではない。むしろ、ドアの向こうの日和見主義者共を射るための発声に聞こえる。
一瞬見えた練習着はTシャツに短パン。所属はわからないが、身の丈はかなりのものと見えた。一年男子。恐らく単なるクラスメートでなく、ある程度の事情を把握している。

「行こう」

交渉の余地を残さぬ声だった。コンクリの地面を擦るスニーカーの底がやたら響く。近づいてくる二人分の足音を、部室までの階段脇、角一つを挟んでじっと待つ。このまま下校するなら、こっちには曲がってこない。通り過ぎていくだけだ。思った通り過ぎ去って、そして。


「わたし、は」


足音が止まった。覚えのある声だ。でも、聞いたことのない色をしていた。


「好きで、っ」


好きで、副部長になんか、なったんじゃない。


(───そうだろうね)


くぐもった声が涙にひしゃげている。
ヒロインぶってるとは言わない。でもやっぱり甘ったれだ。
思うのは本心なのに唇が曲がった。


滅多に動かない心奥の何かが、滅多に痛まない心臓のどこかを突き刺してくる。今頃無様に狼狽ているであろう部室の連中へどろりと煮える腹の熱と、心の端っこをきりきりと握る苛立ちに似て違う何か。


水面を駆る横顔を思い出す。

詰られてもコソコソされても、人目に怯える弱さを隠し損ねても、水先を見つめる瞬間だけは名前の精神は一心だ。
何にも妨げられず、染まらず、ひたむきに研がれた脆くて薄い刃の眼。立場も重責も虐げも、あの刹那には触れられない。

大した速度を出すわけじゃない。体だってまだまだ発展途上、薄くてひょろくて低い水温ですぐへばる。
だが、無用な一切を寄せ付けないあの底無しの執着。何にも囚われない、濁らない、切迫した焦燥を飼い慣らした横顔。

そこにあるのは、名前当人にどれほどの自覚があるかは知れない、だが並々ならない泳ぎへの執念だ。


瀬戸の声が耳を刺す。

『アンタ「たち」がそんなんだから、』


(そうだろうとも)


だからこそ、美波サン。アンタ、人選ミスったと思いますよ。

遠ざかる足音を待って、篠崎は遠慮なく舌を打った。そろそろと外を伺う部員たちの、保身を囁く不安げな声が一層に不快だ。篠崎は顔を歪める。隠しもせず吐き捨てる。


やりやがったな。

気づいている。『やりやがった』のは、自分も同罪だ。






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「37.28」
「っ…!?」
「自己ベスト?」

ゴーグル付きでもわかる面食らった顔が、目を白黒させているのが見える。吊り下げたデジタル表記を突き出せば、呆けた視線が数字をなぞる。
タイムそのものについて言えば、多少速いそこらの中学生でも十分出せるレベルのものだ。強豪を語る梟谷では名を残すには不足も不足。
だが篠崎は基本的に、他人のタイムの優劣には興味がない。

ただ、ぽかん、肯定した間抜けな表情がまさに中学生みたいな幼さで、篠崎はそれが嫌いじゃなかった。

「あたしさあ」

名字の泳ぎ、結構好きだよ。

この後輩の泳ぎは綺麗だ。ストロークが丁寧で、バタ足も力強い。腕の重くなる400m終盤でさえ、爪の先まで揃えた小指から水面を斬る。

基本に忠実で水の抵抗の少ないフォームが速度に反映されないのは、スピードより持久に長じた長距離向きの体質もあるだろうが、一番は筋肉量の問題だろう。
中学上がり間もない体躯は骨と皮ばかり(ただし篠崎比)でまだ華奢だ。あの様子じゃ練習のハードさゆえに、食べても身につく前にエネルギーとして消費されてしまう。部活帰りに見かける間食に反して薄いままの手足から見て、恐らく基本的に燃費が悪い。

だが体が出来てくる二年か、遅くとも三年には、努力が数字に反映されるだろう。大器晩成型。幸い当人も、それを練習しつつ待てる選手だ。

自分を真似してだろう、バタフライで泳いできた一つ下の副将の到着を待つ。ばしゃり、水面を割って顔を出し、ゴーグルのままこちらを見る、やはり幼い顔を笑ってやった。

「ヘタクソ」

心外だと言いたげな様子に、その速度で言えたクチかと心の中だけで言ってやる。筋肉が足りてないんだよ、プロテイン飲んで出直しな。

アンタはクロールしてりゃいいんだ。そっちの方が似合うんだから。






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「なんでコイツに名字が懐いてんだ」

ってカオしてんね。

寒風吹き荒ぶ渡り廊下、不意を打つ一撃に崩れる表情にしてやったりと口角が上がる。
残念ながら答えは一つだ。あたしのような色モノがマトモに見えるほど、あの部にロクなヤツがいないだけのこと。あとは単純に、名字の趣味が悪い。

「そんな怖い顔すんなよ男バレ」
「…俺の名前は男バレじゃないっすよ」
「おや、そうだっけか」

言わずと知れた男バレの一年副主将。見上げる身の丈と落ち着いた容姿、上級生顔負けの処理能力。と、定評通りのモノは持っているんだろうが、篠崎に言わせれば等しく一年坊主だ。
まず存外わかりやすい。つつく程度にからかえば面倒そうな色を隠さない辺り、こいつを鉄面皮だクールだと持ち上げる連中は人の顔を見る能力がないんだろう。

なんでもない会話の合間、少し先の中庭でなにやら話に花を咲かせる後輩と、直属の先輩にあたるミミズクヘッドに流れる視線。恐らくは無意識なんだろうそれに、無用心なことだ、と篠崎は内心呆れる。

名前の分かりやすさは言うまでもないが、篠崎に言わせれば赤葦も同じだ。万人にそうとは決して言わないが、その無表情、チャンネルの合う人間には存外筒抜けだと知っておいた方がいい。
煩い女共を焚き付けるには視線一つで十分なのだ。危機管理がなってない。自分たちの知名度と自分の容姿にもう少し頓着するべきである。

男バレってさ。だから俺は男バレじゃありません。ならなんてーの。…赤葦です。アカアシ、赤葦ね、じゃあ赤葦ってさ。なんですか。

「好きなの?」
「は?」
「名字のこと」

テンポの良いやりとりが途絶えた。目一杯に予防線を展開する赤葦青年には気の毒なことだが、篠崎は後輩の恋路にこれという興味は一切ない。愉快犯的に仕掛けるのだって、適当に藪を突っついて蛇が出るならそれはそれで面白いだろうと、その程度の好奇心だ。くっつこうがくっつかまいがどうとでも、したいようにすればいい。

ただ。


「名字に火の粉飛ばすなよ」


ただ、あの後輩は、ほとほとツイていないのだ。




名前はただ泳いでいただけだ。真面目に、真摯に、あの触れれば切れそうな真剣さで。
そこに目をつけられた。瀬戸を始め三年は、名前のあの水泳に対する静かで強烈な執着に、勝手極まりない希望を抱いて是も非もなく部の今後を押し付けた。

立派な贄だ。瀬戸が何と言ったところで、篠崎は今やそれを人柱だと言い切れる。なぜなら瀬戸らに、なんの落ち度も責任もない名前に対して、梟谷水泳部を更生させ率いることを要求できる正当な理由などないからだ。

瀬戸の見る目は正しかった。組織の人選としては最適解だろう。ゆえにこそタチが悪いのだと、篠崎は腹を燻らせる。
ブラック企業の新人社員ってのは、ああいうヤツがなるんだろう。世間知らずの愚かさと自衛を知らない責任感で、義務もないのに自滅していくのだ。

全体を取って個を、それもこの生温い空気にあって数少なく真剣に泳ぎに来た個人を、敢えて犠牲にしたやり方が見えてくる。

浮かび上がった瀬戸の意図が、自分の無責任を棚に上げても、篠崎の癇に酷く障るのだ。


「……アイツに余計な事言わないで下さいよ」
「さあ、どうすっかな」
「俺も名字も、そんな暇ないんで」

篠崎は眉を上げる。真っ向からぶつかる視線に揺れはない。
涼しげに見せて、負けん気の強い眼差しから目を逸らし、篠崎は木兎と笑う名前を眺めた。
「暇はない」。そうだろうとも。音には出さず、ため息を吐き捨てる。


おまえみたいな。


「…ま、そうさね」


おまえみたいな、ご丁寧に拠り所になんぞに成りに来るヤツがいるから。


「あんたら、フクシュショーだもんね」


あの不憫で哀れな犠牲者が、まともに人柱を全うしようなんて覚悟を決めちまうんだろうが。







水泳なんてどこでだってできる。泳ぐだけなら仲間なんぞ無用だ。大した水泳馬鹿のくせして速度にも競争にも興味のないあの一年に、高校の部活を辞めて困ることなど一つもない。

なのにあの馬鹿正直、そんな発想はカケラも思いつかないのだ。ブラック社員まっしぐらだ。おまけにこのスカした男バレ、無駄に優秀な“同僚”まで見つけて来やがった。

篠崎はやはり吐き捨てる。とんだ傷の舐め合いだ。これでもう逃げられない。


(アカアシ、おまえ、責任持てよ)


おまえのせいだぞ。

まともな先輩に恵まれレギュラーを勝ち取る実力があって、そのくせアレと一括りに一年副将と呼ばれる優良物件のおまえのせいで。

あの可哀想な生贄はおまえを追いかけて、人柱を全うする腹を括っちまったんだ。


「心中するなら最後までしろよ」

遠ざかる猫っ毛の後ろ姿を胡乱に眺め、篠崎光琉は不機嫌に呟いた。

おまえのせいであの後輩が泣いたら、どうせクラスメートにも言えるまい、あたしのところに泣き付くしかなくなる。そんな面倒あたしが御免だ。

あの後輩はもう十分、貧乏くじを引かされた。
これで男運まで最悪だったら、本当に救いようがないだろうが。



200408
以下少しだけ。




数年越しに書いてみた当時の篠崎さんサイドです。連載当時よりなぜだかずっと刺々しくなりましたが、連載時期に書いていたらきっと、もっとテンプレートな素敵“傍観”キャラになっていた気がします。

”姉御で頼れる篠崎さん“を見ていた方がいれば、がっかりさせてしまったかもしれません。でも多分この人は“不器用”とか“わかりにくい優しさ”だとかのお綺麗な話じゃなく、不遜で無責任なエゴイストがベースの、捻くれた良心と正義感が辛うじて人間性を担保しているような人の気がします。
そういう意味では、今になって書いてよかった番外編のようにも思えます。ただどう考えても需要が皆無です。とんだお目汚しの自己満足でした。

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