これにて一件不時着


(…随分痩せた)

いや、やつれたというのが正解か。どちらにしても、元々減らすべき体重もない14歳の少女を形容するには穏やかならぬ表現だ。
最後に会ったのは夏の帰省時で、空白はわずか2、3ヶ月。昨日のようとも、はるか昔のようとも言える間に、5つ下の妹は酷く消耗して見えた。

ちっとも減らないコーヒーカップを両手に、俯いたまま黙り込む妹から視線を外す。亜紀は腕時計の文字盤を、それから目前のガラスの向こう、ゆっくりと動き出す鉄翼に目を向けた。
フライトの搭乗最終時間までは、40分を切っている。




結菜は予定通り、亜紀より少し前に空港に到着していた。伯母の部下が買い与えたらしいカップのアイスココアは、溶けた氷で二層になっている。
チェックインは済ませたようで、足元にはスポーツバックが一つ。…結菜の通う私立中の、テニス部指定のものだ。もう通うことのない学校の。
思ってまた、心臓が少し俯いた。


かける言葉に迷う。思えばもうずっと──そう、高2の頃からもうずっと、姉妹らしい会話をした覚えがないから。

姉妹仲が悪かったとは思わない。結菜は少なくとも表向きは、亜紀を姉として慕っていた。でも、愛嬌があって社交的な妹にとって、表情も会話も覚束ない自分はつまらない姉だったと思う。そのくせ亜紀の容姿や成績と比べ、妹を下に見る親戚や同級生は後をたたなかった。亜紀は妹の明るさや人付き合いの上手さを尊敬し、劣等感すら覚えていたのに、妹は学力、そしてとりわけ容姿に関し、隠し損なった卑屈な嫉みを亜紀に差し向ける事があった。

元々母親に似た顔立ちの甘え上手な妹と、母親を捨てた男に似た顔で愛想のない姉だ。母親は外では体面を繕ったが、家では露骨に亜紀を冷遇して結菜を可愛がった。
実親による贔屓はきょうだい仲を毒する。妹が自分をどこかで下に見ていること、それが劣等感の裏返しでもあることには薄々は気づいていた。でもその一方で、母親の目のないところでは亜紀によく懐いた。

矛盾する態度に戸惑い、時に嫌悪を感じたこともある。でもその二面性が、計算づくしの使い分けによるものでないことは、なんとなくわかっていた。
実際考えてみれば不思議だが、亜紀は結菜を恨んだり、憎んだりしたことはない。
憎々しげに吐き捨てた母親によって、義父が亜紀の自室に忍び込めるよう手引きしたのが、結菜だという事実を知らされた後でさえだ。

当時まだ小学生だった結菜が何を思い、どう過ごしていたか、亜紀は知らない。亜紀のことをどう思っていたかもわからず、話したこともない。
ただ、あの家にいて正常な精神状態でいられたはずがないのは、自分だけじゃなく妹だって同じはずなのだ。

「結菜」
「、」

全部を尋ね、分かり合うには、残された27分はあまりに少ない。

それでも、言葉を尽くすべきなのはわかっている。
“話せばわかる”。この数ヶ月、諦めずにそうしてくれた人たちが教えてくれたことだ。
組み上げる時間がないのならあるもの全てを順繰りに出すなり、ひっくり返してぶちまけてでも話すしか、それしかないのだ。


「置き去りにしてごめん」

帰省の時からでも、進学してからでもない。高2からずっと。

「うち、自分のことで精一杯やった。5つも下で、あの家におって、結菜かて平気なわけあらへんかったのに」

嫌な思い、ようけさせてごめん。うちがこんなで、いつも空気悪うするから、親の顔色見て機嫌とるん、ほんまに大変やったやろ。もう家族に気ぃ遣わんでええから、イギリスに行ったら…すぐには難しいかも知れへんけど、言葉も大変やろうけど、好きなことして、美味しいもの食べて、綺麗なもの見に行って、…自由にしてほしい。

「おばさんも、何があったかはある程度知ってはるやろうけど、結菜を責めたりしてへんから。母さんのことも、…あの人のことも、いっぺん全部置いといて、」


「なんで」


切るように遮られる。驚いて首をねじった。この数年、ついぞ聞いたことのない、固く強張った声だった。


小学生は侮られるほど幼くないし、結菜自身決して馬鹿じゃない。
結菜が亜紀と両親の異様な関係を悟らないはずがなかったし、気づかないふりをする妹に安易と騙されるほど母親は愚かで、わかっていて利用する程度には義父は狡猾で醜悪だった。

可愛いわがままで両親を困らせ、亜紀がいると異様に強張る空気もまるで気にしない、『天真爛漫で無邪気な妹』。自分がいい子でいれば、家庭の平和は保たれる──利発だが幼くもあった妹は、そんな風に考えたのかもしれない。

仮初の平穏を守るために、妹がピエロを演じている可能性に気づいていないわけじゃなかった。でも結菜に、そんなことはしなくていいと、亜紀はついぞ言ってやれなかった。他ならぬ自分こそが、家庭の歪みの根源であるとわかっていたからだ。

「なんで、…」

愛想も猫被りも甘えもない、子どもがひん曲げた唇をこじ開けるようした声が、遠く忘れかけていた幼少の妹の姿に重なる。今よりずっと物分かりが悪くて、…そうだ、案外友達付き合いも下手くそだった頃。仲直りができなくて、幼稚園から泣いて帰ってくることもしばしばだった幼少期。
歳の離れた泣きべその妹を、ランドセルを背負っていた自分はどうやって慰めたんだろう。記憶は朧げで答えは遠い。
それでも。

『なんで』。
ちっともこちらを見ないで、手元のココアを睨みつけ、ぽろぽろ涙をこぼす妹の、続かない言葉の先が手に取るようにわかったのは、きっとそのお陰だ。


「妹やから」


捏ねるほどの理屈はない。行き着く答えはシンプルだった。


おねえちゃん、ごめん。うちの方がごめん。


最後にようやくふたこと、泣きじゃくる妹が口にしたのは、最終搭乗2分前のことだった。
















轟音を立てて、鉄翼が藍染の空を征く。

見る間に暮れていく日の短さが、中秋の肌寒さも連れてくる。待機する飛行機がゆっくり地上を旋回する中、滑走路に明かりが灯るのが見えた。

妹を乗せて旅立った飛行機は、実は今飛んだそれより三つほど前のものだ。なんとはなしに動く気になれずぼうっと佇んでいる間に、ダイヤに追われる飛行機たちは忙しなく空へと消えていった。

飛び立つ飛行機の残す風は、日暮と共に冷たくなってきている。遠ざかる機影を見送り、亜紀は乱れ舞う髪を押さえた。
状況を報告するための雅火との通話、叔母との連絡も一段落し、ようやく寮のラインへ一報を入れる頃には、目も手もずいぶんくたびれていた。そろそろ中に戻ろう。戻って、帰りの足を考えて。
ポケットにスマホを戻しながら、展望デッキを後にしようと踵を返した時だった。

斜め後方、入り口横。ポケットに手を突っ込み、壁に背を預け、音もなく佇む影に目が吸い寄せられる。
黒尾。

「───、」

息を呑んだのは数秒で、違和感を拾ったのもその数秒だった。
独創的な前髪が影を作る目元、彼に気づいた亜紀に気づいているはずの目線が、亜紀の方に向かわない。

彼の秋物のコートに似た紺色が、地面に無造作に放り出されている。それを拾うでも、こちらに歩み寄ってくるでもない。らしくなく動きのない黒尾に、小走りに駆け寄った亜紀の足が、彼に行き着く数歩前で止まった。

足元に投げられたままの視線が合わない。いつになく近付き難い閉じた気配。

「……心配かけて、ごめんなさい」

風が強い。声が届くようにと、もう一歩を詰めるには勇気が要った。口にした謝罪は思いのほかか細くなり、それに咎められたかのように、黒尾を押し包む空気が一段と重くなる。

応答はない。亜紀は自分の怠慢を痛感する。会話の全てを黒尾に依存してきた二人の行間には、彼が口を閉ざすと決めれば沈黙しか残らない。
怒らせてしまった───わけでは、ない。辛うじてそれだけは感覚で理解できる。これはもっと、もっと何か。


「イギリス、行かなくてよかったの」

掴みかけた何かが、唐突な会話の始まりによって切り落とされた。

感情の見えない平坦な声だった。いつだって伴われた気さくさを削ぎ落としたそれは、これまで一度も亜紀に向けられたことがない類のものだ。
埋められない二歩の距離を溝にして、言葉の意味を咀嚼する。幸いにして、黒尾は少なくとも、亜紀の返事を待つつもりはあるようだった。

「…妹には、叔母の部下の方が付き添って下さったから、私がついてなくても大丈夫」
「…」
「必要ならいつでもチケットを送ってくれるから、何かあったら会いに行けるし…」
「そうじゃなくて」
「…?」
「橘サンは行かなくてよかったのって話」

ふつり、陽光が途絶えた。
長く伸びていた影が潰えた。夕陽が雲に沈んだのか、山の端の向こうに落ちたのか。失われる明度と舞い降りる薄暗さの中、ようやく噛み合った視線と淡々とした声に滲んだのは、微かな苛立ちに似て非なる何か。

その瞬間、唐突に、叔母を知る自身の直感が掴んだものがあった。

「おばさんに、何か言われた?」
「!」

亜紀がそれを、しかもこのタイミングで言い当てるとは予期していなかったのだろう。ゆったりしたシルエットに包まれた幅の広い肩が揺れた。
視線がはっきりそらされた。ぎゅっと結ばれた薄い唇が、その内容に言及する気がないことを理解する。その様子だけで、本意でない何かを言われたことは明らかだった。

息を吸う。言葉は出ない。行き交う考えは渋滞して胸元に詰まった。
考え得る誤解を解きたい。ひどく心配をかけたはずだ。何から話せばいいか、どうすれば伝わるのか、黒尾の心が、声にされない感情を汲み取れないまま出す言葉で、彼を不要に傷つけたくはなかった。

自分でさえわからない亜紀の心を汲み上げる、彼のさりげなさと気さくさが、細心の配慮と慎重さの上に成り立つものであることを亜紀もすでに知っている。それを享受してきた身で、当たり障りも中身もない言葉で会話を濁すことは出来ない。

彼が口を噤んでいるのはそれを選択した結果だ。自分のように、会話の迷子になった末行き着く沈黙とは違う。

(でも、私がこういうとき)

この人はいつも。


「───、」

天啓のように降ってきた回答だった。
一歩を詰める。もう一歩を残したのは、彼がいつもそうしてくれたからだ。

そうしてそのまま、両腕を広げる。


「…!」

長い前髪の下、涼やかな目元が瞠目する。互いの呼吸すら聞こえそうな、永遠にも似た数秒。

拍動が加速する。指先が、ひりつく頬が、緊張で痺れ始めるのを感じた。筋肉のない両碗が下がるのを堪え、逃げそうになる視線を縫い留めた。
今まで自分がこの人を待たせてきた時間を思えば、こんな数秒待ったうちにも入らないと思った。

スニーカーが地面を擦る。
影が落ちる。傾けられた上半身は、まるで彼女がいつでも逃げられるように、酷くゆっくり覆い被さってくる。

そろそろと気遣わしげに降ってきた背を腕で、こうべを肩で受け止める。背中に骨張った手が触れた。腕は回されず、それだけだった。亜紀を迎え入れる時の手慣れた仕草からは想像もつかない、ただ両手を添えるだけのぎこちない囲い方。

胸が引き攣れる思いがした。返されない両腕が、曖昧な抱擁が、これほど心許無いとは知らなかった。
シャツに指をかけるのが精一杯だった亜紀の背を、黒尾は何度も、当然のように抱きしめてくれたのに。

ほとんど衝動的に、亜紀は目一杯に両腕を伸ばした。あまりある身長差を埋めて委ねられた彼の頭に頬を寄せ、厚みのある背を抱きしめる。
どれほど秋風にさらされていたのだろう、思いの外冷えた彼の体が、心が、どうにか少しでも温まるように。

そうして不意に、心から滲み出るように、喉奥から言葉が転がり出て、



「───ローンを」











黒尾は思った。聴覚死んだかな。


「ローンを、組もうと思ってて」


残念ながら生きていた。


「60年で」
「家でも立てんの???」


危篤なのは少女漫画だった。
おいでませシリアル。いらっしゃいシュール。エモーショナルな展開はお星様になったのである。

この一年弱で徹底してツッコミ側に回らざるを得なかった黒尾鉄朗は、己の聴覚が正常に機能していることを理解した(してしまった)瞬間光の速度で問うていた。情緒もロマンもないガチトーンのツッコミである。
ねえ聞いてないマジで話が違う、この連載のコンセプト醤油と砂糖じゃなかったの?風邪引きそうな温度差で棲み分けしてきたこの期に及んでちゃんぽんとか犯罪だろ、誰だこの正統派ヒロインにジャングル思考インストールした割烹着。首を晒して表出ろ。

ちなみに同時刻、亜紀の無事を聞いて先に帰寮しキッチンに詰めていた元凶たる戦犯Sが、背筋を駆けた戦慄を風邪ひき前の悪寒と取り違え、猛然と生姜湯を作り始めていることを黒尾は知らない。

「家は、あの、買わへんけど」

不意打ちの関西ネイティブが心臓を一撃。
黒尾は無言で項垂れた。敗北である。今しがたあらゆる雰囲気を微塵に吹っ飛ばした破壊力を転用し、別アングルで殺しにきた腕の中の女の子が絶望的に可愛い。可愛さありあまって憎さ生まれる余地すらない。
心境だけなら五体投地。首をさらしたのは自分だった。そうして彼女の説明を待って、

「黒尾くんが、してくれたこととか」
「……」
「くれたものを、時間がかかっても、返したくて」

急転直下でシリアルが死んだ。
死屍累々。言葉を選ぶ亜紀の、拙くも美しい声の言い分に、心の腑がすうっと冷えた。


(あーー……そういう)

反転に次ぐ反転、情緒の乱高下。黒尾は10秒足らずの間スリープモードに移行した。浮き足立った心臓は胃の底まで突き落とされたらしい。足元から吸い込まれるような心地がして、誤魔化せない失墜が目の前を暗くする。
腕の中の柔らかな温もりは、出会ってから今までで一番遠い。

飲み込めるだろうか。急速冷凍された胸中に吹きかけるように、長く深く息をつく。
大丈夫、飲み込める。いつも通りにすればきっと。

「……もし、俺が今まで何かしてこれたとして」

薄い背に触れる両の手が浮く。(言ってしまえ。)
次に触れる時は、こういうんじゃない、(もういいだろ、)期待も色も含みもない無色透明の親切で、

「それを例えば、借金みたいに感じてるなら───」

(飲み込め)



「ちゃう、そうやなくて」

軽薄さを装いきれず乾いた声が、半ば強引に遮られた。
その懸命さに、黒尾が息を呑む───亜紀の腕は解かれていない。


「もらったら、たくさんもろたら、返したいって思うやろ」

一気に返せたらその方がええけど、うち、ひとよりなんでもへたやから。
それに、もしできても、そしたら一回きりになるやろ。

「60年、ちょっとずつお返しできたら、ずっと」

耳元の声が一呼吸呑む。語気が震えたのがわかった。不意に、肋骨を規則的に打つ振動の正体に思い当たった。

合わさった胸を破らんばかりに、痛いほど脈打つ彼女の拍動。

すう、と懸命に吸われた息が、ひざまづくように、祈るように音になる。


「おばあちゃんになるまで、鉄朗くんのそばにいられるかもって」
















「あの、けど、もしもう要らんって思ったら、その時言うてくれたら、ちゃんとやめるから。その、返し方も、何していいかも、ほんまは今まだ、あんまりわかってへんねんけど、」

それ以上の弁明は呑み込んだ。呑み込ませたと言ってもいい。

会話のために無防備に開かれた柘榴の唇の不意を打ち、黒尾は亜紀のどうにもし難い懸命な弁明を封殺した。

跳ねた薄い背を掻き寄せ、文字通り口を塞ぐ。腕の中の体躯がフリーズするのを慮る余裕もなかった。
衝動に負けた理性がめげずに警鐘を鳴らしている。一気に振れた針を無理やり戻すように唇を離して、…目の下の皮膚を掠めた長い睫毛に動きを止めた。

逆に硬直した黒尾の、思わず開いた視界の先で、宇宙の漆黒に星屑を散らした瞳が薄い瞼に仕舞われる。
合わさる柔い胸奥の心腑を早鐘のようにさせながら、奪われた唇を無防備に明け渡すその様に、──脳裏で何かが焼き切れた。

望むままに食み、吸い付いて、夢中になって啄ばんだ。互いの唾液で濡れ始める唇の、リップノイズに吐息が混じる。
祝盃から呑むように上顎を持ち上げる。晒された白い喉、体が火照り息が上がる。目前に星が散る酩酊感。
酸素を求めて喘いだ隙間に、本能のまま舌を挿し入れた。

ひゅ、と鳴る喉をあやし、揺れた背中を優しく撫でる。首裏にあった手で頬を包んで、上唇を甘く食んだ。
狡い懐柔、刹那の弛緩。無防備な従順に付け込んで、並びの良い歯列を割る。逃げようとした小さな舌を己のそれで絡めとり、…刹那、がくり、力の抜けた肢体が膝から崩れた。

砕けた柳腰を咄嗟に捉えるも、ずり落ちた唇が音を立てて離れる。水音と共に舌が解けた。膠着と中断。

「っ……、」

ほとんど呆然と息を乱す亜紀の、上気した頬、潤んだ瞳、半分開いたままの濡れた唇が、ほんの数センチ先に残されている。その長い睫毛が2、3度上下し、至近距離の黒尾の──自分がどんな顔をしていたか、彼は知らない──瞳を捉え、とたん、生理的な紅潮とは違う、熱った柔肌が紅に染まった。

ほんの一瞬、おそらく反射で逃げ腰になった彼女の、揺らいだ瞳を留めたのがなんだったのか、黒尾はやはりわからない。
ただ、そうっと震えるまつ毛を降ろして、ふたたび差し出された唇だけで十分だった。

赦しを乞うように口付ける。勝手を償うよう触れるだけで重ねると、濡れた柘榴の唇はもどかしいほど拙く応じた。
打って変わった穏やかな交わりなのに、泣きたくなるほど胸が詰まる。

「亜紀サン、…亜紀、」

口付けの合間を縫うように、心のふちから囁きが零れる。
いっそ縋って聞こえるほどの、情けない声になるのを堪えられなかった。


「好きって言って、」


細い両の手指が、黒尾の頬に触れた。今度は彼の言葉を呑むように、亜紀のそれが重ねられる。
涙まじりに揺れる応答が、彼の薄い唇に刻まれた。


「鉄朗くんがすき」


ずっと言えへんくて、ごめん。



こんな時すら謝る亜紀に、こんな時だけ早まる亜紀に、黒尾はしばし呆気に取られた。
そうしてぽろぽろ泣き出した亜紀に、ややあって思わず笑ってしまった。

本当は、ただ聞こうとしたのだ。

(好きって言って、「いい?」)


ゆっくりと押し迫ってくる歓喜と充足感を閉じ込めるように、腕の中の華奢なからだを抱きすくめる。
思わぬ反応だったんだろう、潤んだまなこを瞬かせる彼女に、殊に優しく顔を寄せた。目尻に、濡れた頬に口付けて、物足りなくて唇に戻る。
物言いたげに小さく開く口をその都度塞いでやり、ぐずぐずと紅く蕩けていく亜紀の美しいかんばせを目に焼き付けた。

これまでずっと、薄く被せるように、そっと添えるようにして、伝えてきたその全部を、言葉なくとも受け止めて、宝物のように収めてきてくれた。
それがわかる返事で、そういう答えだった。

だから、この愛しい勘違いを訂正するのは後でいい。
黒尾はただ、心置きなく、「俺も好きだよ」と音にするだけでよかった。





231116
砂糖サイド不時着。

これを持ちましてChange the Heroine!、本編はほぼ完結とさせていただきます。
拙宅最長となりました全61話に及びます長らくのお付き合い、誠に誠にありがとうございました。
すべての温かい応援とご愛顧のお言葉に、今一度御礼申し上げます。

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