息つく間を寄越せと何度も


「さて、と」

整った顔を青白くし、屈辱と怯懦を浮かべた女性を捕らえたまま、油断なく部屋を見渡した黒尾くんの視線が、キッチンに立つ私と隣のはじめくんの元に辿り着いた。

応じるはじめくんがさして驚いた顔をしていないあたり、この登場はある程度予期されていたらしい。なるほど主役級による伏線回収。モブには与り知らない領域というやつである。
と、思ってお客さんやってたら。

「遅かったな」
「普段乗らねえマニュアルで法定ギリ攻めて、証拠まで押さえてきたんデスよ。誉めてくれていいと思うけど?」

気さくな声音にシニカルなドスが効いているのは気のせいではあるまい。黒尾歴一年未満でもわかる、これはキレてるヤツである。
にしても端役にも出番を与えるのは黒尾くんのポリシーなんだろうか。愉快に冷えた声で言いながら私に向かってスマホを揺らすのは、京都での録音の一件を踏まえてのことらしい。

いやでもアレは後で聞いたらやっぱりはじめくん経由・及川くん発の入れ知恵だったから、正確には及川くんの受け売りなんだよな…。ていうかその口ぶりじゃ黒尾くん、事の次第をスター歌手()ご本人(※推定)の口から吐かせたってこと?それどんな取調官適性?

「ドキュメンタリーの密着カメラは一旦オフにしといた方がいいんじゃない?どうせ使えないデショ、このシーン」
「…っこの…!痛い!離して!訴えてやる、私のステージがダメになったらいくらの損失になると思ってんの!?」

黒尾くんお得意の皮肉に煽られ、造形の良い顔を無惨に歪めた女性がヒステリックに叫び出す。だがその傲慢な言い分を迎え撃ったのは、驚くほど静かな宣言だった。

「──訴えられるのは君の方だ、美晴」
「!」
「君と君の事務所が盗んだ僕の曲について、僕は法的手段を取る。そうすればステージについて心配する必要もないだろ」
「…なんの話?言い掛かりも大概にしてよね、あんたなんてなんの関係もないくせに!」
「証拠ならある。使わなかったのは、それでも君に未練があったからだ」

それももうやめる。

言い切った。言い切って、お兄さんがもう一度私の方を見た。疲れ切った、でも付き物の落ちたような顔に、思わずまなじりが熱くなる。

「っ…いいわよやってみなさいよ!こっちだってあんたが脅迫してきた証拠があるんだから!あんたみたいなセンスのないバンド崩れの言うことなんか、間に受けるヤツがどこにいんのよ!」

底意地の悪い罵声が飛ぶ。だがその罵りに応じず口をつぐんだまま、お兄さんは私から視線を外さない。
誇り高い決意だ。その矜持、しかと見届けた──と戦国武者さながらに頷こうとした瞬間、なぜか大きな手で目元ごと顔面を掴まれた。そのままむしり取られたハンカチが、お兄さんに投げ返される。

「あっそれシミついたのに、洗って返さんといかんのに!」
「うるせえ」
「なんで!?お兄さんごめんなさい、それいっぺん返してもらっtぶふっ」
「いや、いいんだ。…あんたもすまなかった」

火傷、お大事に。

優しい声に物々しい足音がかぶさった。ハッとして目元のはじめくんの手をむしり取った。その大きな手を握り締めたまま言葉が飛んだ。

がちゃがちゃり、重たい音は腰の警棒やポーチが擦れる音だろうか。紺色の制服、制帽を被った警察官が二人、戸口の腕章付きの学生らから離れて、お兄さんの元に近づいていく。

「…脅迫については事実らしいからな」

庇いようがない。

いつの間にだろう、キッチン前まで来ていた黒尾くんの淡々とした言葉にぐっと喉が詰まった。
お兄さんはもうこちらを見たりしなかった。真っ直ぐ顔を上げて、警官の誘導に従って部屋を出ていく。

ぽん、と肩甲骨を叩かれる。はじめくんより少しひんやりして、やや細みの長い指。
黒尾くんがこうして私に触れることは珍しい。多分間抜け顔を晒したであろう私を見下ろすことなく、黒尾くんは飄々と言った。

「ま、証拠があるって話だし、そう悪いことにもならないデショ。売り出し中の歌手ともなりゃ、所属事務所も裁判沙汰にしたくねえだろうし」
「こっちも被害届は出さないから訴訟はやめろ、和解で手打ちにしようぜってとこか」
「そこはご本人にうまくやってもらうしかないね」

後半に続いたのは阿吽の二人。「汚いねえ芸能界」と今すぐ芸能界入りできそうなビジュアルで言ってのける及川くんの毒舌に、部屋にいる数人が険呑な顔をするなり目を逸らすなりする。アレか、さっきから何かちょいちょい聞こえるドキュメンタリーTV?取材?の関係者なんだろうか。そろそろ誰か人物相関作ってくんないかな、私の頭がパーンてなりそうなんだけど。

そんな一件落着とも言えない状況(つまりそれら取材陣らしき人たちとスター歌手(仮)ならびに腕章ズが何やら慌ただしく電話をしたり出入りしたりし始めた)の中、あとは関係各者でどうぞごゆっくり、という空気が流れかけた寮生サイドへ、不意に「それじゃあ、」と及川くんが切り出した。

「こっちはもう解決ってことでいいね?」
「…こっち“は“?」

黒尾くんが聞き返し、はじめくんが無言で目を細める。
そこで気づく。及川くんの面持ちに、一件落着の緩みはない。
努めて冷静に徹された整った顔に微かな緊迫を纏わせて、ヘーゼルの瞳が私たち三人をさっと見回す。及川くんは勿体ぶることなく一息で言い渡した。


「橘さんの姿が消えた」


Pardon?

















「…あの」
「はい」
「友人たちに、連絡を取りたいんですけど」
「この車両は特別仕様ですので、携帯電話はご使用いただけません」

安全のため、ご理解を。

淡々と突っ返され、亜紀は黙って手の中のスマホを見下ろした。圏外。電話もネットも繋がらない。
どういう造りか知らないが、真横のスモークガラスは電波も遮断できるらしい。明度を落とした車窓の向こう、都心から外れるにつれ交通量が落ち着きつつある高速道路。味気ない風景は飛ぶように過ぎ去っていく。

文化祭が終わるまでに戻れるだろうか。
高校まで関西で過ごし、叔母と違って飛行機と縁の薄い亜紀には、羽田までの距離感が掴めない。

「…あと30分もすれば着きますので」

そんな亜紀の内心を読んだかのように付け加えてくれたのは、隣のシートに腰掛ける男だった。仕立ての良いグレーのスーツに包まれた筋骨隆々とした体躯、つるりと厳ついスキンヘッド。その見てくれに反し、声も所作も存外控えめで表情も気遣わしげなのは、亜紀とその背景を気遣ってのことか、元来の性格によるものなのか。

いずれにせよ、いかにも紳士な身なりの割に取り付く島もないドライバーより配慮ある対応の男へ、亜紀は会釈で謝意を示した。…それにしても、ボディガード(だと亜紀は解釈している)というものはスキンヘッドが標準なのだろうか。亜紀は遠縁にあたる同級生の右腕として控える男を思い出し、そんなことを考える。
隣のシートに腰掛ける偉丈夫にそれほど緊張感を感じていないのは多分、雅火の部下で、同じく人当たりの良いスキンヘッドの竹中氏が連想されるからに違いない。

手持ち無沙汰になったので、メッセージアプリを立ち上げる。電波が繋がればすぐ送れるよう、文面を作っておくことはできるだろう。
唯一連絡できたのは、車に乗り込む寸前に電話をかけてきた雅火のみ。彼女から同寮の友人らに、少なくとも危険がないことが伝わればいいのだが、雅火も何やら慌ただしい様子だったので難しいかもしれない。

寮のグループチャットに並ぶ、見慣れたアイコンたちを目でなぞった。
きっと心配をかけている。自然とそう思える今が、不思議だとも亜紀は思う。




『ごめんね亜紀、予定が変わったの。後で全部説明するから、とにかくうちの部下に従って』

腕を取られて2秒、ジーンズのベルトに提げた防犯ベルのピックを引っこ抜こうとするまで3秒。寸でのところで止めたのは、耳元に押しつけられたスマホから聞こえた伯母のこの指示ゆえだった。
瞬時に成り済ましや録音を疑ったのは雅火の入れ知恵で、次の1秒でそれを払拭したのは、厳しい声音を隠せない伯母と、短くも正しくやりとりできたためだ。

『結菜を緊急保護したわ』

このままイギリスに送るから、あなたも一旦空港まで来てちょうだい。



夏の一件以来、5つ下の妹の処遇については、雅火を通して定期的に知らされていた。

ギリギリ未成年ながら上京し、親からの経済援助にほぼ頼らない一人暮らしをしている亜紀と違い、妹はまだ義務教育下の中学生だ。事件後はまず警察に、次いで一時的に児童相談所で保護されることになっていた。

経済界にも嵐をもたらした一連の不正に一族ぐるみの関与が疑われ、その背後に娘たちへの虐待疑惑まで臭えば、結菜の引き取り手の選定は難航する。遠縁を理由に南家が引き取り・里親探しを担うか検討し始めたタイミングで、名乗りを上げて来日したのが伯母の楓だった。

この流れは亜紀にとって驚くものではない。実母に疎まれ、義父を異様に避ける亜紀を特に心配していたとはいえ、楓にとっては結菜も姪だ。しかも実家を離れた自分と異なり、近隣の目とマスコミの詮索に晒されながら学生生活を続けるのは現実的に厳しい。そうでなくとも、崩壊する橘家に残しておけばどんな扱いを受けるか──どう利用されるかわかったものじゃない。

脱出時は自分のことで手一杯だったのは事実だが、亜紀としては修羅場と化したあの実家に、歳の離れた妹を“置き去り”にしてきたことが気に掛かっていた。
いずれ伯母が介入してくれるのはわかっていたし、それまでの間大家の許可をもらえるなら妹を呼び寄せ、一時的に自分の部屋に住まわせてもいいと思っていた。
でも、そんな内心を読んだかのように、雅火は先んじて亜紀を牽制した。

『根回しはこっちでするし、報告も逐一上げる。アンタは自分の生活しとれ』

余計なことをするな、大人しくしていろ。
つまりそういうことで、亜紀も予想していたことだった。

実際亜紀もまだ未成年、そうでなくとも自分の身一つ守るにも心許ない現状だ。妹が自力で実家から逃れるのも、まして自分が連れ出すのも現実的に厳しい。もっともな忠告だ。ただ、それだけが雅火の理由ではなかったとも思う。

『…妹を、こっちに呼び寄せられないかと思って』
『東京に連れてきたウチの手数は、アンタの護衛で手一杯や』

ぐうの音も出ない正論だ。雅火もわかっていてそういう言い方をしたのだろう。それでも黙り込んだ亜紀に、短く付け加えるあたりが彼女らしかった。

『アンタには悪いが、信用できん』

この一言で亜紀は確信した。やはり雅火は気づいていた。義父の蛮行を、妹の結菜がそうと知りながら知らないふりをしていたことを。
それだけなら已むを得ない、当時小学生だった妹に助けてくれと言えるわけがないのだから。むしろ妹だって被害者だ── 亜紀は今でもそう思っている。

でも同時に、当時からうっすらと察していた。結菜は浅からぬ仕方でそれに加担していた。
雅火がそれに気づいていないとは思えない。

『…大丈夫、わかってる』

“信用できない“。それもそうなんだろうが、雅火の苛烈な気性、自他への厳しさは多少なりと知っている。
雅火は亜紀の妹を、機能不全家庭の“被害者”とは認識していない。

“身から出た錆だ、灸を据えられろ“。
事実彼女が結菜を旅館に残し、亜紀にしたように早急かつ徹底して保護しなかった理由は、少なからずそこにあるのだと思う。

『でも、』

あの子を裁くのは、…裁くかどうか決めるのは、法律とかそういうもので。

『あの子をゆるすかどうか決めるのは、雅火ちゃんじゃなくて、私だから』

雅火が間違っているとは言わない。責めるつもりもない。むしろ、到底返しきれない恩がある。
それでも、彼女が妹を私刑に処すようなことを、亜紀は決して望んでいない。

『…散々食い物にされた人間とは思えん聖人ぶりやな』
『…図々しくて、偉そうにごめんなさい』
『………いや』

灯が言いそうなことや。

きつい皮肉に続いた思わぬセリフの、素っ気ない声音に滲んだのは一抹の呆れか。亜紀が言葉を失った間に、電話はぶつりと切られてしまった。



分刻みで仕事をこなす伯母と連絡を取るのは多少骨が折れた。だが楓はニュースを通じて概要を、亜紀を通して内情を把握すると、可及的速やかにスケジュールを調整し、2人の姪の後見人になるための手続きをしに帰国を計画した。
フライトの関係で浮く時間で亜紀の文化祭に顔を出し、その日の終わりに結菜を迎えに行く──予定だったのだが。

『児相から出て少しのところを拉致られかけたのよ。迎えに行った私の部下と、橘の手の人間が鉢合わせたらしくて』

身柄だけでも問題だが、万一戸籍でも弄られれば何をされるかわからない。サスペンスさながらの発想だが、フィクションと笑えないだけの過程(前科とも言う)がある。

かくして銃刀法に違反こそしないが相当手荒い(どれくらいかというと、目撃した近隣住民が110番通報するレベル)やりとりの末、楓の部下は結菜の保護(半分拉致と言ってもいい)に成功した。
最早のんびり手続きする猶予はない、実力行使だ。渡英して物理的に距離を取り、数年前から続いている金銭的援助の記録に養育の既成事実を乗せ、親権なり後見人の立場なりをもぎ取ろう。
結菜緊急保護の一報に0.5秒で即決した伯母の命令により、ハンドルを握らせると人の変わる部下が嬉々として走り屋もドン引くカーチェイスを刊行。追っ手を撒きに撒いて京都駅へ、新幹線に乗せて東京に送った次第である。

そして橘の手が結菜に伸びたということは、亜紀の身の安全も軽視できない。
手段を選ばぬ強硬手段からして、橘に余裕がないのは見て取れる。キャンパスは文化祭の真っ只中で、外部の人間の出入りに制限はないに等しい。あの人混みで人ひとり姿が見えなくなっても、即座に失踪を疑われることはないだろう。

楓はすぐに雅火に連絡し、事態の急変を伝え亜紀の保護を予告。キャンパスに残していた部下に命じ、亜紀を大学から連れ出した。その足で向かうは羽田国際空港。新幹線の発車時刻からして、結菜の方がタッチの差で先に到着する予定らしい。結菜を乗せてイギリスに飛ぶフライトチケットは、橘に睨みを利かせる雅火が片手間ですでに押さえている。こちらもこちらで仕事が早い。

目まぐるしい展開だ。膝の上でスマホを乗せた両手を見下ろし、現実味なくぼんやり思う。
事態はいつだって自分の力も決定も及ばないところで転がっていく。親の離婚も再婚も、転校も妹の処遇さえ───ああでも、大学と寮。それに、友だちは自分で選んできた。

(…結菜も)

妹はどうだろう。
そうであればいいのに。

「到着しました」
「、はい」

感傷に揺蕩う思考をふるい起こすように、亜紀はニ、三度瞬いた。少し前に高速を降りたと思っていた車はいつの間にか、速度を落としながら迷うことなく駐車場へ向かっていた。
スキンヘッドのボディガードがさっと開けてくれたドアをくぐり、亜紀は久方ぶりの外気を吸い込んだ。聳える空港のエントランスを見上げる。…大きい。関東と関西の行き来はもっぱら新幹線に頼ってきた亜紀には、空港は未知の空間だ。
羽田空港第三ターミナル。国際線がメインらしい。

(…そうだ、電波)

思い出し、亜紀は急いでスマホを引っ張り出す。メッセージアプリ、いや電話の方が確実かも。思って着信履歴を開き、一番上に現れた灯の番号をタップした。…繋がらない。通話中のようだ。それなら男子2人のどちらかに、

「連絡はロビーで」
「あの、」
「お急ぎください、ここも安全とは言い切れません」

スキンヘッドが潜めた声の緊張感に、亜紀ははっとして見返した。一瞬躊躇うも、履歴の二番目にきていた岩泉にかけた通話もすでに留守電に切り替わっている。
せめてと開いたままだったメッセージアプリ、用意していた文面の送信ボタンだけは押し、ポケットにスマホを押し込んだ。辺りを油断なく見回すスーツの男たちに先導され、亜紀は人の行き交うターミナルのエントランスへ駆け出した。




230603
中途半端ですが、長くなりそうなので一旦切ります。

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