スピンオフこそ本番


バイブ音が鳴る。

気怠い眠りから中途半端に意識を引き摺り上げられる不快さ。ぐったりしながらスマホを黙らせれば、着信ランプがちかちか光る。ブルーライトに目元をゆがませながら画面を確かめれば、夕刻から晩にかけて十数件の着信とそれより多い受信メールが並んでいる。うんざりして通知を消した。

畳にしいたダウンコートから重たい体を引き剥がす。掛け布団の代わりにしたトレンチコートには皺がよっていた。首が痛いし手脚も軋む。無理やり起こした頭から血の気が引いて、ぐらり、傾ぐ体に歯を食いしばった。そうして数秒、血が巡るのを待って息を吐く。

ようやく上げた視界に収まる一室は相変わらず空漠としている。チェストもテーブルもなければ、キッチン周りもほぼ空っぽだ。
途方もない徒労感にくずおれそうになる身体を叱咤し、買い置いていたペットボトルのお茶を手を伸ばす。春先の室内の生ぬるさに浸ったそれらに、まずは冷蔵庫を買わないとと考え、ため息が出た。

辛うじて入学式に間に合うだけのギリギリの引っ越しと、待ったなしで始まる大学生活。何もかもが不ぞろいなまま始まった――いや、無理やり始めた――新しい生活は、早くも暗礁に乗り上げようとしている。

でもこうしてはいられない。今日も当然授業があるし、必修だって数がある。休める回数にも限りがある以上、低血圧程度で休むわけにはいかない。とにかくコンビニに行って、朝ごはんを買って。ああでも洗濯ものも溜まってきたから、コインランドリーに行かないと。

バイブが鳴る。ぎゅっと痛くなる心臓に、画面を見ないまま握るようにしてスマホを黙らせた。電源を切り、ダウンへ投げる。顔を洗い、手早く着替え、橘亜紀は部屋を出た。

ふわり、出汁の匂いが鼻を掠める。思わず足を止めた。馴染みのあるものとは違う、でも多分、味噌汁の匂いだ。

平穏な朝の香りが、荒んだ心を惨めにさせる。

「…っ」

唇を噛み締めた。息を止めるようにして、階段を足早に降りる。俯いたまま足元を見詰めていたものの、まだ慣れない幅の狭い階段を駆け下りるように進んだのが悪かった。

「っあ、」

足が滑る。傾く重心、胃の浮き上がる浮遊感。瞬間の恐怖心に陥る体をどうすることも出来ず、きつく目を瞑った―――瞬間、伸びてきた誰かの手が、彼女の身体を思い切り引き寄せた。

硬い何か、でも温かいものに正面からぶつかる。息の詰まるほどの衝撃、だが衝突した相手――布越しの体温に人間だとわかった――は危なげなく亜紀を受け止めきった。
ばくばくと鳴る心臓、汗とせっけんの入り混じる知らない香り。男の人だ。本能的に察した瞬間、一瞬弛緩した体が全く別の意味で再び凍り付いた。

背中に回る腕の太さ、顔の見えない背丈、知らない体温、息遣い。
ああダメだ。
恐慌状態に陥りかけた彼女はしかし、次の瞬間目前の人物から引き離されていた。

「…っと、ダイジョーブ?」
「…あ…」
「ここ結構急だから、慣れるまでゆっくり降りた方がいーよ」

肩に触れていた手が離れてゆく。平淡な声音に圧は無い。吹き込む空気、覚束ない足元がふらついた。降ってくる声をこわごわ見上げれば、片側に垂れた長い前髪の下、切れ長の瞳が、ぱちり、驚いたように瞬く。

この青年、つまりロードワークを終えて戻ってきたばかりの黒尾鉄朗は、身をこわばらせたままの少女を前に幾分目を見開いた。主にはちょっと巷じゃ見かけないほどに整った顔立ちと、加えて凍り付いたままのその反応に、彼もまた数秒の間フリーズする。

「…」
「…」
「…えーと、黒尾鉄朗。三号室の」
「、……橘です。橘亜紀…二号室で」
「……もしかして足とか捻った?動ける?」
「え、あ…いえ、何とも―――すみません、助けてもらったのに、その…びっくりして」

亜紀は我に返って頭を下げる。まずもって礼を言うべきだったのに、取り乱して失礼を働いてしまった。
先ほどまで触れていたその薄い肩と、細い首の上に危うげに乗っかる小さな頭を見下ろして、黒尾は一瞬黙し、ああいや、と応じながら半歩引いた。幾分空いた距離と、それによって体感上狭まる上背の差に、きっと無意識だろう、亜紀がわずかに肩から力を抜くのを黒尾は見逃さなかった。

「ごめんなさい、あの…大丈夫でしたか」
「俺は全く。橘サンこそ、顔色あんま良くないけど大丈夫?」
「…朝は、低血圧で…」
「あーそういう」

ちょっとわかるわ、俺もたまに起きらんねえ。へらり、なるべく力を抜いて笑ってみせると、亜紀はもう幾分緊張を和らげたようだった。
黒尾は半歩脇に避け、彼女に道を譲る。ドーゾ、と手で示せば、彼女は「さっきは本当にありがとうございました」、と律儀に再び頭を下げた。
するりと落ちる艶やかな髪が、差し込む朝日に眩しく透ける。視線で追い掛けた後ろ姿は、滑りの悪い引き戸をやや苦労しながら開け、すりガラスの向こうに消えていった。

黒尾は黙して目を細める。だが彼の無言の思索を中断させたのは、ふよふよと漂ってきた香ばしい香りだった。

「おろ、黒尾くんもご帰還?」
「、おはよーさん。汐崎サンはどうしたの?」
「朝ごはん作ってたんだ」
「…ここで?」
「ここで」

にょっきり、廊下の先、共有スペースの入口傍からお玉片手に首だけ出して、自分を見つけたのは二つ隣の隣人だ。だがおかしい、ここは一階だ。確かにキッチンはあるが、各部屋にも当然備え付けてあるそこで調理しないのは何故なのか。

「良かったら黒尾くんもどう?」
「は?」
「お魚三匹入りの買ったんだ。お米はお代わりできるか怪しいから、足りなかったらパンとかになるけど、」
「え、いやいやそういうんじゃなくて…」
「黒尾も食うなら魚追加するか」
「アッ網の下に水敷いてからオナシャス!油落ちる!」
「おう、了解」
「いや、だから…」
「そう言えば黒尾くんお魚大丈夫?鮭なんだけど」

卵は甘い派?出汁派?でもごめんね出汁で作っちゃった。ちなみに味噌汁はわかめとお揚げと長芋です。

こちらの困惑もどこ吹く風に人の話を全く聞かず、ころころ笑って本日の献立をアナウンスする割烹着withお玉に、黒尾はしばし言葉を失った。思ってる三倍は人の話を聞かねえ。からし色の割烹着が無駄に似合っているところから始まって、どの辺から突っ込んでいいか正直迷う。

いつの間に持ち込まれたのか、竹ラグの上に鎮座する卓袱台にはしかし、これまたウルトラマイペースに食卓を整える岩泉によって、三人目の膳が準備されつつある。そして何よりふわり、充満する幸福な朝食の匂いは、ロードワーク帰りの男子大生の胃袋には堪えるものがあった。

「……一番好きなのはサンマデス」
「うーんごめん、秋まで待って!」
「ぶっひゃっひゃ、聞いた意味!」

きりっと一刀両断、凛々しく断られた黒尾は思い切り噴き出した。まあ何だっていいか、まともな朝食にありつけるのはありがたい。帰りに買ったコンビニ飯は昼に回すとして、今はこの隣人の厚意に甘えるとしよう。
当人たちに自覚は無いが、黒尾の順応性は岩泉ばりに高い。

これまたいつから出現したのか、差し出された座布団に腰掛ける。茶碗にこんもり盛られた白米が目前に到着し、次いで味噌汁茶碗が湯気を立てながらやってきた。中央には卵焼きとベーコン、漬物の小皿。
米は灯が、味噌汁は岩泉が。互いによそったそれを互いに手渡す二人の連携に手を出せずにいると、「黒尾、茶入れてくれ」と岩泉が仕事を振ってくれる。大人しく従い、着席。

ぱちり、箸を合わせた宮城組に倣い、頂きますと声をそろえた。そろって味噌汁を手に取る二人にやはり倣い、まだ熱いそれに口をつける。…うめえ。

「あー…沁みる…」
「エッ歯に?」
「おじいちゃんかよ」
「おい宮城組ユニゾンすんな、胃にだよ胃に」

なら良かった、と笑う灯に、さっき聞けなかった疑問をぶつける。つーかこれ、一体何?

「何って…朝ごはん…?」
「いやだから、何でそれをここで?」
「それがかくかくしかじかでね」

言いながら卵焼きを摘まむ灯をよそに、岩泉がふと席を立つ。訝しく思って視線で追い掛ければ皿を一枚手にして戻ってきた。黒尾の前に差し出されたそこには、焼き上がったばかりの鮭。
慌てて礼を言えば、おう、とだけ帰ってきて、岩泉はまた黙々と、しかし気持ちのいい食べっぷりで膳に向かう。

食事を腹に収めつつ聞いたところは、なんとも不思議な話だった。何でも岩泉が自炊に慣れないと聞いた灯が、朝食を共にするのはどうかと提案した。さすがにそれは迷惑だろうと渋った彼に、しかしスポーツマンたるもの食は命、決して譲れんとなぜか灯側が断固拒否。折衷案として、かかった食費は折半、調理作業もなるべく分担し、その過程で料理教室よろしく自炊スキルを上げて行こうという話に落ち着いたというのである。

黒尾はしばし黙した。ぱくり、箸先ごと口に放り込んだ卵焼きを咀嚼し、そのふわふわ具合に舌鼓を打ちつつ、目前で岩泉の皿に煮物を追加する彼女と、彼女の湯呑に茶をついでやる岩泉を見詰める。

そうして吹き荒れるツッコミの嵐の中、今最も言うべき至言を選び抜き、卵をきちんと胃に送り込んでから、腹筋にしっかり力を込めた。

「夫婦かッ!!」
「「っぶ!!」」

そして米粒が飛んだ。青くなったり赤くなったり忙しなく盛大に噎せる宮城組を前に、黒尾は大変すっきりした。
これくらいしてやらないとこの阿吽のコンビに対する消化不良には見合わない。たとえ卓袱台の下で岩泉の鋭い蹴りを受け悶絶しようともである。

ともあれ以降はつつがなく食事を終え、昼に回すつもりでいたコンビニ飯を、やはり取り急ぎの礼をしておいた方がよかろうと灯に献上し、皿洗いは自分がすると名乗り出た黒尾は、余った煮物や茶を片付ける二人を眺めつつ、先ほどの階段を落ちかけた少女のことをふと思った。

彼女は朝食をどうしただろうか。低血圧だと話す沈んだ顔色を思い返し、黒尾は寝癖で逆立った髪を少し掻いた。


181002

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