おくびょうものはおたがいさまよ


「さっきの、前言ってた新人くん?」
「そう、東堂くん。都立大で、同い年」
「…、うまくやってるみたいで何より」
「うん、いい人。常連さんたちもよく知ってるらしくて、それもあって採用されたって」
「へえ、常連さんがねえ…。ん?でも地方出って言ってなかったっけ」
「…?確かに…親戚でもいるのかな」
「…まあ、変なやつじゃねえならなんでもいいけど」
「うん、それは平気」
「ほう」
「危ないのはすぐわかるし、だいたい当たる。…対処は、まだあんまりできないけど」
「そこが問題なんデスヨ」

呆れたように笑われて、思わずムッと口をつぐむ。とはいえ言い返せない現実があって、このお迎えを含めた今があるのも事実。
今日だって一時間シフトが延びるという連絡を、迷いに迷って、個人宛ではなく寮のグループラインに入れた。それでも示し合わせたように、足を運んでくれたのは彼一人だった。

低く間延びする語り口は、多彩な話題や機知に富んだ返しを要求しない。それがずっと楽で、でも最近は、彼のペースで話すのを聞きたいと、そう思う時が増えた。

「…黒尾くんは、今日も部活?」
「そんな長くはなかったけどな。試合前の最後の仕上げって感じ」
「リーグ戦、近いもんね」
「おう。ミドルは上に上手いのが多くて、ベスメンには固定されてねえけど、ベンチ入りはしたしな」
「サーブとレシーブの強化で…だっけ」
「よく覚えてんね。うち、去年リベロが怪我で離脱してな。一応復帰したけど、やっぱり本調子じゃねえし、フロアディフェンスがちょい不安で」

寮生男子2分の2がバレー男子、かつ寮生女子も2分の1も男バレと浅からぬ縁があるこの寮である。一年たらずも暮らしていれば、一般人のくくりに入る亜紀とてすっかり人並み以上のバレー通になった。
なんなら家事と英語にしか関心のなさそうに見える灯など、遊びにくる青城メンバーと対等にバレー談義ができるくらいだ(ちなみにバレーに関して一番話が合うのは花巻らしく、時折白熱する二人の会話にそれとなく面白くなさそうにする岩泉を、及川が無駄にからかってラリアットを食らい松川に笑われるまでがデフォ)。

亜紀もそこまでとは言わないが、チームの戦略と課題を語る黒尾の話に、時折挟む2、3の質問だけでついていけるほどにはなった。
黒尾の説明は簡潔でわかりやすい。生来なのか後天なのか、彼は素人が理解できる説明の仕方を知っている。黒尾とバレーの話をするとき、亜紀は話の内容を追いかけるのと、目をきらきらさせて好きなものの話をする少年の顔をする彼を見るので忙しい。

「まあでも、そのせいで課題が進まねえのなんのって」
「月曜3限の、基礎工学だっけ」
「そ。毎週小レポートがあるわ半期に2回発表はあるわ…専門だし落とせねえのがキツいよな」
「そんなこと言って、黒尾くん、どの授業も捨てる気ないもんね。前期もフル単だったでしょう」
「工学は取得単位が多いから、取る授業取る授業どれも必須なんですぅ」

珍しく思い切り顔をしかめて、捨てられるなら捨てたい、と遠慮なく愚痴をこぼすあたり、練習と課題の多さに多少参っているのは本当なのだろう。大抵をそつなくこなす黒尾にはあまりない年相応の不満顔に、珍しいものを見れたとくすくす笑った。
女子二人は文系、岩泉こそ理系だが学部は教育系で、専門はスポーツ科だ。本職の理系学部というべき工学部に身を置く黒尾の苦労は、文系には与り知れないものがある。

そんな何気ない会話で、肩の力が抜けていて。だから、話題の流れる先に少し無防備になっていた。

「そういう橘サンはどうよ、先週言ってた重たい課題とか」
「うん、もう少し。グループの人たちも熱心で、捗ってる」
「児童心理のグループワークだっけ」
「、うん」

ゆったりした低音の、ごく何気ない声音だ。彼の側に他意はなかった。ただ、今この瞬間、亜紀の反応ゆえに、他意と呼ぶべき何かを彼が出さずにいられなくなったのも確かだ。

家で待つ分厚い論文の束を思い出して、吸った息で広げたはずの喉が締まる。自分の声が普段以上に平坦になるのがわかるから、締まる気道を広げるように、努めてなんでもないように、亜紀は深く息を吸った。

「資料が、…読むのが大変で」
「ああ…なんか分厚かったもんな。中間発表ってレベルじゃない感じ」
「うん、ちょっと…大変で」

言葉が続かない。きっと気づいているはずの彼は、ふだん通りの声で重みなく拾ってくれる。結局またそれに甘えて、甘えておいてようやっと返せたのは頷き一つきり。
沈黙が鳴る。吹く風の冷たさで息が白んだ。

後期に入って、自分が部屋に篭もりがちになっていることを亜紀は自覚している。それを気にした皆に、やや特殊で重たい授業があると、説明したのはその程度だ。

児童心理学。
広く取ればそう言える。上回生向きの授業で、専門性に反比例して認知度が低いのを逆手にし、寮の皆にその仔細は話していない。話したくないというより、話題に持ち出せる代物じゃなかった。彼のように愚痴にして笑い飛ばせる類なら、いっそどんなに楽だったか。
考えすぎないよう意識的に努めてきて、でも最近はずっと、隙あらば思考をジャックする研究内容に、夜更けまで逃げられなくなりつつある。

まとわりつくものを振り落とすように、亜紀は頭を振った。何か言わないと。プライベートと講義とを分けることには、これでもだいぶ慣れてきたのだ。
焦りに乗じて思考は滑る。学部の女の子たちなら軽やかに取り出せる色とりどりの話題が、自分の中には一つも見つからない。

亜紀はぎゅっと唇を噛んだ。せっかく続いた“ふつう”の会話が途切れてしまう、


「亜紀サン」


息だけで吹き出す笑みが聞こえて、呆れたような、困ったような声が一つ。
思わずはっと顔を上げれば、そこはもう見慣れた寮の玄関に続く門でで、そのわきには足を止め、長い腕をゆるく広げた彼の姿。

「…、……」

見開いた瞳が瞬きを忘れて、吹き付ける寒風に乾いて軋んだ。ややあって痛み始めたそれに、亜紀は二、三、ようやく睫毛を上下する。

ついと上がった広角と、感情を読ませない平易な双眸。初見は胡散臭く、慣れるまでは掴みどころなく、今でも余裕綽々に見える笑み。上背のある整った容姿はどことなく気安い風情があり、気づけば隣にいるような自然さが向かい合っても圧を与えない。

いつもそうだ。亜紀はふと反芻する。彼は亜紀を自分から引き寄せない。この時だけは、亜紀からの一歩をただ待っている。

両足は突然重力の具合を忘れたようだった。おぼつかずに詰めた一歩でたどり着けば、開けたコートの内側に招き入れられ、背中をすっぽり包まれる。
自然、差し入れた両手が、コートの下の彼のパーカーに触れる。やっぱり回し返せずに、ただ指をかけて縋った。

「前言ってたろ、俺、幼なじみがいるって」
「……」
「基本一人でゲームするのが好きで、一時間無言とかザラで───でも俺は別にそれ、イヤでもつまんなくもなかったよ。いい奴だし、まあ男同士ってのもあるけど、話したい時だけ話すので十分だったしな」

風が遮られる。温かい。冷えた頬と鼻の頭に触れる温もりと、覚えのある彼の匂い。
それだけで無性に泣きたくなって、亜紀は口の中に思い切り歯を立てた。
これでもう何も話せない。頭上に優しく降る低音に、つけた鼻先に伝わる声の振動に打たれるしかなくなった。

「そいつは今でも社交性はほぼねえし、多分あれは一生そのままだ思う。でも、やるときはやるし、わかってくれるヤツもちゃんといる。それなりに普通に生きてるよ」

俺はそういう幼馴染と一緒に育って、なんなら元はそいつみたいなとこもあって、

「で、…まあ、幼馴染に対してとは全く違う意味で、亜紀サンが大事なわけデス」

茶化した声の繊細さに、背中をあやす戯けたような手に。
ぶわり、肌が粟立った。急に調節機能を狂わせた心臓が熱を持った。
滅多に見ないぎこちなさを隠し損ねた彼の声が、ひどく慎重に言葉を選んでいるのがわかる。

その彼が、迷いを振り切るように、一つ息をついて。


だから、


「亜紀サンは、俺と沈黙、気まずいかもしんないけど」


俺は全然平気だから、そんな顔しないでいーよ。



滑らかで、軽やかで、責めも詰りも欠片もない、ふざけたようでいて柔らかいばかりの、語り口のその最後。

優しいだけに見せた声音の僅かな情動を、掴み取ったと思った時には、同じ以上に掴み取られていた。
心臓を握り潰される。あふれた全部を手からこぼして、亜紀はしばらく息を止めた。


寂しい思いをさせてしまった。
自分がそう感じてきたより、きっとずっと、長く深く。











「うち、こんなやから」


黒尾が人並み以上に人格の出来た、加えて容姿の良い、総じて申し分ない青年であることを亜紀はよく知っている。
その彼がことさら気にかける自分が、それに値しない人間であることも、亜紀はよく“知って“いる。

話題が、会話が、なんでもない普通のことが、他の人のように普通にできない。何かが、それも一つや二つじゃなく欠けている。
欠陥品だ。そう思う。
それが負い目で、気後れして、与えられるだけの優しさを両手に余して途方に暮れた。そのくせ今更手放せず、握り締めて立ち尽くしている。

それを彼がどう思って見ていたか、少しもわかっていなかった。


「あなたが、」


ごめんなさいの六文字はすんでのところで噛み砕いた。空虚な謝罪が人を虚しくさせることは、この数ヶ月でようやく理解したからだ。

そしてもう一つ理解した。
臆病をことばにして晒すことは、歯が鳴るほど恐ろしい。

それでももう抑えていられなかった。


「くろおくんが、離れていったら、どうしようって」


心を篩ってそれだけ残った。
かきあつめて声にした。

紡いで、目の上のしなやかな首筋から、息を呑むような気配がして。


首裏を掬われる。影が落ちた。いつだってスムーズな彼らしくない、絡まる髪もそのままの指。
眦に触れた柔らかな感触に、反射的に瞼を落とした。自分の目の縁を濡らす滴と、指ではないそれにはたと瞬いて、




次の瞬間、ことばを呑むように、彼の唇が降ってきた。

彼女の涙に濡れたそれは、初冬の夜気に淡く冷え、火傷するほど熱かった。



210408
帰り道・後半。
長かった…ながかった……

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