青年よ、大志を抱け




我がバイト先である居酒屋“星霜“には、二度見したら最後五分弱は目を離せなくなるという定評が爆速で確率された超絶美人がいる。

お馴染みの冒頭である。つまり私がその美人の初めてにして現状唯一の先輩だ。…よく考えたらそれすごい特権ね。芸能界の勢力図書き換え必至の美人のファーストSENPAI頂いちゃったって末代まで誇るべき栄誉じゃなくって?あ、そういうテンションは間に合ってる?わかった説明文にする。

では改めて、前年度末より慢性的人手不足な我がバイト先である居酒屋“星霜”に最近、喜ばしいことに新たなアルバイトがやってきた。名前は東堂優希。近隣の公立大に通う一回生、御年19歳の男子である。もう一度言おう、男子である。

繰り返した理由は言わずもがな、男性耐久ボーダーがover70・under10という深窓通り越して幽閉の令嬢、高嶺どころかエベレストの華たるかの佳人、橘亜紀ちゃんの存在ゆえである。

この美形何が怖いって、致死的に丸腰なところである。生涯にいっぺん相見えるか見えないかの壮絶な美貌の持ち主でありながら、美形特有の対人突破力、良くも悪くもな我の強さ、自信プライド自尊心その他あらゆる装備がまるでないのである。

一体どんな育ちをしたのか、とことん染み付いた自信のなさから来る不安定な危うさは、とりわけ一部の輩にとって格好の芳香になる。彼女が辛うじて持つレベル1の装備・無表情の予防線など、どこぞの粗悪な映画や俗悪ビデオを現実と区別できないサイコな連中にはなんの意味もなさない。
釣れるはナルシスト、寄るはストーカー、まとわりつくはサイコパス。局地的地獄絵図。ここが世紀末である。

そんなこんなの半年、当然亜紀ちゃん目当てであろう男がアルバイトを志願してくることは一度や二度のことではなかった。幸い以前も言ったがこの居酒屋、バイトの募集は店先に張り出した紙一枚。それを剥がしてしまえば表向き募集がないと見てわかるので、申し出る人間は大将ないし奥さんに直接尋ねる度胸がある人間にまず絞られる。 
今は募集してない、と言われて引き下がればそれまで。食い下がるタイプは大抵しばらく来店を続けるので、大将、私、女将さんに加え常連さんたちによる内々の素性調査が入る。

そう、何が怖いってこの居酒屋、古き良き東京の下町の飲み屋街に位置するゆえ、兎にも角にも顔が広い。本気で素性を調査しようと思えば、「どこそこ大であのアパートのこの学生、どんな子かちょっと見といてくれる?」の一言で、この近辺で生活する学生一人の日常などおはようからおやすみまで丸裸にできるのである。
捜査は足で、聞き込みは基本。昭和由来の商店ネットワークは時に警察権力にも匹敵する。#プライバシーとは?うるせえ治外法権だ。

さて、そんな水面下におけるゴリゴリの非合法監査基準を見事クリアし、めでたくも今季二人目のアルバイトとして入ったのがこの東堂青年である。健気に水曜ランチと金曜夜に来店を続けていたこの男子大生が、時折シフトが重なる亜紀ちゃんをこっそり(と思っているのは多分本人だけで常連さんたちにはモロバレに)目で追っていたのは無論大将以下我々も知るところ。しかし、このなかなか爽やかなルックスをした青年の、華の大学生というステータスに反して存外奥手さ、問題行動のない大変模範的(?)な片想いに、常連さんたちの心は動いた。歴史は動いた的なテンションである。

初々しくて良いじゃないか、多少気も推しも弱そうだが亜紀ちゃんみたいな子にはそれくらいがよかろう、そんな勝手なお墨付きをもらい奥さんも乗り気だったが、大将は最後まで渋っていた。気持ちは大いにわかる。正直そろそろ人手を増やしたいのが大将にとっても本音だと思う。でも、亜紀ちゃん目当てとわかっているバイトを入れて、果たして円滑に、かつ長く続くかどうか。

幸いというかなんというか、東堂くんが入ってはや二ヶ月、恐れていた事態は今のところひとつも起こっていない。つまり、無用なアプローチをかまして亜紀ちゃんの精神衛生を脅かすことも、ブロークンハートして退職することもなく、時折こぼれる地方出の方言と素朴さ、そそっかしいことをする愛嬌で常連さんたちに可愛がられながら、つつがないバイトライフを送っている。

最初は目も合わせらないほど緊張して噛んだり挙動不審になっていた亜紀ちゃんとも、最近は普通にオーダーの確認をしあったり、ちょっとした会話ならできるようになってきた。
実際、若い男の店員が酒場に加わるのは女の同僚としても心強い。面倒な客や酔っ払いの対処は、以前より格段に楽になった(前までは大将、時に常連さん、リーサルで私が力技で処理してた)(そうとも“処理“である)。

いいことである。バイトとしては。
ただ、そのちょっとずつ縮まってきたように思える距離感とか、亜紀ちゃんが存外平常運転で彼を避けたりしないこととか、厄介な客から彼女を首尾よく隔離できたこととか、そういう積み重ねが少しずつ、東堂くんの自信や期待になっていくのを側で見るというのは。

事情を知り結末を予見できる人間としては、なかなか苦しいものがある。





「あれ、橘さん今日9時上がりじゃなかった?」
「うん。でも、3番テーブルの団体さん、予約が急に入ったから。1時間延長しますって、大将に」
「でもそれじゃ、帰り遅くなるんじゃ…」
「平気。金土は、10時半まで入ったりもするから」
「……じゃあ…じゃあ俺、」
「2番テーブルオーダー!」
「アッハイ!」

低く結った黒髪がさらり、背中でゆるく翻る。ホールに顔を向けた横顔の美しさたるや、何度見ても惚れ惚れしてしまう。美人は三日で飽きるというがあれは大嘘だ。実際東堂くんは3秒ばかり魂を抜かれていた。バカヤロー働け。

東堂くんが入ったことは、亜紀ちゃんにとってもいい刺激になっているようだった。同期とはいえ後輩に面倒を見られるばかりではなるまいという意識がそうさせるのだろう、前よりもテキパキと、そして面倒な絡みに対してもはっきりした態度を取れるようになってきた。

2番テーブルから戻り、常連のおじいちゃんに熱燗を差し出し、何を言われたのか。身をかがめて耳を傾け、珍しく自然な笑みを返している。

「葉山さん、何って?」
「奥さんの若い頃にそっくりだって」
「それ前も言われなかった?」
「多分、毎回言ってます」

亜紀ちゃんばりに美人ってそれ絶対盛ってるでしょ、と言っちゃう私に、ちょっと困ってから、「お年を召しても、そう言える奥さんがいたっていうのは、いいですね」と言えるのが亜紀ちゃんだ。
うーん可愛い。こればかりは美しいでも麗しいでもない、可愛いのだ。
もっと言うと、可哀い。

そんな言葉にならない一瞬の諸々をこめて思い切りハグすると、ちょっと慌てて固くなるのがまた可愛い。「ほらそこいちゃついてないで仕事なさい!」って奥さんからゲキが飛ぶ。はいはいすぐ行きますとも。東堂くんは羨ましそうな顔をするんじゃない。君は本当に嘘がつけないね。
去り際の亜紀ちゃんを引き留め、気持ち、声を潜めて尋ねる。

「あ、ねえ亜紀ちゃん、今日ってお迎えある?」
「?はい」

…なるほど。
思い出す限りこの二ヶ月、東堂くんと亜紀ちゃんの退勤が重なったことはない。東堂くんを見やれば、きょとんと邪気のない怪訝顔。思わず漏らす。

「……今日が命日か…」
「えっ、命日って先輩…きょ、今日早引きしますか?俺シフト最後まで入ったほうが」
「そういう話じゃ……ああいや、そうね。うん、東堂くんがそうしたくなったらお願いね」
「?」






「橘さんって下宿だったっけ」
「うん。学生寮」
「寮かー…いいなあ、ちょっと憧れる。みんなでわいわいしたりするの?」
「みんなって言っても、四人しかいないけど」
「え、四人部屋とかじゃなくて?」
「うん。一人部屋で、アパートに近い感じで…でも、ご飯は一緒に食べたりするから、そこは寮って感じ」
「へええ…なんか、俺が思ってた寮と違うなあ」
「私も、他のところは知らないけど…多分、普通の寮はああいう感じじゃないと思う」
「…えーと、歩きだとここから遠い?」
「30分かからないくらい」
「え、そんなに?自転車乗らないの?」
「子供の頃、あんまり乗らなかったから、得意じゃなくて」
「ああ…あるよね。俺の同級生にも、家の前が坂で小さい頃に練習できなかったって、自転車苦手なやついたし」

前掛けを外して、頭を覆う三角巾を取って。きっと持ち帰って洗濯するんだろう、鞄に入れる彼女を慌てて真似して、東堂青年も持ち帰って洗濯するようになったのはひと月前。バックヤードのロッカー前、簡単に身支度を整えてしまえば、裏口まで残された時間は1分にも満たない。

急ぐ素振りはないが、別段ゆっくりでもなく、亜紀はあっさり出入り口をくぐる。出てしまえば駅に向かう東堂と、寮に向かう亜紀の行先は反対方向だ。
もう遅いから送る、ただ一言言えばいい。一時間シフトを延ばすと聞いた瞬間からずっと頭の中でぐるぐる回し、ロッカーに引き上げてからは舌の上で転がし続けていた。

夜も深まる飲み屋街の外れ、ややざわつきを落とした通り。初冬の夜、吹き付ける夜風に目を細める彼女にその一言を言わんとして、
東堂青年は息を止めた。


「───、」


夜の静謐に微睡んでいた星屑が、一斉に目覚めて燦めくような。

微笑んだわけでも、綻んだわけでもない。ただ雄弁に、劇的に、宇宙を落とし込んだ双眸を染め上げる極彩色。


安堵と緊張、喜色と戸惑い、駆け寄りたくも逃げ出したい。
拮抗する葛藤と矛盾する衝動に揺さぶられながらも、見つめる先から決して目を逸らせないと言わんばかりの。

青年には彼女の横顔に過ぎった全てを、つぶさに分けては説明できない。
ただひとつ、刺し貫かれるほど明確に、直感が掴んだ言葉があった。


“恋い焦がれる“。




「…東堂くん?」
「…あ……いや、ごめん、…ぼーっとしてた。へへ、ちょっと疲れてんのかな」
「今日、忙しかったもんね」
「うん、そうだな。うん」

通りの向かい、街灯の下、公衆電話のボックス横。
ガードレールに腰を預けた佇まいでもわかる長身。パーカーにコート、ジーンズだけのシンプルだが趣味の良い装いが、均整の取れた体躯と宵闇に浮かぶ肌の白さによく映える。

こちらに気づいているかはわからない。視界に入れるだけで、向けた視線の焦点は合わせなかったから。

「……向こうの人、お迎え?」

整えきれなかった声が上擦った。幸い彼女は気づかなかったようだった。
振り向いて、東堂青年をまっすぐ見たふたつの星空が、はたと瞬き、ひとつゆれる。


「うん」


これほど平坦で、淡白で、これ以上なく雄弁な頷きを見るのは、きっと一生でこれきりだろう。

そっか、とか、じゃあここで、とか、多分そんなことを言ったと思う。翻る黒髪と華奢な背を、青年はただ、ぎゅっと拳を握りしめて見送った。

おつかれさま、と返された声音は、今日も変わらずひんやりと美しかった。でも、それ以上の色でも、それ以下の音でもないと、たった今理解してしまったから。







「あら、東堂くん。居残り希望?」
「…うっす」
「助かるわ、皿洗い溜まりすぎててさ。大将には私から言っとくから」
「……あの」
「うん?」
「俺、採用の時、大将に言われたんすよね。『橘はやめとけよ』って」
「、うん」
「そりゃあ俺、あんまりパッとしないし、鈍臭いし、地方民だから、釣り合わねえって言われたらそうだし」
「君はそこがいいのよ。最近のランチタイム、君目当ての女の子がどんだけ増えたと思ってんの」
「はは…まあ、入ってみて、橘さんがしょっちゅう変なのに絡まれてんの見て、ああこういう意味でやめとけってことかとも思ったんですけど」
「ああ…それもなきにしもだけど。美人の彼氏は苦労するから」
「……『やめとけ』ってのは…ああいう意味だったんすねえ…」
「……大将、君の採用だいぶ迷ったのよ。東堂くん、どこどう見たっていい子だから余計に」
「……俺だってわかんないっすよ。略奪愛に走るかも」
「バカおっしゃい、向いてないわよ。そもそも勝ち目がない」
「うっ、はっきり言うなあ…」
「当たり前よ。それに、東堂くんだって見たならわかったでしょ」

彼女が言い寄られているだけならやってみる価値はある。でもあれはどう見たって負け戦だ。相手がどうと言う前に、ベタ惚れなのは亜紀ちゃんの方だから。

完膚なく、付け入る余地なく、たった今完全に敗れた恋に、心なし萎れた青年(19)の背中を、皿洗いを中断して拭いた手でぱしんと励ます。

「傷は浅いぞ、一等兵」
「…傷病手当は出ますかね、軍曹」
「今度の賄い、うんといいやつ作ってもらおう。ね、大将。いいですよね?」
「…だべってねえで仕事しろぃ」
「「はーい」」


210318
帰り道・前編。長くなりそうなので半分に分けました。

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