スライディング実家帰省



眩しい陽光が夏の名残を残す深い青空に、高く透けた白雲と吹き抜ける涼風が秋の到来を触れ告げる。
鼓膜を揺らすのは大都市を行き交う車と雑踏の話し声──ではなく、重みのある稲穂が風に泳ぐ柔らかな葉音。

連なる山々の稜線がくっきり映える秋空の下、鍬を下ろしたところのやや丸まった背中が伸びてこちらをふり仰ぐ。経年の皺を刻んだ面差しが小道に伸びる影を捉え、ほころぶような笑みを浮かべるのが見えた。

あ、この顔。二人の青年と一人の少女が思わず見やった既視感の源たる彼女は、広々とした畑の柔らかそうな畝の手前、持っていた荷物を放り出し、

「Hey gramma, I’m hooooooooome!」
「Long time no see, my dear」
「俺はもうツッコまねえ」
「右に同じく」
「…、……」

無駄にネイティブばりの帰宅宣言への完璧な返し(それもスーパーにクイーンイングリッシュという暴挙)に、岩泉一は光の速度でツッコミ放棄を宣言した。真顔で黒尾が同意し、亜紀は無言のまま瞬きの数を増やした。ちょいちょい電話口のやり取りが日本語を脱線するのは聞いていたが、想像以上にジャパンじゃなかった。
だって考えろ、バチバチの田舎の畑の真ん中、地下足袋に野良着で鍬担いでイギリス英語って何事。BGMは遠く牛舎から聞こえる「もおおおおおっ」たる徹底ぶりである。事故レベルのミスマッチ。
しかし最早ツッコミも入る余地のないシュールの爆心地は今日も今日とてお構いなしだった。

「ばっちゃまばっちゃま、こっちが岩泉一くん、言ってた高校の同級生ね」
「とっても頼れる、すてきなおなまえの子ね」
「………、」

見覚えのある面差しの笑みににっこり微笑まれ、まず岩泉に10pのダメージ。

「うんそう、すっごく頼りにしてるの。んで、こっちが黒尾鉄朗くん、寮で会った東京の人な」
「器用な気遣いやさんだったかしら」
「………、」

衒いのないストレートな褒め言葉に、次いで黒尾に20pのダメージ。

「そうそう、言わないけど優しい人なんよ。そんで、こっちが亜紀さんね、言ってた京都のお嬢さん」
「あおら、いきなり別嬪さんだごだ」
「んだすぺ?」
「「!?」」

突如ぶっこまれたゴリゴリの東北訛りに、全員に30pの衝撃。

前置きというものがないのかこの祖母子には。何のトリリンガル目指してんだよ、と引きつった笑みでこぼした黒尾に隣の亜紀が無言で同意する。お花飛ばしてほけほけ笑う祖母と孫に全力で物申したいところであったが、幸い意味だけはなんとなく理解できるのは「別嬪」が全国共通語の範疇であることと、ここに来るまでの道中会う村人会う村人に同じような台詞を言われ続けたためである(ちなみに往来で遭遇したよぼよぼの老婦は亜紀を見るなり拝み始めたほどだった)(「ああーおマツさん気持ちはわかるけど違うのよ、この人私の同級生だから天女様じゃないんよ」「あおら、おらあかぐや様が降りてきなすったと…」「そっちだったか…!」「「いやどっちでもねえよ」」)。

しかしこのなんとも邪気のない抜けた笑みを向けられると、言いたい一切合切が藻屑のように消し去られてしまうのだから血は争えない。
灯の天性のズルさはここが根源に違いない。全員に確信させる陽だまりのような老婦人が、ひとりひとりの顔をとっくり見つめて言う。

「なんにもないけど、ゆっくりしておゆき」
「「「……お世話になります」」」

打って変わって戻ってきた美しい標準語がやんわり紡いだ歓迎の言葉に、少年少女は各々にこうべを垂れた。




雅火からの鬼電がかかってきたのは、新幹線を下車して降り立った東京駅のホームでのことだ。

慌ただしい帰路も終盤、さあローカル線に乗っていざ我が家へと思った矢先、出鼻を挫くように告げられたのは「駅を出るな」というトンデモ指令だった。
突然の待機命令に目を白黒させる灯に、雅火は詳細の事情は省きつつ、騒動の関係者が東京で待ち伏せしている可能性があること、危険を完全に排除するにはもう少し時間がかかりそうであることを説明した。「God damn...give me a break…!」と灯が天を仰いで呻くのに黒尾すら内心同意した。

そうは言われても手荷物は少なく、移動するにも先がない。「エッ帰宅難民まっしぐら…?」と持ち前の阿呆具合を暴走させ始めた灯に、さすがは旧家規模、というかいろいろ面倒になったらしい雅火が、「なんなら飛行機とホテル手配したるから、このまま高飛びしたらどうや。好きやろUSA」とこれまたトンデモ提案を投げ込んだから始末に負えない。案の定(と言わねばならないあたりがジャングル思考がジャングル思考たる所以であるが)ばっちり目を輝かせた灯から岩泉がスマホを取り上げ、禁断の化学反応を一刀にて阻止した。「パスポートがねえよ」。彼は冷静だった。
(「そうだった…!!」と駅のホームで崩れ落ちた灯に、黒尾は秒速でツッコんだ。「いやあれば行くんかい」。)(日頃のネイティブかぶれから密かに名字名前帰国子女説を考えていた亜紀は、灯が一度もパスポートを持ったことがないと聞いて内心ちょっとがっかりした。)
ともあれその結果行き着いたのが、この急遽の宮城帰省である。

『え、じゃあとりあえずうちくる?男ものの服はないから仙台で買い出しせんといかんけど、部屋数と野菜だけはあるから数日ならイケると思うぞ』
『待て、ちょっと待て、おい岩泉どっからツッコめばいい』
『(…お野菜…?)』
『服は俺んちから適当に持ってくるし、黒尾のは及川ので間に合うだろ。それより、ばあちゃんに負担にならねえか』
『あ、それは平気。うち盆正月には親戚死ぬほど集まるから、ばっちゃまに言わせりゃ三人くらいいてもいなくても一緒だよ。たまに全然知らん人とかいるけど気にしてないから大丈夫』
『最後が何一つ大丈夫じゃねえよ!…つーか真面目な話、南サンの言う「面倒な連中」が宮城まで押しかけてきたらどうすンだよ』
『あっそういう?つってもなあ、うち仙台からそう遠いわけじゃないんだけど、山一個越えたドがつく田舎なんだよ。余所者が来たら一瞬で判別つくし、現役のじっちゃま方が猟銃だの持ってっから、いざとなったら東京より安全だと思うぞ』
『おい待て老人に何させる気だ、最終的に畑に何埋める気だよ』

ちなみに到着後最初に遭遇した第一村人たる好々爺が亜紀に関する灯の大変ざっくりした説明(「このすんげえ別嬪さんを狙う不貞の輩が村まで追ってくんかもしんねえんよ」)を聞いて、「そうかい、そんなら鉄砲の手入れでもするかね」と実に朗らかにのたまったものだから、灯以外の三人は死力を尽くして思いとどまって頂いた。アッこれマジのヤツだ、熊か猪でも撃ち殺すレベルのノリで言ってんぞと戦慄した。灯には岩泉の伝家の宝刀・アイアンクローが降り、以後家に着くまでの間厳重な箝口令(と言う名のお口ミッフィーさんの刑)が敷かれた。
どこでどう育てばこのジャングル思考が育つのか常々思っていたが、いざ灯の故郷に足を踏み入れて理解した。牧歌的に見せてたまげたクレイジー。ここが元凶に違いなかった。



「お邪魔しまーす…」
「どぞどぞ〜」

馴染んだ引き戸の向こうから、ふわり、ただよう醤油の匂い。煮込まれた野菜と鶏肉の、さして空腹でもないのに食欲をそそる香りに、懐かしさが込み上げる。筑前煮だ。ばっちゃまの作る中で私がいっとう好きな料理の一つである。いきなり帰ると連絡したのに、そこから準備してくれたんだろうか。変わらぬ優しさに頬がゆるむ。

「…なんか、どっかで嗅いだ匂いだな」
「筑前煮だよ。絶対そう」
「ああ…それでか。汐崎の作ってくれるヤツと同じ匂いがする」
「楽しみにしてて、ばっちゃまのは私のより三倍は美味いよ」
「お前のだって十分美味えよ」
「……。」
「なんだよ」
「イイエナンデモ」

…いや知ってる、普段から黙ってても美味しいものは美味しいとわかる仕方で食べる人だし、かといって何も言わんわけでもなくいただきますとごちそうさまは欠かさん人だし、必ずと言っていいほど食べ終わりには「美味かった」って言ってくれる人なんだけど。なんていうかアレだ、…食卓の場以外で思い出したように言われると、どうにもむず痒いんだよなあ。

靴を脱ぎ、駅前で済ませた買い物の袋類をひとまず上がり框にまとめて上げる。とりあえず一息つこう。なんせ朝から弾丸移動、遡れば昨日からまともな休息を取った覚えがない。
お茶請けに何が出せるだろうか。ばあちゃんのことだから、干し柿か栗饅頭か、芋羊羹の可能性もあるな。じゃあほうじ茶がいいかしら。思って戸棚を確認すれば、ご近所の老舗和菓子店の高級わらび餅が準備されててちょっと泣いた。わらび抱えて泣いてたら岩泉くんにドン引きされた。
仕方ないだろ、偉大なるばあちゃんの愛を前に孫は泣くしかねえんだよ!振り切って叫んだら「マザコン…いやばばコン…?」と真顔で心配された。ばあちゃん子と!呼べやい!!
畑から戻ったばあちゃんを待って開封。いただきます。

「「うっっっま」」
「そうじゃろうそうじゃろう」
「何でお前が誇らしげなんだよ…」
「創業80年、厳選本わらび使用、全行程手作業ゆえ一日20箱限定。ちなみに、」
「…ちなみに?」
「我が家から徒歩30分」
「「あざァっす!!」」
「あらあ元気ねえ」
「あの」
「なあに亜紀ちゃん」
「…とっても、美味しいです」
「ぐうかわが過ぎて呼吸困難…!!」
「ばあちゃんこの辺交番ありますか、それか駐在所でも」
「Okey wait, we need to talk」

私の決死の弁明に構わず頭の中の汐崎さんが両手差し出して捕縛待機に入った。絶賛異議申し立てしたい。こいつ最近当人の意思ガン無視し過ぎなんだけど何?反抗期?最近アホみたいにシリアス飽和させてっから食傷気味とかそういう?んなモン私が一番腹一杯だわ!需要もねえのにだらだら引きずりやがってこの連載のコンセプトなんだと思ってんだ!あん?メタいこと言うなって?言わせるような展開にしてんのだr(強制終了)










いい家だな。
声に出すことなく思う。着いてから何度目かになる同じ感想だ。

年季の入った平屋だが、古びた印象はない。ぴんと張られた障子は真っ白で、磨き上げられた縁側には柔らかい艶がある。同じ日本家屋でも、旅館として一分の隙なく洗練された橘宅とはまるで質が違う。古くも美しく齢を重ねた風情には、手に馴染む生活感と安心感があった。

青城で毎夏訪れていた合宿所がこんなだったか。どっちにしたって「同級生の女子の家」と言うより、まさしく「ばあちゃんち」に来た感じがする───それはそれでどうかと思うが、言ったところでむしろドヤ顏で誇られそうな気がする。

「……」

長く伸びる西向きの縁側には、まぶしい黄金色の陽光がひらたく差し込んでくる。黄昏時の空は高い。横へ滑らせた視線だけで見上げたところで、するり、頭部の包帯が弛むのを感じた。

衣摺れと共に包帯を巻き取った指先が、ひどく慎重にガーゼへと手をかける。右耳の斜め上、治療に際して一部を切った不揃いな髪なんて数本抜けようが気にしないが、言ったところで聞かないだろう。黙って好きなようにさせる。

誤解のないよう言っておくが、別に自分で頼んだわけじゃない。そもそもコイツに傷を見せるつもりなんて毛頭なく、ガーゼの取り替えを志願された時だって、突っぱねようと思えばそうできた───できたけど。

(…あんな、余裕のねえ顔しやがって)

掻き乱されるとまでは言わない、言わずとも良いほどには慣れた。ただ、そう、慣れたとは言っても、単純で正直な心臓は決まって端から焦がされる。

振り分けが利かない感情は苦手だ。置き場が決まらないせいでいつまでたっても持て余す。そのくせ危なっかしい輪郭ゆえに、そこいらに放り投げるのもままならない。…こう並べればコイツの存在そのものだ。繊細で厄介。

この上なく慎重にガーゼをはがす指にじわりじわりと追い詰められる。触れた端から粟立つ肌を大人しくされるがままにしているのは、余計なことを言えば多分、また泣かすと思うからだ。

テープの一番端が皮膚から離れた。背中の気配が揺れるのを感じる。ガーゼを剥がした剥き身の傷は、どれほどの間だろう。体感では随分長いこと、秋風と無言の視線に晒されていた。

振り返ろうか。思ってわずかに傾げた頭を止めるように、消毒液の匂いと、冷たいガーゼが降りてくる。次いでつんと鼻をつく軟膏と、新しいガーゼが被さった。縁側に垂れた包帯を手に取る気配がして、力尽きるように動きが止まって。

こつり、ひどく頼りない重みが、左の肩甲骨をこづく。

「……、」

目だけで斜陽の反対側を追った。畳の部屋へと長く伸びる影が、赦しを乞うように項垂れていた。

ため息ひとつ。自分にだ。
ここ最近は泣かせてばっかだ。

「…灯」

舌に慣れないなまえを紡いだ。応じぬ背中に諦めて、胡座を崩して振り返る。支えを失い落っこちそうな小さな頭を掬い取った。ああくそ。

(…小せえ、)

普段は殺しても死にそうにないツラしやがって、実際手に取りゃいつだって持て余すほど、柔くて脆くて頼りない。

物理的には泣いてはいない。少なくともまだ涙はなかった。
でもこの顔をさせたら、実質泣かしたも同然なのだ。

「灯」
「…あ゛い」

潰れた声に気が抜ける。相変わらず色気も雰囲気もない。でもそのおかげでできた余裕でもって、薄い背中をそうっと叩く。

お前のせいじゃない。深い傷じゃない。一両日中に抜糸できるし、CTだって問題なかった。

それが結果で、確かな事実で、でもそういう手触りがいいだけで温度のないものを並べたところで、多分コイツは救われないのだ。


「もうしねえよ」
「!」
「仕方ねえだろ、っつうと結局言い訳になるけど。一瞬のことだったから、体が先に動いちまったんだよ」


お前のためだった、なんて死んでも言わない。それは確かにある意味じゃ事実で、でもそんな独り善がりな台詞はクソ喰らえだ。思考は二の次で、気づいたら動いてた。それが事実のもう半面だ。

次は、…いや、『次』があったらその方が問題だけど、仮に次があったらもうしない。

お前が泣くようなことはしねえよ。


「だから許せ」


俺の無茶も、お前の自責も。

…右の肩口から唸り声が聞こえてきた。ここまで来たら普通に笑えた。犬かお前は。…割と犬だな。それも結構な駄犬。

「…ゆ゛、」
「あ?」
「ゆるずとか、そういう問題じゃないし、そもそも私そんな立場じゃないじ、ていうかそれわたしの所為で、はじめぐんの謝ることでもないし!」
「お前がいつまでもしょぼくれてるからだろ。笑ってろ、俺が落ち着かねえ」
「この、この男前めちゃくちゃだ、言ってることべらぼうだ、格好良いって人殺せるんだぞ、弁えてねえだろこのでごすけ…!」

モブが!死んじゃうだろうが!と涙声で騒ぐ小さな頭のてっぺんに顎を乗せた。自然、深く抱き込んだ喧しい喚きがくぐもって遠ざかる。だからモブじゃねえよ。

「灯」

ひらがなの音をつぶさぬよう、舌の奥でみたび呼ぶ。ついに沈黙した肩口が、ゆっくりと温かく濡れていく。
秋風が頬を撫で、指先に泳ぐ灯の髪がひと束舞った。傾く淡い夏の斜陽が、色濃い秋の夕陽となってゆく。


いい家だ。繰り返しそう思う。

搾取でなく共生のために整えられた緑は美しく、作物の実りは豊かで水は清い。牧歌的で善良な村人は皆して名前の帰郷を喜んだ。慎ましくたおやかな祖母は、眼差しひとつで沁みるほどに情が深い。

そういう地で、そういう家で、そういう人々と共に育った感性だ。

その無防備で善良な感性が、橘の受けた仕打ちに、黒尾の激怒に、俺の流血に、傷つかなかったはずがないのだ。


「…はじめくん、」
「なんだ」
「あやまらせて、ごめんね」
「…」

ちぎって飲みこむような声が言うから、思わず腕に力がこもった。頼りない手がシャツを手繰るのを感じて、やわらかく掴むように後頭部をかき混ぜる。
お前が謝ることでもない。そんな一言は言わないでやった。


190929

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