一難去って何とやら



す、と襖を引く音がして、続いてぺたり、廊下に降り立つ足裏の柔らかい音が鳴る。

幾分朝が遠退いた九月初旬、早朝の淡い光を帯びた庭先へ自然、黒曜の瞳が流れる。眩しげに細められたその双眸は、次いで縁側に腰掛けた青年の姿を視界に入れた。
色素の薄い髪は記憶のそれと変わりなく、しかし涼やかな目元は幼さが抜け、精悍さを増しただろうか。彼女の視線の到着を待って、落ち着いた声音が西の訛りで言う。

「おはようさん」
「…おはよう」

鈴を転がしたような声は、東のトーンを崩さない。
胸に過った一抹の寂しさををそっと仕舞い、北は縁側に座布団を一枚増やした。

「よう寝れたか」
「…、…あんまり」

懐かしい問いだ。よく問うたし、よく問われた。間があったのはきっと、誤魔化そうか迷い、北相手には通用すまいと白状することを選んだためだ。
そんな亜紀の心はお見通しなのだろう。北は小さく笑い、淹れたばかりの茶をすすめる。朝食まではまだ時間があった。

「高二の夏以来やから…二年ぶりくらいか」
「…」
「こんな形で会うとは思わんかったな」
「…北は、なんで」
「雅火は俺の遠縁なんや。せやから橘とも、江戸辺りまで遡れば血縁になるで」
「……知らなかった」
「俺も最近知った。けど、南のことは多少は知っとったんやろ?」

亜紀は頷いた。雅火個人は別にして、南家との血縁については、伯母の楓──母親の姉から薄っすら聞いたことがあった。
離婚した亜紀の実父は、南家の血筋にあたる。

「親父さん同士がはとこなんやってな」
「…ハトコ」
「その娘同士やさかい、雅火と橘はみいとこになるそうや」
「……ミイトコ」
「ややこしいなァ」

ころころ笑う北につられて、亜紀も困ったように眦を緩めた。
父のことは、特にその家系についてはほとんど知らない。知るのは母方の事情ばかりだ。


伯母は19で束縛の激しい実家を飛び出した。妹である亜紀の母はその反動で過剰に囲い込まれて育ち、結果姉に倣うように、21で駆け落ちした。まとまる寸前の見合いを放り出しての出奔に、両親は当然激怒したという。

しかし身一つで生計を立てた姉と異なり、男に頼って家を出た妹の出奔は上手くいかなかった。若さと勢いだけで始めた結婚生活は間も無く崩壊。物心もつかない妹と共に母親に引き取られた時、亜紀は10歳になったばかりだった。

言葉はなかったと思う。声はもう思い出せない。頭に乗った手のひらが最後の記憶だ。
でも顔を思い出す必要はなかった。父を知る誰もが、亜紀は父に生き写しだと口をそろえるからだ。

父は亜紀を引き取ることを希望したという。母親にとってはそれも屈辱だった。愛するより愛されたい、もとより母になる度量のない女だったといえばそうだろう。

自分と異なり夫に望まれ、自分を捨てた男を嫌でも彷彿させる娘を、母親は心のどこかで逆恨みした。娘を離反させた男に似た孫を祖父母は疎み、見目も学も姉に劣った妹は年を経るごとに心根で卑屈になった。


あんたさえいなければ。
何の癇癪だったか、そう喚いた母親の顔は、今も亜紀の脳裏にこびりついて離れない。

役者もかくやと思うばかりの、恐ろしく見目の整った父親だった。
父に瓜二つというその顔が、亜紀はもうずっと嫌いだ。



何不自由ない生家で育ち、家を出た後も専業主婦を選んだ母親が、女手一つで生計を立てられるはずもない。伯母の援助を受けても保ったのはわずか三年。そこに降って湧いたのが、柊との再婚話だった。

実家と柊との間で何が話され、母親がどこまでそれを知り、どんな条件でいかなる結論に落ち着いたのか、亜紀は知らない。
ただ母は再婚し、見知らぬ男が義父を名乗って家庭に現れた。生まれ育った東京を離れ、中三から母の生家へ引っ越した。
すべては決定事項だった。


「京都からわざわざ稲荷崎に通ったんは、伯母さんの母校やからやったな」
「…うん、そう。よく覚えてるね」

静かな北の追想に、亜紀はそっと目を伏せた。満員電車を乗り継いだ日々を思う。片道一時間の通学時間をおして、あえて隣県の高校を選んだのは、唯一の反抗らしい反抗だったかもしれない。
しかし、伯母のことを話したのはいつだったか。当人にもう覚えのない他愛ない会話を、よく覚えているのが彼らしい。
感心した亜紀の心を読んだように、北が言った。


「そら、橘のことやからな」

何でも覚えとるよ。


亜紀は思わず北を見た。北もまた亜紀を見ていた。
白く泳ぐカーテンの、陽の光を透かした夏風が、ふと頬に蘇った。

縁側の障子の白を背に、ほどけるようにゆるんだ涼やかな目元が眩く浮かび上がる。庭園を囲む垣根を超えて、朝靄にやわらかく溶けた朝陽が縁側に差し込んだ。洗い上がったペイルブルーの空の下、深緑の苔が戴く無数の雨粒が、光の粒にさんざめく。

静謐に佇む青年の、理知的で涼やかな眸の奥の優しさに、呑んだ息で喉が詰まった。


容姿のゆえ初日から騒がれ、愛想のなさゆえ瞬く間に孤立した亜紀を、隣席であった北だけは特別扱いしなかった。
その容姿を褒めそやしもせず扱き下ろしもしない。甘やかしも疎みもせず、誰とも変わらぬ事務的な態度と距離感を崩さなかった。

くだらないやっかみで亜紀を中傷する連中を、北は逃げ道のない正論で論破した。なにぶん当時から「ミスター隙無し」、周囲から一目置かれていた北の真っ当な擁護のおかげで、亜紀は針の筵を脱することができた。

大口を開けて笑わずとも、誰かの冗談に微笑えるようになった。毎日と言わずとも、クラスの女子と弁当を囲むようになった。
世界に色がつく感覚を思い出す。ようやく日々が拓ける、初めてそんな予感がして、それから。


それから、高校二年の夏が来て。





「いきなりおらんようになったさかい、心配したんや」


夏明け間もなく、亜紀は稲荷崎を転校した。

編入したのは京都市内の私立の女子校。
以後卒業まで、どう過ごしたかほとんど覚えがない。


「元気一杯やったとは言えんやろうけど」

また会えてよかったわ。


「───っ、」


義父の皮を被った男は善良顔で、女子高の進学率や教育理念を理由に挙げた。もとより亜紀が“諸悪の根源”たる伯母の母校を選んだことを、祖父母は快く思っていなかった。
あんたの見た目やと、共学やと変な虫がつくかもしれへんやろ。目を合わせず言った母には、お前に幸せになる資格はないと言われた気がした。


反発も抵抗もない。そんな気力はどこにもなかった。

ただ浮かんだ顔があった。


「きた」


会いたいと思った。二度と会えないとも思った。

命を絶たずにいるだけで精一杯だった。


「…困ったなあ、こんなとこ見られたら、殴られるんちゃうか、俺」

思ってもいないことを、茶化しているとも思えぬ柔らかい声音で言うから、開いた口から嗚咽しか出てこない。

北、あんな。
うち、たぶんあの時。


「北のこと、好きやってん」


涙まじりに戻った訛りに、北は目を細めて笑った。


初めて抱いた淡い感情だった。そうと気づく間も無く踏みにじられ、引き千切るように毟り取られた。
引き攣れた古い傷口が痛む。ふ、と微かに笑んだ呼気が朝焼けの気配を撼わせた。
静寂を音にしたような声音が、その裂傷をふわりと覆う。


「そら、勿体無いことしたなあ」


それが過去形であることに北は気づいている。北が気づいていることに、亜紀も気づいている。
凍結された日々が溶け出し、蟠る胸の内を洗い流してゆく。


あの夏、自分の身に起きたことを、北に知られるのが怖かった。真っ先に浮かんだのは彼の顔で、同時にもう二度と会えないと思った。

二年越し、彼は亜紀の身に起きたことを知った。風呂場の脱衣所で差し出された緊急避妊薬。不要だと告げた時の、北の面差しを思い出す。

彼が見せたのは偽りない安堵だった。
彼は亜紀を、汚れているなどとは思わなかった。



傷がまたひとつ癒えていく。

指一本ふれることなく、眼差しだけで心を包む、北らしいその優しさに、涙を拭って亜紀は笑った。









「ねえマジで平気なん?普通アレじゃね、事情聴取とかアリバイとかカツ丼展開じゃね?」
「おい最後、最後ジブン逮捕されとんぞ」
「いやだってなんやかんや我ら中心人物ぞ…?大阪府警大丈夫?参考人のcatch and release爆速過ぎん?」
「府警に話は通してある。聴取は後日改めてっちゅう運びでまとまったさかい、気にせんでええ」
「いや、そんなこと言っても…」

おざなりに返された返答に食い下がるのも理解してほしい。だってなあ、すんばらしく整ったお膳の朝ごはん(が並んだにも関わらずみっちゃんが冷蔵庫から10秒ゼリー飯取り出してくるからレイアップシュートで没収した。お家付きのいぶし銀の料理人さんに無言で握手を求められた。御苦労お察し致します)に舌鼓を打ち、一息ついた直後の第一声が「よし、ほな東京帰れ」だぞ?食後のお茶を吹き出すとこだった(玉露が勿体無さ過ぎるので死ぬ気で回避した)。

有言実行は光の速度、四の五の言う間もなく風のように身支度を整えさせられ、30分後には車に詰められた。そして今に至る。頼むから前後関係の説明をくれという話である。昨日の風呂入った後からの記憶が飛んでる身としては事態の飛躍が一万フィート。ていうか府警に話通してるって何事?どこの体は子供頭脳は大人な名探偵の世界?

「信介の親戚に警察官がおる」
「Oh my…」

さらっと言ったみっちゃんに頭の中の名字さんが天を仰いで降参した。コネのレベルが月9級。誰だ天は二物を与えずとか言ったの撤回しろォ早急に!

「真面目な話をすると、面倒な連中が予想より早うにここを嗅ぎつけとる。厄介なんに絡まれる前に離脱した方がええ」
「面倒な連中?」
「ニュースは見たやろ。…どこの手のモンかは知らんけど、週刊誌が南にアタリをつけた」

まあ、相応に撃退する算段ではあるけどな。
余りにあっさりした口調に、返す言葉に困って閉口する。

粗方の事情の説明については朝イチに岩泉くんから聞いた。朝のニュース番組をおしなべて速報ジャックしたスキャンダラスな報道が、政財界を揺るがすおおごとに発展しつつあることも何となく理解している。そのほとんどは家庭内での云々でなく、会社としてのデータ改ざんや贈収賄を俎上にあげ、株価の変動がどうとか、次の国政選挙に何だとか言っていた。相手は会社社長だ、真っ当に事件として立件されればそれなりの騒ぎにはなるだろうなんてふわっとした想像の五倍は速く世間に露見し、十倍は肥大する事態の展開に、思わず恐れをなしてテレビの電源を切ってしまったほどだ。
今だって正直何がなんだか───とにかくあまりの非日常性というか、そのスケールに頭がついていかない。

前を行く車を見やる。北くんの運転する軽自動車には、亜紀さんと黒尾くんが乗っている。

手のつけられない思考を持て余して、思わず臨席の岩泉くんを見上げた。間をおかず落とされる視線は常と変わらぬまっすぐさで、彼は何をいうでもなく前を向く。

「お前は大丈夫なのか」
「三流記者にしてやられるような家とちゃうわ。なんなりと圧力かけて、」
「家の話じゃねえ。お前個人が大丈夫か聞いてんだ」

電源を落としたテレビのように、助手席が沈黙した。ハンドルを握る竹中さんが、そっとみっちゃんを伺うのが気配でわかる。
走行音だけが響く数秒後、淡々としたアルトが言った。

「…橘がいつどこであの子に目ぇつけたんかはわからん。けど、再婚前後の段階ですでに、野郎の異様な執着の片鱗は見えとった。…あの子が高校に入るまでに、動くタイミングがなかったわけやない。動いとったら、…」

詰まるようにして言葉が切れる。岩泉くんは何も言わない。彼はこういう時、言葉をつなぐことも、促すこともしない。ただじっと待つことを選び、待つことの出来る人だ。
及川くんなんかはしばしばこの人を脳筋扱いするけど、同時に及川くんこそよく知っているんだと思うけど、この人は決して察しが悪いタイプじゃない。そして見た目にたがわず、容赦もない。

勘でしかないけど、岩泉くんみたいな人は、たぶんみっちゃんには分が悪い。
案の定と言うべきか、彼女は迷った言葉を押し込むように口早に言った。

「…まあなんでもええやろ、手前のケツは手前で拭くんが筋や。あの子のことは悪いようにはせん。要らん心配せんでええ」
「危険に気づいていながら自分の都合で橘を見殺しにした。泥は自分で被るのが筋だし、償いもするから、余計な気は回すなってことか」

切り込んだ。本能的に身が強張る。身も蓋もない言い換えだ。
涼やかな目元を映したバックミラーが冴えた眼差しを反射する。ピリリ、走る緊張。信号が赤に変わり、車が減速する。視線が外れて、小さく息をつくのが聞こえた。

「……随分遠慮のない物言いやな。旦那にするには苦労するタイプやぞ、灯」
「っば、ハア!?」
「エッなんで私?」
「「………」」
「ていうか良くない?ちゃんと話し合いができん旦那さんだと奥さんが苦労するだろ」

言わんでもわかるなんて甘えたこと言ってっから日本の離婚率が下がんないんべや。真面目に論じたらみっちゃんがどうしようもないものを見る目でこっちを見た。岩泉くんが黙って目元を覆う。物凄く長いため息をつかれた。エッなんで?正しくない?コミュニケーション大事ぞ?

「……良かったな、望みはあるようやぞ」
「……うるせえ…」
「?」

なんだよ何の話だよう、私にもわかるように話してくれよと思ってたら、信号待ちの竹中さんからもなんとも言えない眼差しを頂戴した。よくわかんないけど大層哀れまれてることだけはわかった。頭の中の汐崎さんが全面抗議に出た。大変遺憾である。
憤慨してたら復活した岩泉くんが、仕切り直すように咳払いした。真面目なトーンを戻して言う。

「…言っておくが、俺も汐崎も黒尾も、橘本人も、お前が橘を見捨てたなんて思わねえよ」

お前の話は結果論だ。たらればなんて言い出したらキリがねえ。警察でも児童相談所でもねえんだ、全部を最善の結果にもってけなんて誰も要求する権利はねえだろ。
お前と北が来てくれなかったら、黒尾と橘はあの家から逃げられなかった。俺らだってどうなってたかわからん。それが事実だ。
んで、もっと言やァ、汐崎が言いてえのはそんな話じゃねえ。

「コイツはお前のこれからを心配してんだよ」


突き放すようでいて真摯な声音に、なにかがストンと落ちてきた。彼の隣でことばなく頷く。切り替えても切り替えても同じ速報を告げる朝のニュースが頭をよぎった。

データの盗用と改ざん。研究チームの癒着。厚労省との贈収賄、大阪地検特捜部の事情聴取。飛び交う文字はどれも非日常だった。その引き金を引いたのが、大学に入ったばかりの女の子だなんてとてもじゃないが思えない。

みっちゃんは朝食の席で、亜紀さんのことは南家が全面的にバックアップすると請け負った。実家との絶縁も、伯母様との養子縁組も、もし必要なら専任の弁護士を付けるから心配要らない、警察の聴取も北家にゆかりのある警官に連絡をとったし、マスコミには一切手出しさせないとまで保証した。亜紀さんはその畳み掛けるような口上に飲み込まれるように頷いて、最後にどうにかかき集めるようにお礼を口にしたけれど、私以上に終始困惑した様子だった。

みっちゃんは昨日の晩から、明け方まで帰ってこなかった。今だって化粧の下の濃いクマは隠せていない。スマホのランプが光りっぱなしなのにも気づいてる。

「…家の力とか、コネとか、みっちゃんの頭の回転とか、きっと物凄くすごいんだと思うの。ご覧の通り語彙が死ぬレベルで私には想像もつかないし、でも」

でも19なんだ。

「!」

「…19の女の子なんだよ」

みっちゃんがそう扱われるのを望まないとしても。


その肩に乗る荷はどれほどなんだろう。この一連の事件でみっちゃんが背負うものは、亜紀さんの背負うものがそうであるように、とても一過性で過ぎるとは思えない。いつまで続いて、どう響くんだろう。
それが不安だった。語彙が死ぬレベルで想像のつかないことが、どう聞けばいいかもわからないことが不安だった。


みっちゃんは随分長いこと、何も言わなかった。
車が速度を落とす。車窓を覗けば大阪駅のロータリーが見えた。昼間の駅前を行き交う車は多いが、竹中さんがスムーズに車を路肩に寄せる。
エンジン音が途絶えて、ようやく彼女が口を開いた。

「…心配せんでええ。出来ることしかせん主義や」

そっけない声音だ。でもここ初めて、彼女の素の感情の手触りを感じて、ようやく少しほっとした。

車を降り荷物を受け取る。南家のご厚意で今着ている服だけは頂くことになったので、手荷物には昨日着ていた自前の服がある程度だ。大半はあの旅館においてきたから、みんな随分身軽になった。

「灯はあの子のことだけ心配しとったらええ」

言葉につられて見やった前方、軽自動車から降りる足元の、どうにも頼りない亜紀さんの手が、黒尾くんの手に収まるのを見る。薄い肩が揺れたのは目の錯覚か。なんにせよ黒尾くんは彼女の直立を確認すると手を離し、荷物を下す北くんを手伝いに行った。

ドア脇に残された心許ない立ち姿に、なんともしくりと胸が痛んだ。何かが決定的に分かたれたような、そんな胸騒ぎがやまない。

勘弁してほしい、そろそろシリアスはお腹いっぱいだ。人のメンタルを何だと思ってんだ、かき氷の氷か何かじゃないんだぞ。
いい加減脳も心も擦り切れる。とっさに岩泉くんのシャツの裾を握った。頭頂部に手が乗った。ここにいるぞ、そう言われた気がして、またもうっかり泣きそうになった。どうやら一番擦り切れてんのは頭でも心でもなく涙腺のようだった。

190909

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