御休みよナイトメア

どういうわけか揃って目を赤くして風呂から出てきた女子二人は、何があったのかと問い質した男子二人に「シャンプーがしみた」と言って譲らなかった。

この口上を述べた台所の妖k、げふんげふん、キッチンフェアリーを前に目を平たくした青城史に残る男前は、絶対ちげえだろと確信しつつ、これは言っても聞かねえなと「わかったわかった」であしらった。そうして亜紀がお手洗いにと席を立った瞬間を見計らい、ぽすり、生乾きの頭に片手を落として撫でれば案の定ぼろっと泣き出した灯が、言葉の限りを尽くして岩泉に抗議したのは言うまでもない(「卑怯だ、不意打ちだ」「これだから男前は」「こんなことってあるもんか」「男前だからってなあ、何でもしていいと思ったらなあ!」以下略)。
総じてグズグズの半ベソ声で相手にするのも面倒だったので、岩泉は「おーおーそうかよ」「わかったわかった」で全てを相殺した。

泣かしておいて言う台詞ではないが、別に泣き顔が見たかったわけじゃない。言えば地団駄を踏み始めることは見えていたので気の済むまで好きにさせていれば、最後は泣き疲れて寝てしまった。
胡座をかいた岩泉の膝にぺちゃりと潰れて眠る灯の姿に、目を見開いたのはこちらも何故か亜紀を背負って戻ってきた黒尾。

(…えっなんで?)
(いやお前がなんで?)

目だけで問い返した岩泉に、黒尾は非常に微妙な顔をした。曰く、トイレから戻らないので何があったのかと探してみれば、なぜか縁側に丸まって眠り込んでいたのだという。

思えば高校卒業までバレーに打ち込み、鈍る間も無く大学入学、ブランクのない体育会系たる男子二人に対し、女子二人(特に亜紀)は至って文化系。体力などとうに使い切ったところ、気力だけで動いていた限界が来たのだろう。
しかし、さてどうしたものかと思案する時間は長くはならなかった。応接間に茶を運んできた北は、背なり膝なりで眠る女子ふたりを見やると、驚いた様子もなく盆を置いた。
「客室はこっちや」と跨いだばかりの敷居を逆戻りしてゆく彼の、卓袱台へ置いた盆の上の湯呑みは三つ。まるで最初から二人しか起きていないことを読んでいたようなさまに、黒尾は静かに目を細くした。








「ほお、ええツラ構えやないか。男前に磨きがかかったんとちゃうか」

字面からも声音からもあからさまに痛烈な嘲笑に、周囲の空気が一瞬で凍りついた。

身に染み付いたSPとしての感覚が本能的に臨戦態勢を取らせる。経験を積んだ護衛の背筋すら逆立つほどの、殺気じみた視線を悠々と受け、冷然と口角を上げる若干19の少女を前に、唯一この場に同行を許された竹中は無表情の下で冷や汗が伝うのを感じた。
これが新人SPなら完全に気圧されたろうし、中堅なら反射で飛び退き受け身を取らずにはいられなかったに違いないが、そこはこの少女付きとなって十余年。脊髄反射も一瞬で統率し、指先一本にも動揺を見せない。そも、それができねば、この少女が同行を許すはずがない。

「で?南の次期当主様がこんな夜更けに何の御用で」
「風の噂でボコられたっちゅうから見舞いに来たんやないか。受け付けで渡したやろ、552の蓬莱」
「……。」

しれっと言ってのける少女の言い草に竹中は思わず視線を横ずれさせた。剣呑な雰囲気をちらとも崩さずツッコミ一つ入れなかった男には、大阪人としては野次を、しかし勤め人としては拍手を送りたい。
終業間際のシックなオフィスに充満した、名物豚まんの強烈かつ賑やかな匂いを思い出す。ついでに、まだ温かい大量の紙袋を押し付けられ、顔を引きつらせた受付嬢の笑顔も。とんだ食テロである。

とはいえ下階における豚まんゲリラによる従業員多数負傷(帰宅間際の蓬莱の魔力は罪深い)など露知らず、ついでにツッコミ文化圏出身でもない男は、油断なく少女を注視するにとどまった。
なんせ男の義娘とその友人らを半ば拉致し、逃走に際しては空前のカーチェイスを演じ部下の車3台を大破させたその足で、平然と夜更けに突如本社に押しかけ、家の名をカサに社長室に押し入ったというとんだ経緯での襲来である。よもや茶を飲みに来たわけでもあるまい。

挨拶がわりの皮肉に交えて何の用だと再度問えば、面倒そうに少女は答えた。「エエもん見に来たんや」。
男は苛立ちを露に口角を上げる。切れた口端が鋭く痛むのが殊に不快だった。どこまでもナメた口と態度だ。

「鬼の首を取ったような物言いだな。流石、大学のご学友を復讐の囮にするだけある」
「義理の娘を喰いモンにするクズがよお言うわ。今時“紫の上”計画がどこで流行んねん」
「何のことかな?」
「惚けとけや」

言葉少なに切り捨てた不敵な瞳が炯々と光る。ガーゼでは隠しきれない青痣と、腫れの引かない頬をした男の目が、音もなく鋭利に細まった。
皮膚を刺すような警戒と猜疑。いっそ傲然とした少女の余裕に、単にカマをかけたハッタリなどでない確証の影を見たらしい。

「…南の次期当主様はよほど暇なようだ。“優しいお従兄ちゃん”の敵討ちの次は、慈善家気取りかい?」

この男。
竹中の背筋に怒気と緊張が漲る。刃のような殺気が閃く刹那、しかし一拍置いた薄い背は、冷然とした声音で切り返した。

「…そら学生身分やからなァ、偽装と火消しに忙しい実業家ほど多忙ちゃうわ。
なんなら感謝してほしいくらいや、」

明日から“そのどれもせんでええ”ようにしたるんやからな。

男が何のことか測りかねた顔をしたのはものの一瞬だった。油断ない表情に微かに走る緊迫。がたり、革張りのデスクチェアから立ち上がると同時に受話器を掴む。
しかしキーを叩くより早く、慌ただしく押し開けられた部屋のドアから、スーツ姿の女がつんのめるように転がり込んできた。息も整わぬまま、悲鳴に近い声が叫ぶ。

「社長ッ!警察が、週刊誌の記者も、どないしたら───抑え込めませんっ!」
「────このクソガキ…!!」

取り乱した女が続ける言葉は男の耳には入らなかった。音を立てるように形相が変わる。今は醜く腫れ上がった秀麗な顔を憎悪に、その眼光を焦燥に軋ませ、男は目前の、まだ成人すらしていない少女を抉るように睨め付けた。

その少女、南雅火が、氷柱に似たその面差しに、凄絶な嘲笑を浮かべて言う。

言うたやろ、『エエもん見に来た』て。


「用は済んだ。帰るわ」


赤黒く染まる男の顔が怨嗟に歪む。踵を返し、正面から出て行く雅火の背に、憎悪にまみれた咆哮が追い縋った。
閉ざした扉でそれを容赦なく斬り断ち、雅火は迷いのない歩みで、しかし急ぐこともなく堂々と、蜂の巣を突いた騒ぎを迎えんとする男のオフィスを後にする。

油を撒いたのはあの男だ。自分はそこに、マッチ一本投げ込んだに過ぎない。思って、彼女は自分に笑った。マッチ一本なんて可愛いものか。松明か、それとも。

「────……」

はたと、雅火の足が止まる。
脳裏を過る燻んだ炎。薄暗い曇天に霞んだ、煙突の先からたなびく黒煙。

愛車を駐めた駐車場までの道半ば、突然止まった律動的な足音に、振り向いた竹中もまた思わず歩みをとめた。

一切の感情の抜け落ちた、無機質な無表情。

「……お嬢」

職業柄、また経てきた歳月から、この類の顔をした人間を、竹中は一人と言わず知っている。
総じて言えることはごく簡単だ。
復讐は人を救わない。

苛烈な性格と冴えた頭脳で知略を巡らし、使えるものは容赦なく使って、ついに敵と憎んだ男の失脚と転落の瞬間をしかと見た。それはきっとこの少女にとって、長年の悲願だったはずだ。

それでも、今の何をいくら壊したところで、喪われたものは戻らないのだ。

「帰りましょう」

聡く利発な幼い主人は、昏く燃えるその激情に身をやつす他に、生きる術を見出せなかった。
元来非常に物分かりの良いこの少女のことだ。年を追って見識を広めるごとに、己のしていることの虚しさに気づかずにいたとは思えない。だが気づいたからといって後戻りできるほど、大人でもなかったのだろう。

不幸なことだと竹中は思う。父でも兄でもない彼ができたことは、付き人として、ずっと孤独だったこの少女を決して裏切らずにいることだけだ。

頭の良い主人に諭しは要らない。その薄い肩に手を置く。

「ええ加減戻らんと、北の坊っちゃんが───それに、汐崎さんも心配しはりますよ」

瞳が揺らいだ。思い出したように、酷く冷え切った無表情を、一筋の涙が伝い落ちた。

この数年、竹中だけでなく、きっと誰もが一度も見た覚えのない泣き顔だった。










「七年前、雅火は橘に、懐いとった従兄弟を殺されてな」


淡々とした口調があっさり語るには、衝撃的すぎる冒頭だった。

過ぎ去った豪雨の忘れ物のように、縁側の向こうには霧雨が降り注いでいる。音もなく濡れ続ける日本家屋の片隅から、鹿威しが鳴るのが遠く聞こえた。

どうも浅からぬ関係があるのだろうと踏んではいたが、初っ端からドラマじみた切り出しに二人は思わず言葉を失った。いっそリアリティに欠ける話は、感傷的なトーンを一切含まない北の語り口によって、かえって生々しい現実味を帯びて響いた。

「殺す言うても当然、直接手にかけたわけやない。表向きには交通事故で片付けられた」

橘俊哉──当時は旧姓・柊俊哉。大手製薬会社社長の次男として生まれ、名門大の卒業後、親の会社の研究チームで若くしてチーフとなる。
雅火の従兄弟が所属していたのは、その製薬会社とライバル関係にあった企業の開発チームだった。

「人も頭もええ、優秀な薬学者でな。アレとは確か、一回り以上年が離れとったか」

遡れば創業は江戸時代、南家は関西の業界では知らぬ者のいない旧家だという。
始まりは造船業から海運に輸入業、時代に合わせて商いを展開してきたため、歴史は長く商いは手広く、各方面に顔が利く。必ずしも一族経営ではないため一般には知られていないが、系列の企業として北が挙げたいくつかの会社名には岩泉も黒尾も十分覚えがあった。

雅火はその南家の四女として生まれ、兄姉を差し置いて次期当主に定められた。
祖父である先代に幼くして見出された、類い稀な商才ゆえのことだったという。

「雅火の親父さんは婿養子やった。肩身の狭い立場を耐えて待ち望んだ当主の座を、生まれた子供の、六つンなったとこの娘に掻っ攫われたとなると、…家は相当荒れたはずや」

特別扱いされる妹を、兄姉は好ましく思わなかった。義父に見込まれた娘を、父は受け入れられなかった。大人たちは雅火を遠巻きにし、あるいは媚びへつらった。
それで心折れる柔な性格でなかったことが吉と出たか凶と出たか。祖父譲りの恐ろしく切れる頭と苛烈な気質で、年端もいかない少女は早々に大人たちを見限った。

そうして孤立を深める彼女を、唯一年相応の女の子として可愛がったのが、件の従兄弟だったという。
年の差は十三。雅火にとって、唯一心開ける存在だったのではないかと北は言う。

「従兄弟の所属する研究チームは当時、政財界も注目する新薬の開発に取り組んどった。彼の研究成果が開発競争を制する、そこまで行った時」

開発の鍵を握る新進気鋭の若い薬学者は、夢半ばの冬の帰り道、交通事故で命を落とした。

信号無視、対向車に追突。相手にも怪我をさせての大事故で、最終的に断定された死亡原因は『過労による居眠り運転』。

切断されたブレーキホースは、結局最後まで、殺害の証拠とは認められなかった。


「新薬はその後、柊の研究チームによって完成・公表された。この功績を元手に柊は父親から独立して、自分の会社を企業したっっちゅうわけや」

決め手の研究成果のデータの、従兄弟の出したそれと酷似した数値、両チームの間を行き来した形跡のある不可解な金の流れ、一部の人間の昇進と左遷。
従兄弟に着せられた、過失運転の汚名。

調べれば不可解な点はいくらでもあった。しかしそのどれを辿っても、核心には至れなかった。
南家として表立っては動けない。ひとり真相を求め、闇深くにのめり込んで行く雅火を、北は時に引き止め、時に協力し、ずっと見守り続けてきたという。

「旧家の権力全乗せで、それを扱うんがあの抜き身の性格や。放っといたら暗殺でもしかねん」

身内から人殺し出すわけにはいかんやろ。
事もなげに言う北の言葉に、じっと黙していた黒尾が不意に問うた。

「…橘サンに行き着いたのは、彼女の母親が橘と再婚したからか」
「そうや」
「旧姓が柊で、今が橘、母親が次期女将なら、婿入りしたってことだよな」
「そうや」
「…次男とはいえ、大手企業の社長の息子だろ。離婚歴どころか連れ子もいる女と、百歩譲って老舗旅館の娘でも、 婿入りで結婚するってのは、」

そうしなきゃならねえ相当の理由か、あるいは。


「そうしてでも欲しい、『相当の見返り』があったってことか」


喉笛に切っ先を突きつける低音が問い質す。
北はやはり、濁りなく応じた。ただその声音は、ひどく疲れているように聞こえた。


「───そうや」


こみ上げてくるものに、吐き気がした。

逃げも隠しもしない応答が、黒尾が手繰り寄せた仮定の信憑性を情け容赦なく肯定する。感情の起伏の乏しい北の目に滲む、遣る瀬無い疲労がその証拠だった。

腹の奥で蜷局を巻く昏い激情が鎌首をもたげる。人ひとり殺せそうな顔をした黒尾に、北は小さく目を伏せた。

───業界も驚いた相当の格差婚だ。有望な次男をやるには惜しいと当然渋った身内を押し切った柊は、当時経営難にあった橘の旅館への援助も惜しまなかった。
見目よく優秀で財力もあり、家名を継ぐことさえ良しとした婿養子の到来を、橘家が諸手を挙げて歓迎したのは言うまでもない。

側から聞けばそれこそ美談だ。しかし、雅火は柊の本質を見抜いていた。

あの男が何の見返りもなく善行など施すはずがない。雅火は独り言のように問うたという。

何かある。何がある。


何を“引き換え”にした。



「───おい、それ、まさか」


心臓に冷水を浴びせられた錯覚がした。
黒尾に遅れること数拍、岩泉が見る間に血相を変える。ひどく喉が渇くのに、目の前の湯飲みに手を伸ばす余裕はなかった。

思考のプロセスを飛び越えるように行き着いた認め難い推測を、反射に近い直感が事実だと叫んでいる。


ものの数秒、吸い込むのも苦労する、鉛のような沈黙が流れた。
北はゆっくりと息を吸う。耳を刺す静寂が軋んだ。窓の向こうの雨音は、いつのまにか途絶えている。

「…他にどんな“供物”が捧げられたんかは定かやない。ただ」


最後通牒のように響いた。


「あの子の様子が一変したんは、高校二年の夏明けやった」



振り上げられた拳が卓袱台に叩きつけられた。

卓袱台が鳴り、湯飲みが跳ねる。溢れた茶が丸く広がった。包帯を巻いたばかりの拳には、手酷い痣が増えたニ違いない。
忿怒に震える隣の青年を、しかし今ばかりは岩泉も宥める手立てがなかった。彼とて言葉が出なかった。


あの家の人間は知っていた。祖母も、母親も、年の離れた妹すら、孫であり実娘であり姉である彼女の身に、何がなされたか、なされようとしたかを知っていた。

知っていて容認した。隠匿しようとしさえした。

行き場なく渦巻く激情に目の前が明滅する。吸う息すら喉を刺す。
言葉になどできない。頭で認めることさえ吐き気がする。

彼女は犠牲にされた。否、犠牲などと呼べる話ではない。


生贄にされたのだ。

多額の援助と家の存続を保証した男に、その代償の供物として。



190817
本当はもう少し詰めた設定があったのですが、無駄に長くなるので割愛、と言いたかったはずが結局死ぬほど説明文でした。リカバリーしたら前より駄作になりました。文力が低空飛行すぎて辛いです。

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