精神論ではままならぬ

「じゃあ亜紀さん、八時半ね?八時半には門前までお迎えに来るからね」
「うん」
「アッ私昔からすんげえ蚊に好かれんの、京都産モスキートのお気に召すかはわからんけど宮城では私の血大人気だから、手足ぼっこぼこンなる前には門前出てきてね」
「うん、あの」
「うん?なあに?やっぱり戻る?」
「ううん、あの」

ごめんね。

ひゅるり、湿度の下がらない盆地の夏の、重たく湿った夜風が抜ける。

ようやっと口にした謝罪には、四文字では到底まかなえない懺悔と陳謝が目一杯に押し込まれていた。
この京都旅行が普段のお礼だとか、親睦だとかを目的にした、つまりあの寮の皆のためを思ってのものなんかじゃないことは、このほとほと人の好すぎる少女にさえすでに筒抜けに違いなかった。

亜紀自身ほとんど詐欺だと思う。体裁の良い誘い文句で騙るように連れてきた。巻き込むつもりはなかったなんて言い訳にしかならない。
来客の存在は居るだけで牽制になると思ったし、彼らを観光案内することは日中家から遠のいているのにうってつけの理由だと打算した。

多少のことを勘づかれるのはもう仕方ない。基本的に仕事をしない表情筋があれば、あの寮生たちは大抵のことを見なかったことにしてくれる。人を信用できない性分の亜紀でも、文化圏の相違を疑うほどの彼らの人の出来と好さはこの半年で身を以て知っている。
それに甘える代わりに、勝手な都合に利用する罪滅ぼしに、皆の行きたいところは全部行こうと思ったし、そのためなら普段なら絶対使わない実家の旅館のコネを使うのも吝かでないつもりでいた。

誤魔化し切るつもりだった。誤魔化されてもらうつもりだった。

不在と聞いていたはずの、義父の在宅を知るまでは。


「……ごめん、て…」

門灯に照らされて焦げ茶に透ける善良な瞳が、亜紀の言葉を繰り返す。
謝られる理由に本気で思い当たらぬ、心底困惑した顔だった。

「亜紀さんは謝ることひとっつもしてねえべや」

亜紀は黙り込んだ。かどのない訛りの丸さに、うっかりすると泣いてしまいそうだった。

黒尾や岩泉に比べれば邪気や悪意にとんと鈍い───黒尾に言わせれば「人類皆兄弟説の急先鋒」───灯が今、「家族との夕飯」に臨む自分に対し、深夜のバイト帰り(それもストーカーのオプション付き)を前にした時と同じ過保護を隠そうとしていない。どう考えても一般的な家族団欒イベントに対する反応でないその様子から、灯がこの家の何がしかを見るなり聞くなり察するなりしたのは明白だ。

そうなって今なおこの少女は、そして二人の青年も、亜紀を責めるどころか問い質しさえしないのだ。

「帰ったらみんなでカードしような。ウノでもトランプでもなんじゃもんじゃゲームでも」
「なん、もんじゃ…?」
「アッ亜紀さん初めて?なんじゃもんじゃゲーム」

じゃあアレにしよう、うちのばっちゃまもお気に入りでね。老人会でもするんよ、ボケ防止にいいから。

ほのぼのと笑う姿に邪気はない。話の内容は相変わらず中身がないのにほっとする。
亜紀は時刻が遅いことに感謝した。自分が門灯を背に立っていることにも。そうでないときっと、この少女は亜紀のひどい顔に気づいてしまうに違いなかった。
そうして世紀末もかくやと言わんばかりに慌てふためき、斜め上の発想で右往左往して騒ぎながら、そのくせきちんとアイロンのかかったハンカチを甲斐甲斐しく差し出してくれるのだ。

ちゃんと謝ろう。
全部言えるかはわからない。でも全部終わったら、あの寮まで帰ったら、あの食卓で精一杯謝ろう。きっと許してもらえるなんて甘えた期待でいることもふくめて、ぜんぶ。

「じゃあ、あとで」
「ウン、いってらっしゃいね」

水仕事にやや荒れた灯の手が、指先の温まらない亜紀の華奢な手を短く握る。
夏の斜陽を残り香にしたような、それだけでぜんぶ許されたように錯覚してしまうような、あたたかい手のひらだった。





りいりいと、虫が鳴く。

夜も気温が下がらないという前評判は大袈裟じゃなかったらしい。生ぬるい風が掻き回す蒸し暑い熱帯夜を前にしては、風情も雅も形無しになりそうだ。

浴衣の下でじっとり滲む汗が不快だ。余計な焦燥を掻き立てるのがなお悪い。黒尾は約束の時刻から五分を進めた時刻を告げる液晶に目を落とした。メッセージアプリの無料通話ボタンへ親指が伸びたその時、がらり、引き戸を引く音が彼を止める。
ガラス戸を隔てずクリアに届いたのは、責めるような色をした声だった。

「亜紀、あんた───、!」

先に目が合ったのは待ち人。次いでその後ろに見えた彼女の母親。門前に佇む黒尾の姿に、彼女は不意を突かれたようだった。

「…あなた、亜紀の…」
「こんばんは。スミマセン、夜分に」

にっこりと浮かんだ人好きのする笑みに、母親は咄嗟に笑みを作り損ねる。一方の亜紀が一瞬足を止めたのは、迎えにきたのが蚊と戦っているはずの少女でなかっただけでなく、代わりに現れた浴衣姿の青年を認識するのに一拍必要だったからだ。

なんだか。…なんだか、見てはいけないものを見ている気がする。
夕飯前に見た黒尾は私服で、髪はいつものトサカヘッド(宮城組名称)だった。今の彼は旅館の浴衣に身を包み、タオルドライしただけの濡れた髪は長く目元に垂れている。

意図してか自然体でか、普段が飄々としてつかみどころのないクセ者キャラであるため失念しがちなのだが、この青年は本来黙って立つ分に人目を惹く容姿をしている。
均整の取れた体躯と見上げる上背、整った顔立ちを気安くさせるやや気怠げな立ち姿。門灯の白熱灯に浮かび上がる黒髪は艶やかに照り、その影を纏わせた首筋は無造作な色気を垂れ流している。
だが普段ナルシストぶるのが得意なクセして、実際その容姿を魅せることにはまるで頓着しないらしい。多少くつろげた襟元から覗く鎖骨の白さから思わず目を逸らした亜紀に対し、黒尾は至って通常運転だった。

「ゴメンな、ホントは汐崎サンが来る予定だったんだけど、大浴場で逆上せたらしくって」
「え…お風呂で?」
「湯船で一緒ンなったばあちゃんの孫話に付き合ってたらしい」
「………。」

亜紀は何とも言えない顔をした。同級生の男の子が同級生の女の子の実に具体的な入浴話をしているとは思えない、ついでに言えば黒尾の出血(?)大サービスたる色気さえ無に帰すほどの、くっきり想像したところでハートフルなだけの絶望的な色気の無さだった。

「まあ、ほなゆっくり休まはった方がええんと違います?亜紀が押しかけたら気ぃ遣わはるでしょ」
「いやあ、大丈夫ですよ。ボクが出る前には亜紀サンとなんじゃもんじゃゲームするんだって意気込んでましたから」
「なん、もんじゃ…?」
「なんじゃもんじゃゲーム」

おっとりした口調で、しかしすかさず進み出てきた母親が一気に何とも言えない顔をした。一言一句亜紀と同じ反応であった。一部で謎の盛り上がりを見せる新生カードゲーム、恐るべしパワーワードである。
ともあれ母親が意気を削がれたところを黒尾は見逃さなかった。戸口と門扉の真ん中、前庭でなぜか足を止めたままの───聡い彼には珍しく、それが自分の見目のせいとは気づいていない───亜紀だけに焦点を合わせた瞳があからさまに、ほどくような甘さを帯びる。

「おいで、亜紀」
「!」

亜紀が息を飲むのがわかった。母親の視線はまるっと無視した。多少は盛った、ただ意図したよりずっと甘ったるく響いた声に、黒尾当人が羞恥で頭を抱えそうになったのは末代までの秘密である。コート上で鍛えた渾身のポーカーフェイスに大感謝祭。

ますます身の置き場のなさそうにする亜紀へ、黒尾は昼間そうしたように手を差し出す。数瞬の躊躇いの後、しかし昼間よりはずっと早く、亜紀は数歩の距離を詰め、黒尾の手に手を伸ばした。

引き寄せられ、同時に進み出た彼により、広い背に半ば隠される。浴衣から匂い立つ風呂上がりの気配と体温、当然のように深く絡められる骨張った指。
粟立つ背筋、でも不快さじゃない。理解が追いつくのを待たず、心臓が燃え上がったかという錯覚。とっさにきつく唇を噛む。

母親はおそらくそれを見咎めた。すう、と冷える気配が、温厚な声音から乖離する。

「…黒尾さん、失礼ですけど、ほんまに亜紀とは」
「さっきお話しした通り、良いお友達ですよ」
「お友達って距離には、ちょっと見えませんのやけど」
「やあ、あと二人も普段からだいたいこんな感じですよ」
「……そうですか。そら、良うしていただいてるみたいで、ありがたいですわあ」
「大したことは何も」
「せやけど、うちの娘は田舎者やさかい、都会のお人に遊んでいただくには物足りませんやろ」

にっこりと、戸口を背にした薄明かりの中、物柔らかな声音が隠し持った牙を剥いた。
美しい笑みが言った台詞に、亜紀は全身の毛を逆立たせた。

「せっかく東京にお住まいなんやから、もっと気軽な子おを相手にしはったらええんに」
「────っ」

言葉は温厚だ。声音は親切だ。だが侮蔑に満ちている。お前は遊ばれているのだと、亜紀を嘲るだけには止まらない。

黒尾を貶めた。
都会育ちは手が早いと一括りに偏り見て、地方出の女を誑かす節操なしと暗に揶揄したのだ。

目の前に火花が散る。聞き捨てならない。白々しい謙遜に見せかけた毒々しい中傷だ。一瞬引いた血の気が、亜紀の頭にひどく冷たく駆け上る。
だが黒尾は揺れなかった。

「ああ、スミマセン、誤解させてしまったみたいですね」

冷たい怒りに総毛立った亜紀が喉を震わせるより早く、まるですべて予期していたかのように、深く絡ませた指先が彼女の手の甲をなだめるように撫でた。
その指遣いに気を取られた亜紀の一瞬の隙を潜るように、黒尾は飄々と言ってのける。

「正確には、『今はまだ』良いおトモダチって意味でして」

それじゃあ、夜分に失礼しました。

母親の反応を見ている余裕はなかった。
種類の異なる相次ぐ衝撃で言葉の出ない亜紀が見上げる先で、精悍な輪郭、形の良い唇と涼やかな目元は食えない笑みを浮かべるばかりで、その真意は伺い知れない。

解かれた指先を捉えたのは逆の手。覚えのあるデジャヴを反芻する。バイト帰り、居酒屋の裏口でそうしたのと同じように、解かれた指先は背に回り、亜紀にやわらかく歩みを促した。



亜紀の実家になる離れの母屋は敷地の奥側、竹の柵を区切りにして広々がる日本庭園を挟んで旅館の反対側に位置している。関係者以外立入禁止の柵半ばの勝手口を潜れば、静まり返った旅館の敷地はすぐだった。

母屋から旅館まで数分の帰路に会話はなかった。黒尾は何も言わなかったし、亜紀も何も尋ねなかった。再び重ねた手と手は指を絡めるどころか、ただ彼が手のひらに彼女のそれを乗せただけの、握り合うとも呼べない淡さだったから。
そして直後、何も言わなくてよかったと心底思った。

「悪い、口が滑った」
「、」
「どこに地雷があンのか探るくらいのつもりでカマかけてみたんだけど、ちょっと挑発し過ぎたかもしんねえ」

ロビーに戻る寸前、あっさり離された手と空けられる一歩の距離。
いつもと変わらぬ声音だった。顔は見ていない。振り向かなくてよかったと思った。

効き過ぎた空調の冷気ががら空きの背に寒々しい。母の侮辱を前に突沸した冷たい怒りとは違う、もっと芯から浸すような冷たさで、心臓が凍え萎れてゆく。

カマを。カマをかけただけ。
母の反応を伺い、ともすれば次の手を打つために必要なピースを集めるために。
だから、深い意味はない。

───それはそうだろう。
頭の片隅が冷静に言う。
帰るなり引っ張り込まれた夕刻の客室で、好奇心全開で亜紀を質問責めにする妹をのらりくらりと躱した黒尾は、付き合っているのかという問いに対してはっきりした答えを出さなかった。
真実付き合ってなどいないのだからYESとは言えない。だが義父らの前で盛大に匂わせた手前、一切何の関係もないとシラを切るのも無理がある。

言葉尻を捉えさせない黒尾の話術は巧みだった。ソツのない立ち振る舞いに反し真意を読ませぬ曖昧さの絶妙な落差は、想像以上に家族への牽制になった。
その全てを彼は事前情報なしで、亜紀から事情を聞くことなく、その場の流れに応じてこなしている。利得を要するでも、報酬を求める下心も見せずに。

感謝する謂れしかない。そんな親切、今生であと何度受けられるかわからない。大袈裟じゃなくそう思う。
そういう風に生きてきた。

(でも)

十分過ぎる程与えられているのだ。不満を言う余地なんて一寸もない。

(でも、じゃあ)

あっていいはずがないのに。


「…橘サン?」

『おいで、亜紀』


───やわく絡んだ指も、ほどくように紡がれた名前も。

善意の施しとか探りを入れる作戦とか、そういうものの内側でしか与えられないものなのかと思ったら、どうにもこうにも心が寒くて。


「…ううん、なんでも」

この人に幾分でも特別に思われているのだと、どこかで自惚れていた自分に気がついた。
気がついて酷く恥ずかしくなった。とんだ自惚れだった。


黒尾は敏い。亜紀が築く異性への壁を、彼は正確に汲み取った。穏やかに触れることはしても、そこに親切以上の温度を滲ませることはしなかった。

絶妙に測り出された最適の距離、何も言わずとも差し出される最良。それ以上を望むなど勝手の過ぎる話のはずだ。

それなのに、やっぱり特別に思われていたかったなんて、恥じ入るほど強欲な話じゃないか。


190509

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