世界はモブに優しくない

送り出せたはいいもののこれ、この後私らどうすりゃいいんだ。

諸々が空恐ろしくて振り向けない。背後注意の緊急レベルが火サスだったら即殺されてる。ついでに言うと物語が玄関前から進展しない。これが一番由々しき事態である。メタいとか言うな切実なんだよ!あ?モノローグが長いからだろって?うるせえモブにも喋らs(以下略)。

何はともあれ県内トップクラス、白鳥沢さえいなければ全国レベルと銘打たれた宮城の強豪青葉城西で副将を務めたかの彼は、やはりと言うべきか豪胆だった。

「すみません、そういうわけなんで、俺らだけでチェックインって出来ますか」
「あ、いえ、お嬢様のご友人方と伺っておりますので、チェックインのお手続きは必要ないかと…」
「そうですか」
「あ、お荷物はお持ちしますので、」
「いや、こっちが勝手を言ったんで」

頭の中の汐崎さんがゲンドウポーズで賢者タイムに突入した。議題はうちの漢前の無双が止まらない件について。何だろう、あの寮の男子陣の心臓には剛毛でも生えてんだろうか。
一見さんもお察し出来る空気のおかしさなど何処吹く風、明らかに普通でない雰囲気に飲まれる女中さんを尻目に、岩泉くんは二人分の荷物を軽々背負ってお宿の玄関の敷居を跨ぐ。ここまで来るとこの人実は空気一切読めてないんじゃないかと思う。だってそうだろ、HP2でラストダンジョン特攻って言われたら身構えん?彼の周りだけATフィールドでも展開されてんのか。メンタル鋼かよ。

上がり框の右手にフロント、ゆったりと並ぶローテーブルとソファの奥はガラス張りで、夏の日差しと青葉が鮮やかな日本庭園が広がっている。出窓の調度品、壁に華を添える生け花の鮮やかさに相まって、青葉の色は白熱灯をベースに照らされるフロア全体に涼やかさを加えている。

階層は全部で四…いや五か。解放的なロビーは吹き抜けで、黒々とした木目の美しい階段を左右にした客室フロアはコの字状に展開している。全体として和風だが、構造は洋館にありそうなヤツだ。物珍しくてきょろきょろしているうちに、指定の客室に到着する。三階の二号室。

結局お仕事を全うさせてもらえず大変落ち着かない様子で客室まで案内してくれた女中さんに、しかしアイアンハート擁する我らが(元)副将は一瞬たりと荷を委ねることはなかったようだ。女中さんにお部屋の説明をさせるつもりもないらしく、彼は部屋に上がるどころか靴さえ脱がず二人分のエナメルを入り口に置くなり、受け取ったばかりの鍵で客室に施錠する。そのまま私が引いていた亜紀さんのキャリーに手を掛け、向かいの部屋に運び込もうとするのを、おどおどと様子を伺っていた女中さんが慌てて止めた。

「お待ちください、こちらのお部屋はこちらの女性一名様のご利用と伺っております」
「…え?いや、でも…亜紀さんは二人部屋を二部屋取ったって」
「…?そのようなお話は何も…せっかくの帰省ですので、お嬢様は離れのご実家にてご家族と過ごすと、そのように聞いております」

脳みそが奇妙な停止状態に陥った。頭が真っ白になるようなショックを受けるほどの事態じゃない、ただ不意に、あえていうならこう、長い長い計算式の数行前で計算ミスをしたのを直感的に思い出しそうになった時のような。必要な情報を精査するため、余計な思考をシャットアウトしたような静寂。

「それは───それは、亜紀さん本人から聞かれたんですか?」
「い、いえ…若旦那様が」
「……なら、すみません、あの、この荷物、私の部屋で預かります」
「え?」
「や、持ってっとくって約束したの私なんで、責任持って直接返します。どうせ後で会うし、夜はパジャマパーリー開催するって約束してるんで」

困惑した様子の女中さんに畳み掛け、半ば無理やり鍵を受け取る。私のと合わせて二つのキャリーは、エナメルをそうしたように部屋の入り口にまとめて押し込んだ。それをいつのまにか持ってきたのか、岩泉くんが後ろから腕を伸ばし、私と亜紀さんのキャリーの取っ手を纏めてワイヤーロックで固定する。(それ確か、寮の自転車に使ってたやつ。)
宿の従業員の目の前でするにはあまりに露骨な防犯対策だ。だが私は何も言わず、ただ尋ねた。

「ナンバーは?」
「及川の誕生日」
「エッ愛が深い」
「殺されてえか」

軽い命の危険を感じた。冗談が通じなさ過ぎる。でもふざけてられるだけまだ冷静だ。
亜紀さんのキャリーがロック付きであることを再確認し、(旅館に合鍵がある以上無意味と言っていいかもしれないが)戸口を施錠し踵を返す。女中さんには亜紀さんから聞いていた部屋割りとは違うこと、何かの食い違いがあったかもしれないので彼女に確認を取ることを告げ、足早に来た道を戻り始めた。

年配のご婦人方が到着を待つエレベーターを素通りし、檜かヒバだろうか、何にせよ磨き上げられた木目の階段を進み、踊り場に差し掛かって、人気のないことを確認し、一言。

「……どういうことだと思う?」
「俺に聞いてどうすんだ。お前の方がわかってんじゃねえのか」
「エッそれ正気で言ってる?脳みそ沸騰しそうなんだけど?」
「…。顔の良いヤツってのがどいつもこいつも面倒くせえことだけはわかった」
「Oh my goodness...」

天を仰いで絶句した。この人マジで本能だけで生きてた。「岩ちゃんなんか野生のゴリラだもんね!それも別に保護とかいらないやつ!」と叫んで殴られてた及川くんを今なら全力で擁護できる。君は確かに正しかった。ついでにデリカシーを緊急募集する。時給は言い値で構わん。

「それ…その暴論、亜紀さんの前じゃ絶対言わないでね…」
「アホ言え、それくらいの分別はつくわ」
「デリカシーが常時ログアウトしてるのに自信の所在がミステリー過ぎる」
「ああ?どの辺がだよ」
「虫の苦手な女の子に蝶々爆弾仕掛けるとことか」
「カマキリ見てはしゃいでたヤツが言うか」
「私はいいんよ、モブだからね。道端で良い感じに騒ぐ背景になるのがモブの本懐だからね」
「…汐崎お前、時々そういうこと言うけどな」

少し先を行く岩泉くんが振り返りざま、胡乱気な視線を投げ寄越した。なんだなんだと身構えれば、つんと尖った唇が、随分と不機嫌に放るように言う。

「俺の人生でお前がモブだったことなんざ一瞬もねえわ」

「!」

……なんだそれ。

瞬き二回。言われた意味を咀嚼する。ふたたび言葉がログアウトした。頭の中の汐崎さんが初動に遅れてフリーズしてる。エッそういう?そういう反応なの?ここってそういう話…あ、そうだっけ?いやでも普段もっとこう…全力で騒いだりとか…。

自然、止まった足が彼の背中との距離を生む。ロビーを横切り、玄関先まで進ん彼が、不審げに振り向くその姿が、いやに網膜に焼き付いていく。

「?何してんだ、置いてくぞ」
「……岩泉一、恐るべし…ッ!」
「あ?」

なんだ、ちくしょう、顔が熱い。








暑さも湿度も足元も、何もかもの感覚が覚束なかった。

ただ一つ、もしこの手を離されてしまったら、今度こそ二度と這い上がれない奈落の底へ落ちると思った。


どれほど歩いたかも見当がつかない。呼吸と歩行で精一杯の自分は、陸に上げられた魚のようだ。身動きもままならず、俎板の上で捌かれるか、干乾びて死ぬのを待つしかない。

僅かな余白を無駄遣いする思考を寸断したのは、不意に途絶えた引力と歩行。宣言通り辿り着いた自販機の前で立ち止まった青年は、しかし件のタオルを探すことなく――言うまでもなく初めから落としてなどいない――ポケットから長財布を引っ張り出す。

亜紀は思わず身構えた。一人で立たねばならないことにだ。そして心の奥底で望みを掛けていた。一人で立たずに済むことを。

「……、」

黒尾が亜紀を振り返る。視線が注がれたのはものの一瞬だった。くんっと引き寄せられ、距離を詰めた一歩。
勢いを殺せず額をぶつけたのは汗でかすかに湿ったシャツの肩甲骨。指先をやわらかく押し込まれたのは、洗いざらした黒のディーゼルのポケット。

空気の層一枚越しに伝わる体温に息を呑んだのもものの一瞬。小銭が落ちる音の後、転がり落ちるなり汗をかき始めたペットボトルが、空いた片手に押し付けられる。
ストレートティー、無糖。亜紀がいつも飲むラベル。

ポケットに押し込まれた指先は、ふたたび大きな手の中に戻される。


「橘サン」

凪いだ瞳だった。そんなわけはないのに、何もかもを見透かしたような。温度のない、色もない、だというのに冷たくもない。

切れ長の瞳は、ただかつてなく真剣に、覗きこむ亜紀を見詰めている。
耳元に蘇る言葉が亜紀の瞳を揺らがせた。

言いたくないなら言わなくていい、ただ


「どうすればいい?」


心臓が軋む。唇が震えた。見開いたままの目元が引き攣る。

決壊寸前の全てを押し込めた瞼の縁に、込み上げる激情が膜を張った。


あの時。
思い出すのも悍ましい、あの時。


泣いても叫んでも助けは来なかった。誰一人見咎めず、糾弾せず、耳を傾けてもくれなかった。

抱えていられない現実だった。心が死んでしまいそうだった。
だから殺した。凍結させるしかなかった。

感覚も感情もすべて氷漬けにする以外、正気でいられる方法がわからなかった。


あの時と同じ奈落の淵で、今は手が差し出されている。
手を取ってくれる人がいる。


「俺にできること、ある?」


息を吸う。涙が落ちる。
嗚咽より先に心が泣いた。


(ひとりに)


「ひとりにせんといて、」


目の玉ごと落ちたかと思うような大粒の涙が滴って、力の入らない指先から結露したボトルが滑り落ちた。
胸がはりさけそうだった。立っているのも辛かった。

日差しの届かない冷えた手を、骨ばった指がやわく包み込む。後ろ髪を掬い取った手のひらに引き寄せられた。
鼻先に触れた厚みのある体躯の温度。汗と制汗剤、シャンプーと柔軟剤の、覚えはあっても馴染みはない彼の匂い。

それは頭を掬う片腕だけの、ひどく慎重な抱擁だった。
髪一本傷つけまいとする繊細さに、火傷しそうな熱を孕んだ、剥き出しの心にふれるような抱擁だった。

耳元に落ちるささやきが、茶化すような軽さを失わないのが不釣り合いなほどに。


「よく言えました」


190409

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