常識も裸足で逃げる

「………」
「ケチャップはKACOMEにしよう、今日お安いしね」
「………」
「アッもしかして亜紀さんデミグラス派!?ちょっと待ってね作り方調べ」
「あ、ううん、ケチャップ。ずっとケチャップだった」
「そう?あ、じゃあご飯は?バター?ターメリック?」
「…家は、バターが多かったけど…」
「うん?」
「あの、…汐崎さんが一番慣れてるのがいいわ。それが一番…できれば、それが食べたいのだけど」
「っぐう…!!仰がずとも尊し…!!」
「…?」

心不全もかくや、あるいは胸を一発で絶命寸前か。なんにせよ周囲の視線が痛いのでなるべく早い回復を求めたいところである。
調味料売り場の一角で心臓を抑えるなりたたらを踏んだ同寮の友人の、前置きの無い(少なくとも亜紀にはそう思える)奇行癖に、亜紀は未だ耐性ができない。
だがこの少女と同郷の青年曰く、「発作みてえなもんだ。害はねえからしばらくほっとけ」だそうなので、今回も亜紀は何も言わず、右手に取っていたペルモンテのケチャップを商品棚へ戻す。

代わりにふうふうと息をつきながら特売のケチャップをカゴに放り込んだ灯に一言断り、亜紀は野菜売り場へ足を進めた。


ニンジン、玉ねぎ、ピーマン、ジャガイモ。チラシ片手に灯が作った買い物メモに従って、常備野菜を手に取ってゆく。茄子やキュウリといった夏野菜は、灯監修の中庭菜園が収穫期を迎えて以来、スーパーで買うことはほとんどなくなった。

次いで冷凍食品のコーナーに行き、スイートコーンとパイ生地を調達する。灯はお菓子作りも上手い。プロ並みだとか店を出せるとか決してそういう次元ではないが、手土産に余所へ持っていって喜ばれるほどには美味しいと亜紀は思う。

最近は洋菓子のレパートリーを増やそうとしているようだが、亜紀が一番美味しいと思ったのはみたらし団子だ。レシピも何も見ず目分量で作られるそれには堂に入った慣れがあった。
(「実家じゃばっちゃまが七輪で焼き目をつけてくれるんだけどねえ」と笑う灯に亜紀は無表情のまま大層興味をそそられた。いつか食べてみたいとひっそり思ったが、自分がそんなことを口走ろうものならこの少女が一両日中に実家から七輪を取り寄せかねないことはすでに亜紀にも予想できるようになっているので、決して何も言わなかった。)

亜紀の母親は生まれも育ちも京都だ。田舎料理は味が濃いんだと灯が味付けを気にするとおり、亜紀は灯の作るそれより味も色も薄い食事で育った。初めは正直口に合わないものもあった。

だが灯は、常の突飛な印象とは裏腹に、亜紀の反応に非常に敏感だった。亜紀の舌が慣れたのか、灯の味付けが薄くなったのか――恐らくは後者だ。時折味見を求められることもあったが、基本的には食卓にて亜紀の箸の進み方を見ていたのだと思う。

ある朝、以前と明らかに濃さの違う肉じゃがの味に思わず灯を凝視した亜紀に、灯は「エッやっぱまだ濃かった!?」とうろたえた。「やっぱ」というあたりが決定打だった。

「そういや最近薄くなったか」と怪訝な岩泉に、「塩分控えめが推しなんよ、健康にも良かろ?」と得意げな灯に言葉を返す隙間はなく、結局何も言えなかった亜紀はその代わり肉じゃがを皿一杯におかわりした。隣で栗鼠のようになる自分を見る黒尾の視線が、何とも生ぬるいのだけが気まずかった。


レジ前で灯と合流し、会計を済ませる。自動ドアをくぐり、ぶわり、吹きつける残暑の熱風に目を眇めた先には、米袋を担いだ岩泉が先んじて待っていた。

お待たせ、と小走りに駆け寄った灯から当然のようにレジ袋を奪うと、危なげない足取りで大きな背中は歩き始める。抵抗する間もなく手ぶら同然になった灯があれこれ言いながら荷物を取り返そうとするが、岩泉は相手にしない。
かと思えば突然じゃんけんをし始める。灯がチョキ、岩泉はパー。ドヤ顔で見上げる彼女に、岩泉が思い切り顔をしかめた。しぶしぶといった様子で明け渡される袋の取っ手は、けれど歩道側の左半分だけ。

片手ずつに袋を提げて並んだ二人の後ろ姿を、亜紀はぼうっと見つめていた。時間にすれば僅か数秒のことだ。置いてけぼりにされたわけでも、疎外感を感じるほど放置されたわけでもない。実際そんなふうには微塵も感じなかった。

「あれ、亜紀さんどした?」
「何してんだ、置いてくぞ」
「いや置いてかないけど、どうかした?しんどい?」

案じる灯の一言に岩泉までも眉根を寄せる。熱中症か、水分ちゃんと摂ってたかと足早に戻ってきた二人に、亜紀は何でもないと首を振った。ちょっとぼうっとしてただけ、と快調を保証すると、なんかあったらすぐ言えよ、と岩泉に釘を刺される。そんなに貧弱に見えるだろうかと思い、風邪でダウンしたのを思い出して閉口した。

それでも、それを差し引いたって、あの寮に住む人々は自分に対して大層過保護な気がする。それとも誰にでもあんな風で、それが世に一般的なんだろうか。


亜紀はお喋りが苦手だ。二人もそれを知っているから、気まずくすることなく言葉を交わす。話題はついこのあいだ岩泉の高校時代のチームメイトたちが寮に泊まりに来たこと。
亜紀がわかるのは及川だけだが、灯は当然その他のメンツにも面識がある。
青城高校を知らない亜紀に、時折解説を入れるのは彼女の役目だ。亜紀はそれに相槌を打つが、それ以上には何も言わない。

「あー、あいつらな……別れたらしい」
「うえっ!?エッ嘘だろ何の天変地異!?」
「まあ…大学も違うからな。いろいろあったんだろ。俺も詳しくは聞いてねえ、そういうのは及川の管轄だ」
「ええ…えええ…待って、ショックが大きい…メンタルが焼け野原…」
「また話聞いてやってくれ。アイツらも汐崎のが話しやすいだろ」
「え、私両方から話聞くことになるの?ハードルやばない?どんな顔してりゃファイナルアンサー…?」

何やら恐れ戦く灯を尻目に、亜紀は今日の夕飯に思いをはせた。夏休みに入ってから、皆が揃うとわかっている日には、夕飯や昼食も一緒に食べるようになった。
それぞれの予定もある、学期中でさえ毎朝必ず四人そろうわけではない。休暇中はなおさら各々不在も増える。だが揃おうが揃わまいが、誰かの作りおきだろうがコンビニ飯だろうが、朝食だけはなんとなく共有スペースで食べる習慣がついていた。

今日は数日振りに皆が夜に帰寮するので、夕飯をみんなで食べようとラインで決めていた。献立はオムライス。何が食べたいと灯に尋ねられ、たっぷり数分かけてようやく亜紀が選んだメニュー。

亜紀は灯の料理が好きだ。まず単純に美味しい。プロ並みだとか店を出せるとか、やっぱりそういうわけではないが、素朴な献立はいつも手間を惜しまぬ丁寧さで拵えられる。
でも何より、それを当然のように皆にふるまう灯と、それを当然のようには思わないことを、手伝いや片付けによって示す二人の青年、きちんと並ぶ盛り付けられた食器、木製のまな板と包丁の音、出汁の香り、卓袱台を横切る話し声、そういう食卓、あの空間が、多分好きだ。

「そうかあ…なんていうか、いや冷静に考えたら脳内フラワーガーデンかって話なんだけど、でもこう…いつかゴールインするんじゃないかって、そう思ってたんだけどなあ…」
「お前……いや、少女漫画かよ。夢見過ぎだろ」
「いやだから頭お花畑かって自己申告しただろ!何なら羞恥の自家中毒でアナフィラキシー起こしそうだよ!けどアレじゃん、最初っからゴールインするつもりないなら付き合わんで良くない!?その交際意味ある!?」
「…!?…、……」

亜紀はすぐ前で共通の友人の恋路から脱線・派生した人生の激論を戦わす二人の同寮生を観察した。東北は宮城の出身。偶然同じ大学の、それも同じ寮に上京してきたという、男の子と女の子の、高校からの同級生。

恋人同士かと思ったがどうにもそういう色気は無く、単なる同郷組とするにも距離が近い。男女の隔てなく団子になって遊べる小学生がこんな風だったかしら、と首を傾げるも、幼い時分から見目の良すぎた亜紀には実体験としてのそんな経験はほとんどない(基本好きな子をいじめる典型的男子にちょっかいを出され、それをやっかむ女子に陰口を叩かれるのがデフォだった)。

遠慮のない自然な距離感。下心は―――多分、ほとんどない。ないと言い切らないのは、長身の青年が時折見せる、持て余すような表情を知っているから。
でもそれだって亜紀の知る、自己本位で怖気のするような視線とはほど遠い。下心と表現するのも忍びない、淡くまっすぐで不器用な感情。

「……ならお前は、」
「?」
「誰かと付き合う時は…あー、…結婚前提なのが条件なのかよ」

今はらしくなく口ごもる岩泉一というその青年が、亜紀は最初苦手だった。言葉に遠慮なく、態度に素っ気ない。見上げるような身の丈と鍛えられた体躯が、苦手意識に輪をかけた。

でも彼に表裏はない。嘘をつくより黙り込む口、感情直通の表情筋。修羅場の一件にて幼馴染の青年を怒鳴りつける様は多少ならず乱暴だったが、言ってる内容は至極真っ当、筋が通ったものだった。
講義室でボブカットに絡まれた日、感情露わに部屋を飛び出した亜紀を追った彼は、わかったような口を利くことも、それまで少なからずの男がそうしたように、下心の透けて見える安い同情を吐く事もしなかった。

平熱平温の接し方。亜紀を他と区別しない、その他大勢と変わらぬ対応。初めは困惑した。でもしばらくして、その視線の先にいる灯を見つけた時、亜紀は自分が過敏に自意識過剰だったと恥ずかしくなった。

無論それもこれまでの経験があってのことで、自己防衛には欠かせない意識なのだが、それにしたってあたかも世の中の全ての男が自分に気を持つかのような過剰反応、そんな感覚を培わせるほどロクな男しか引っかかってこなかった自分の男運には閉口した。
そうさせた岩泉本人がどこ吹く風で亜紀に無頓着なのが、有り難くも納得いかないような、なんであれしばらく複雑で、でもそのうち気にならなくなった。

彼にとって自分は、そこらを歩く女子大生と大差ない存在なのだ。冷たいわけでも他人行儀なわけでもない。同じ寮生として、欲張っていいなら、友人としての距離に入れてくれる。遠慮なく乱暴な口を利かれ、チョウチョまで投げつけられる。その"普通"が、亜紀には新鮮だった。

気兼ねの無い態度は楽だった。兄がいたら、こんな感じだろうか。いいや、本物の兄だって、こんなふうにはそうそうなれまい。

「…うん…?いや、そう聞かれるとわからんけど…よしんばそうだとして、そんな前近代的な女一生貰い手なくない?」
「お前が言ったんだろ、矛盾しすぎだろ」
「そうだけど、何ていうの?『オッス!お前との未来は考えてないけど適当な時までカレカノしようぜ!』っていう前提でお互いオッケーならそれでいいと思うんだけど、世の中にはそうじゃないboys & girlsもいるわけだろ?」
「そのちょいちょい無駄に発音良いのは何なんだよ」
「そうじゃなくてもさ、…誰かと付き合うってのは多分、いや経験ないからわからんけど、そんなに簡単なことじゃないと思うんよ」
「…?」

言葉に困った風に語る、汐崎灯というこの少女、今亜紀が思わずじっと見つめたその相手も、亜紀は最初苦手だった。苦手というより、どう接していいかわかりかねて、困惑していたという方が正しい。

人当たりの良い常識人かと思えば法則性の見えない奇行癖、異様に高い主婦力、食に対する謎のプロ意識。頼んでもいない、報酬も義務もない、にも拘わらずあれやこれやと世話を焼き、なんの翳りなく笑っている。

亜紀は無償の愛だとか、理由のない親切に馴染みがない。馴染みがないなんて言い方をすればやさしい方で、もっと言えば理解できず、なんならほとんど信じていない。
でも灯にも裏は見えなかった。そもそも裏表を使い分けられるほど頭が良さそうにm、失敬、人が悪そうにも見えない。皆の世話を焼くのが自分の幸福みたいな顔をして、騙されても気づきそうにない、気づいても大して気にしそうにない、見返りを求める求めないの前に、そも、見返りという概念があるのか怪しい革命的平和思考。亜紀にとっては人生で会ったことのないカテゴリだった。いわゆるニュータイプ。でも害はない。

「人のこころを扱うことなんだ。つまり何というか……人に向き合うって、真剣なことでしょ」
「……、」
「恋人として相手に真剣に向き合う以上、行き着く先に結婚の文字が見えてくるのって、そんなに不思議なことなのかね」

姉がいたら。いや、姉とも違う。母だろうか。それにしても自分の母とはまるで違った。となるとやはり新人類か。

でもきっと、母親が子供に与えるような無償の愛というものは、心づくしの食卓とか、病床のそばで握られた手とか、夜道を迎えにやってくる自転車なんかに現れるものなのだと思う。

「……まあ、中高生でケコーン考えてお付き合いとか重過ぎるわママゴト過ぎるわお花畑過ぎるわでおよそ現実離れしてるけどね。実際聞いたらアルカイックスマイルだけどね」
「……お前アレだな、ちょっと良い話したかと思ったら全力で台無しにしに来るよな。時々死ぬほどいい加減だよな」
「エッだって現実無理じゃん、みんなそんな真剣にオツキアイとかしないじゃん」
「でも汐崎はそっちのがいいんだろ」
「うん…?いや、私に聞かれるとピンと来んのだけど…でもそうさね、生産性のないオツキアイに使う時間があんなら、台所に立ってる方が性には合うよね」
「……」
「エッその方が生産的じゃない?」
「……わかった、もういい。お前はそのままでいろ」
「待って、今なんかすごい喜ばしくない方向で諦められた気がする」

ぴーぴー騒ぐ灯をあしらう岩泉はすでに通常運転だ。いや、確かにこれは前途多難だ、と亜紀は人知れず岩泉に同情した。

九月を迎えた東京の夕刻を、日の入りを早める斜陽が照らす。下町のよれたアスファルトに、並んだ影が長く伸びていた。頬を撫でる風が軽い。熱気をかき回す使い古しの大気でない、東京のもろもろに多少なりとくすみながらも、山から流れ落ちてきたころの透明感をとどめた微風。

都心の市街地にそびえるビル群が夕陽の黄金色に煌めいている。夕飯を食べ終わる頃には夜景に変わるであろうそれを、亜紀は遠く眇めた眼で眺めた。帰り道はもうあとわずかで、ものの数分でもう見慣れた寮の入り口に辿り着く。

斜陽の照らす石畳を進み、立て付けの怪しいガラス戸を灯が引く。土壁と檜の香る日本家屋の匂い、その奥からぬっと、独創的な髪型をした青年が現れた。

「おーおかえり。んでただいま」
「ただいま〜。黒尾くんもおかえり」

もってくわ、と玄関口で靴を脱ぐ二人から買い物袋を取り上げて、青年は奥へ戻って行く。亜紀はその大きな背中をこっそり眼だけで追いかけた。
膝上のハーフパンツにTシャツという軽装は、彼の打ち込むバレーという競技では一般的な練習着だという。男性が短パンを履く、という光景に慣れの無い亜紀にはどうにも違和感と言うか、目のやり場に困る格好なので、できれば長ジャージを履いてほしいと思うのだが、これを口にしたこともやはりない。


橘、それ持つぞ。そう言って手を差し出してくれた岩泉に、しかし亜紀は首を振って買い物袋を抱え直した。灯はいつも当たり前のように軽い方を亜紀に寄越す。実際腕力も体力も灯の方があるので強くは言えないのだが、せめて最後まで、つまり冷蔵庫前まで運ぶことに決めている。

食材を冷蔵庫に収めたところで、不意にからり、涼しげな音色に、炭酸がはじける柔らかな音が続くのを聞いた。顔を上げると同時に目前に現れる、氷を浮かべた透明のグラス。サイダー。

「ほい」
「…ありがとう」

返事はかすかに緩む眦と、薄く弧を描く唇の笑みだけ。黒尾鉄朗。この青年に対する亜紀の印象は、出会った時からずっと曖昧だ。

注ぐと同時に結露するグラスの、白く煙った表面を慎重につかむ。炭酸は普段ほとんど飲まない。けれど、唇を付けた水面、鼻先でぱちぱちと踊る気泡、独特の刺激と懐かしい味に痺れる舌先は心地よい。ほう、と息をついたころには、半分ほどまで下がった水位で、上二つの氷が露わになっていた。

亜紀と違って一気に飲み干したらしい、黒尾は空になったグラスに二杯目のサイダーを注いでいる。今日は部活のオフを利用して、母校の部活に顔を出してくるのだと言っていた。

「今日何作るって?」
「、オムライス」
「そらまた可愛いメニューだな」
「…あと、食べごたえのために、から揚げも」
「うわ、見透かされてた。汐崎サン高校生の息子でもいんのかね」
「……年の差が狂気…」
「ぶっは」

計算して思わず真面目に突っ込んだら爆笑された。げらげら笑う黒尾に、庭の菜園で午後の水やりに勤しむ宮城組が不思議そうにしているのが見えた。なんでもないよ、と首を振っておく。まあそんなら鶏肉の下味でも付けとくか、と手際よく調理器具をそろえ始めた黒尾を、亜紀はぶしつけにならない程度に見つめた。

身の丈は岩泉を上回り、筋肉質な体躯は厚みがあるが、均等についた筋肉が全体のバランスを損ねない。日に焼けない白い肌の首筋と、短い襟足、反して長く垂れる前髪。すっきりした輪郭、通った鼻梁は端正で、中性的でなく男らしい。

「橘サン、皮剥きしといてくれる?」
「うん」

ピーラーを手渡され、ニンジンを手に取る。
感情を読ませない無表情でいるかと思えば、くだらないことで腹を抱えて笑ったり、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべているかと思えば、息するように誰かをフォローしている。

亜紀にはその法則が読めず、スイッチの在処がわからない。ので、たいてい反応が追いつかず黙り込んでしまう。黒尾がそれを気にする素振りを見せたことはほとんどない。だが、岩泉が基本的に灯と亜紀を同じ仕方で扱うのに対し、黒尾の接し方には明確に違いがあるのは知っていた。

亜紀には上手く言えないが、黒尾は多分、灯に対してあまり遠慮がない。これはうなずける。灯はまずとっつきやすく、滅多な事じゃ気を悪くしたりしない。イジられてぷりぷり怒っても可愛らしい程度で、アイスひとつで機嫌を直してしまうチョr…否、素直なところも親しみやすい。

一方亜紀のこととて腫れ物扱いをするでもない。気軽に声をかけ、ほどほどに絡み、繕った表情や言葉をつくるくらいなら沈黙が流れるままにする。それだけ見ればごく自然体だ。でも意識の隅ではずっと、それが自然体だとは思っていなかった。それを明確に確信したのは、この前のバイト帰りの一件だ。

「来週の京都旅行」
「!」
「新幹線予約しといたけど、駅からはどうやって行く感じ?」
「…乗り換えなしなら、バスかな。途中までローカル線でも行けるけど、最後はバスしか通ってないから」
「なるほどね。橘サン車酔いする方だっけ?」
「体調によるけど…そんなには」
「ホントに?」

すくい上げるような視線が、見上げる身長差にもかかわらず、覗き込まれているような錯覚を覚えさせる。試すような瞳に、亜紀は一度唇を結び、結局観念した。自分が取り繕ったところで、恐らく彼にはほとんど通用しない。

「…バスは、あんまり得意じゃない」
「んじゃ、途中までは電車で行こうぜ」

小気味いい包丁の音が鳴り始める。リズムは良いが、厚みには多少ばらつきのある人参の銀杏切りを横目に、亜紀は手の中の玉ねぎのつるりとした表面をじっと見つめた。
このひとは人をよく見ている。否、見るなどと言えば生やさしい。見抜いているし、見透かしているのだ。それも、相手がいつからとも、そうとも気づかぬほど静かに。

岩泉が天賦の感覚で人との間合いを取るとすれば、黒尾のそれは徹底的な洞察と、ミリ単位で計測するような緻密さによる距離感だ。壁はなく、しかし踏み込まない。気負いない振る舞いは「自然体」を錯覚させる。でも彼は多分ずっと前から、亜紀にそれを悟らせることなく、亜紀の抱える諸々を見抜いていた。そしてそれに全く触れることなく、亜紀にとって最良の間合いを測り出していたのだ。でなければあの台詞、あんな言葉は出てこない。

衝撃は受けた。でも恐いとも、腹立たしくも思わなかった。黒尾に他意を感じなかったからだ。気遣いを気遣いとわかるように示すことも、押し売りがましい親切もなかった。それまでの黒尾の振る舞いが、亜紀にそう感じさせなかった。

むしろ「自分が」彼に対してどの距離でいればいいのか、亜紀は測りかねている。岩泉とは違う距離感が、ありがたいはずなのに落ち着かない。

寄りかかれ。言われたことはきっとそういうことだ。でも本当にそうしていいのか、そうしたいのか、判断がつかない。
ただ。

「ん」

差し出された手に、むきあげた玉ねぎを差し出すその時、指先が触れた手のひらの厚み、硬さと温度。

あっさり調理に戻る彼に反し、亜紀はその指をぎゅっと握りこんだ。言葉にしがたい。すれば何かが変わってしまう気がする。

でも、彼の手に、とても。


190221

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