わらいばなしにもならぬ
「―――いいえ、確かにお伝えしました」
真昼の熱気と夕立の湿気を吸い込んだ重い夜風が、蒸し暑い夜気を徒に掻き回す。
人気もまばらな深夜の路地裏、壁の向こうからは賑やかな宴の喧騒が漏れ聞こえてくる。角を曲がればすぐそばのそこで、黒尾は微動だにせず佇んでいた。
虚空を見詰めて告げる彼女の黒々とした髪の耳元には、姿無き会話の相手に繋がるスマホが押し付けられている。
「その条件を飲んで頂けないなら、帰省は致しません」
蛍光灯の白い光を背に、居酒屋の裏口に落ちる彼女の声は、熱帯夜と裏腹にぞっとするほど冷え切っていた。
亜紀のバイト先に、黒尾は一度だけ行ったことがある。
それと知っていて冷やかしに行ったわけではない。バレー部での飲み会でたまたま訪れた居酒屋が、亜紀の勤め先だったのだ。
どやどやと現れたジャージ姿の一団の中、いの一番に自分を見つけた亜紀の驚き顔を、黒尾はよく覚えている。白い和服調の制服に紺の前掛けをした彼女は、周囲と全く同じ装いにも関わらず、案の定際立って目を引いていた。
亜紀はすぐに接客モードへ戻ったが、周囲は当然その一瞬で彼女が黒尾と面識があることに気付いた。渋々同寮生であることを明かせば、やはり来るのは「紹介しろ」要請。
なにぶん稀に見る美人、流石に気軽には声をかけられず黒尾をツテにしようとするうちは良かったが、酒が入ると気が大きくなるのが人間だ。
数人の上級生がオーダーやらなにやらと亜紀を呼びつけ、プライベートに絡み始めた時、黒尾は内心かなり神経を尖らせた。先輩らから多少の不興を買うのには目を瞑り、彼らを彼女から手を尽して遠ざけた。
傍目に見れば多分、そうまでする必要はないように見えただろう。実際彼女はそんなことには慣れっこだろうし、酔っ払いの絡みを上手く躱してもいた。そもそも表情の動きが乏しい彼女の情動を読み取るのは難しい。
でも黒尾は、彼女と初めて顔を合わせた日、寮の階段を踏み外したあの朝の、正確には黒尾に抱き留められた直後の、彼女の表情をはっきり覚えていた。
あれは怯えだ。
それも、些細なきっかけによる生易しいものではない、骨身に刻み込まれた恐怖。
「―――やめて、」
そしてそれは、今またはっきりと、冗談じみて整った彼女のかんばせを、紙のように白く引き攣らせている。
「…それだけは…そんなこと、ゆるさない」
噛み砕くような口調は恐慌に揺れている。虚勢にもならない拒絶から、なけなしの防衛線を無残に突き崩される音を聞いた。
「……いいえ…、……」
判りました。
死刑宣告でも受けたのかと思った。
人が絶望する様を、生まれて初めて見たと思った。
「なあおい、あれさっきのオネーサンじゃん!」
「うわマジじゃん、ホントに裏口にいた!」
「!」
飛び込んできた大声に薄い肩が飛び上がった。黒尾も不意を突かれて出遅れる。会話に全神経を集中させていたせいで、時間も考えず騒ぎ立てる集団の接近にまるで気付いていなかった。
そしてその一瞬で、大学生らしきその一団は凍り付く亜紀を取り囲んでいた。
「バイト終わりっすか!おつかれさまでーーす!」
「今から帰り?一人とかアブナイじゃん、送ってあげるよ」
「もう勤務中じゃないならさ、ここからはお客と店員じゃ―――」
声が迫る。距離が詰まる。沸騰する恐怖は喉元まで込み上げているのに、足に根が生えたように動けない。
白皙のかんばせが恐慌にひび割れる。声も出せず、亜紀は軋むほどスマホを握りしめた―――瞬間、パッと光る液晶と、突如鳴り響く着信音。
「―――あ、いたいた」
間延びした声には得体のしれなさを、ゆったりとした足取りには長身の体躯に見合う威圧感を。
敢えて割り込むことはしない。亜紀との間に男らを挟んだまま立ち止まり、黒尾は発信画面のスマホをひらひらと手に躍らせて見せた。
「バイト終わったら電話しなさいって言ったでしょうが―――『一人とかアブナイ』んだから、ネ?」
にたり、つり上がる口端と、三日月を描く切れ長の双眸が、覆いかぶさる高さから男らを舐めるように一瞥する。
さて思い出して頂きたい。時刻は深夜、場所は路地裏、相対するは身の丈およそ190のトサカヘッド。その胡散臭さについて言えば、夏の真昼の体育館にあってすら拭えぬことがお墨付き。
つまり何かと言えば、男らは顔を引きつらせて後退った。なんなら助けられたはずの亜紀すら一緒にフリーズした。
「すみませんねえオニイサンたち、彼女人見知りなんですヨ」
「え…いや、その…」
「俺らは別に…」
人が好いのは口調だけ、明らかに裏のある爽やかな笑みで頭上から圧を掛けられ、男らの壁が左右に割れる。言葉なく立ち尽くす亜紀へ、黒尾は通話画面を切り、長い腕を差し出した。
「帰ろうか」
路地裏に響いていた着信音が途切れる。取り戻された静寂を前に、幸いにも男らが調子を取り戻す間はなかった。
差し伸べられた震える指先が、縋るように彼に辿り着く。待ち受ける長い指に迷いはなかった。無造作に絡む。包み込まれる。
亜紀は息をとめた。引き寄せる力の繊細さに、なぜだか突然涙がこぼれた。
温かい手だった。胸がつぶれそうだった。黒尾が瞠目する。困らせている。わかっていても言葉が出ない。
手を離さないでほしかった。
「―――…」
立ち止まっていた時間はきっと数秒にも満たなかったはずだ。必死にすがる亜紀の指を、黒尾はたやすくほどいて離す。取り残された彼女の手は、しかし間を置かず、彼の逆の手に掬い取られた。
震える右手を、大きな右手で。そうして空いた左手が、亜紀の薄い背に触れる。柔らかく押す手に従って、大通りへと爪先が浮いた。
斜め後ろ、振り向けばぶつかるほどの距離にある体躯は、上背でも厚みでも自分をはるかに凌駕するのに。
ずっと恐怖でしかなかったその逞しさに、生まれて初めて安堵した。
すっぽりと包み込む手に縋るように、亜紀は声もなく泣き続けた。
「橘サン」
「、」
差し出さした紙コップから、甘い香りの湯気がたゆたう。八月も末とはいえ熱帯夜、ホットのココアを頼んだ黒尾は二度も注文を確認され、店員には珍妙なものを見る目で見られた。あそこのコンビニにはしばらく行きたくない。
小さな子どもがするような一生懸命さでつながれていた手は、コンビニに着いてようやく離れた。それがココアの代金を払うため財布を出そうとしてのことだというのだから、黒尾はレジ前で猛烈に悶絶した。
胸中を吹き荒れる嵐の壮絶さといったらもう。ここでかよそこじゃないだろこのいじらしさどうしてくれる。当然財布は出させなかった。
堪えるのがあと2秒遅かったら無表情が瓦解していた自信がある。一瞬いっぺん抱き潰してやろうかと理性すら匙を投げそうになった。己のみぞおちに一発入れて事なきを得た。
店員にはいよいよ危ないものを見る目で見られたので、あそこのコn以下略。
「…ありがとう…」
晩夏の夜にはあまりに冷えた指先が、熱いカップを引き受ける。かすかに触れた指がしびれた。誤魔化すようにベンチに腰かけ、結露するアイスコーヒーのカップに口を付けた。
手持ち無沙汰な視線が流れて蛍光灯の眩しい光を追い掛ける。照らし出された端正な横顔に行き着いた。
まさに花顔雪膚、日焼けを知らない絹肌と、彫刻じみた美しい輪郭、すっと通った鼻梁に続く形の良い柘榴の唇。くせのない艶やかな黒髪の下には、長いまつげに縁どられ、涼やかでいて華のある黒曜の眸が伏せている。
赤く透ける目元とその涙の名残から、黒尾は視線を引き剥がした。迂闊だった。それ以上長く見ていたら、しびれたままの指先が余計なことをしそうだと思った。
(―――そりゃ苦労する)
疲れた顔だ。思い詰め、寄る辺もなく、途方に暮れて疲弊している。にも拘わらず、その美しさは色褪せない。
―――むしろ、付き纏う憂いが増せば増すほど、彼女の美貌は匂い立つのだ。
黒尾は辛うじて舌打ちを呑み込んだ。苦々しい感情を声に乗せないようにするには、細心の注意が必要だった。
「……さっきの電話、ご実家相手?」
「!」
亜紀には不意討ちだった。ようやく一息ついたばかりの身には、目一杯の緊迫が漲った。
否とも応とも言えず黙り込む亜紀に、黒尾はトサカ頭を掻いた。こういう時、豊富な語彙はアダとなる。言葉を選べる人間だと知られている者が語ることは、人の心を過敏にしかねない。
夏休み前の朝、中庭で水やりをする青年と、そのそばにいた彼女の姿が脳裏をよぎる。
(…岩泉なら)
そうやって比べることが悔しい。でも妥当だとも思ってしまう。自分の方が人付き合いは上手い。でも人と向き合うことにかけては、岩泉の方がずっと上手い。
あの口下手で不器用な青年が少ない手札から切ってくる言葉は、いつだって掛け値なしに最短距離だ。ひとを扱う最適解を、息するように心得ている―――だから亜紀は心を開いたのだ。
「…何もかも全部話せってことじゃないよ。誰だって言いたくねえことはあるし、一から十まで知るべき理由も教える義務もないしな」
「…」
「ただ、及川の件で修羅場った時、岩泉が言ってたんだよ」
理由も事情も言いたくねえってんなら聞かねえだろうが!大ごとになる前に『どうすりゃいいか』だけは教えろっつってんだよ!
「―――、」
冬の夜空を思わせる黒檀の瞳が揺れた。…やはり結局、岩泉の至言を引用するのが一番効くらしい。
胸に燻る囁きは腹の底へと押し込んだ。しょうもない見栄っ張りだ。あの底抜けの男前に張り合おうという時点で無謀なのだ。なんであれ彼女にとっての最適解を示してやれればそれでいい。
「及川ン時じゃねえけど、『何かが起きてから』じゃ遅いだろ」
岩泉は及川に、理由や事情の説明をしなかったことを怒ったのではない。こまごました人間関係だの個人的な事情だの、そんなもんは当事者がどうにかするもんだと彼はばっさり斬ってのけた。
岩泉が怒ったのはむしろ、及川が起こりうる事態や抱えているリスクについて、誰にも何も言わなかったことだ。つまりは岩泉に、否、誰でもいいからとにかく助けになってくれる人間に、『何が出来るか』、何をすべきか頼まなかったことを、岩泉は一番に怒ったのだ。
「周りを巻き込みさえしなきゃセーフとかそういう話じゃなくてな。…親しいヤツが酷い目に遭うのを、あん時こうしとけばとか、ああ出来たのにとか、あとから後悔したくないってことなんだよ」
「っ、」
そんなことになるなら、詳細も背景事情もいらない、言いたくないことは言わなくていい。ただ出来ること、してやれること、一番恐れる事態を回避するために自分に何が出来るのか、それだけ教えてくれればいい。
岩泉に言わせれば、それは単に使えるものは使っておけという話だ。むしろ彼の場合、及川がどうなろうが自業自得だが、周囲に迷惑はかけられない、と断言して憚らない辛辣ぶりである(それにしたってただの幼馴染み相手にするには随分面倒見の良い待遇だ)。
それに、この白皙の佳人に『何か』があることはすでに機密でも何でもないだろう。黒尾に限らず、あとの二人も恐らく何がしかの察しをつけている。
だが黒尾はもう少し、亜紀には別の感情を上乗せしておきたい。
「今更何を頼まれたところで『あーなんかあんのね』、で終わり。それ以上聞いたりもしねえよ」
「…」
「…俺じゃなくても、言いにくいなら汐崎サンとか、…岩泉にでもいいからさ」
ぐっと呑み込んだなにがしかで、ほんの少しだけ喉が痛んだ。一抹の苦さを噛み殺し、いつも通りに口角を上げる。
亜紀は途方に暮れた顔をしていた。揺れる瞳にはきっと、揺れる心が映っている。
追い討ちをかけるのは忍びなかった。でも生真面目で義理堅い彼女には有効な手段だと踏んでいた。黒尾は亜紀の前にしゃがみこみ、迷子の子どものような顔へ小首を傾げてみせる。
「約束してくれますか、橘サン」
ふざけた仕草で出した小指に、亜紀は小指を出し返しはしなかった。それでも小さく頷いただけで、黒尾は及第点だろうと息をついた。
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