おいでませシリアスパート

「たっだいまー」

返事がないとわかっていても帰りの挨拶をするのはもう癖だ。買い物袋をがさがさ言わせながら寮の玄関に辿り着いたのは七時過ぎだった。五限終わりで買い物に行くとどうしてもこの時間になってしまう。こうなると大抵は残り物で夕食を済ますのだが、今日ばかりはそうも言っていられない。

常備薬類は部屋にあるので薬局では冷えピタとゼリーだけ、スーパーでは果物と野菜を少し調達。とりあえず突撃☆隣の美人さんをサイレントモードで敢行し容態と食物アレルギーの有無を確認しよう。…やっべちょっとカッコいいこと言ってない?頭良い感じの漢字多くない?そうとも私これでも一応奨学生、

「――――、」

ごしゃっ。
ふんふんと自分の偏差値について再確認していた頭がフリーズした。やっぱりポンコツだったなとか言うなそこ、お前が頭脳派とか笑わせんなとか笑ってる場合じゃないからマジで。

取り落とした買い物袋が板間に落下し不吉な音を立てる。だが買ったばかりの卵パックの安否確認すら頭を過る間もなかった。

昼間の陽光の名残を残す宵闇に辛うじて浮かび上がる共有スペース、その中央、投げ出された鞄からはみ出したファイルやペンケース。
竹ラグの上に流れる黒髪が、僅かな光源をも余さず受けて艶を放つ。それに反して力なく投げ出された華奢な四肢を包む、見覚えのあるシンプルな装い。

そのすべてを視認して数秒、ようやく呑み込んだ現実は真っ白な脳内に辿り着くことすらできず、喉元あたりで爆発四散した。

「どろろっろろろろ!?」

声もろとも心臓まで裏返った。エマージェンシーエマージェンシー、頭の中の汐崎さんが今世紀最大の緊急事態を前に卒倒した。一秒たりとも気絶してる暇などないにも関わらずである。
死ぬ気で叩き起こしにかかった。いやだって倒れてる人見て倒れるとかどんな玉突き事故だよ、どんな迷惑な役立たずだよ!

「ああああ橘さんっ?橘さんだよね大丈夫?アッ大丈夫だったらこんなとこで寝てないわちゃんと生きてる!?」

かくなる上は救急車、いやまず呼吸確認から?それか心臓マッサージ?待って相場が、標準価格がわからない。
頭の中の汐崎さんがギャン泣きしながら神頼みを開始した。そういう!イベントじゃ!ねえ!

「橘さっ…い、岩泉く…」

けーたい、けーたい、ポケットをまさぐり、ああ駄目だ彼部活だよ、今頃真剣にバレーしてるよと思い至った自分に愕然とした。常々阿呆とは思っていたがここまで阿呆とは。何甘ったれたこと考えてんだ、何かあったら彼が来てくれて万事解決してくれると思ってないか。いやそうだけど、呼べば多分来てくれて、ていうか大抵呼ぶ前にもう来てくれてて、すんごい力技だけどちゃんと要所を抑えた事態処理にあたってくれるに間違いないんだけど。
だが弁えろ、彼はお前のお守りじゃない。

「…橘さん、橘さんや?」

倒れ伏す華奢な体の脇に滑り込み、とにかく脈をと触れた首筋、ああ体温あった生きてるわと安心する間もなくそのあまりの熱さに飛び上がった。額も同様、発火するんじゃないかと慄くほどの高熱と、それに反して震える体。

じっとり滲む汗をぬぐい、乱れた髪をかき分ければ、血色の悪い、それでいて頬だけを酷く赤くして、苦悶の表情にゆがめられた美しいかんばせが現れる。ぎゅっと寄せられた眉根、絶え絶えといった呼吸の痛々しさにこれはダメだと直感した。ここまで熱が上がってしまうとちょっとやそっとじゃ起こせない。

「…ふんッ!」

振り上げた両手で両頬を思い切りぶっ叩く。クッソいてぇ。ついでに頭の中の汐崎さんのケツも思い切り蹴とばした。あん?ヒロインがケツとか言うなって?おっそいわもう結構言ってっから時効だわ!つーかいい加減チェンジ!主人公チェ(放送規制)。

階段ダッシュで自室に駆け込み、押し入れから客用布団(from実家の羽毛布団)を引っ張り出す。ついこの間縁側でたっぷりお日様にあてておいたふかふか具合にゴーサイン、足元に注意しつつ最速で居間へUターンし、ちゃぶ台を退けて寝床を整える。
それからごめんなさい他意はないです罰は後から何でも受けますと唱えたり拝んだりしながら(頭の中では土下座した)、橘さんの細いウエストのベルトを外し、ブラウスのボタンも一つだけくつろげた。敷布団に寝かせて掛布団をかぶせ、キッチンにダッシュして濡れタオルと氷枕を準備する。飛んで戻って髪を整え、額や首筋をぬぐい、白く美しい額に冷えピタを乗せた。

ようやっと整った現場に一つ頷き、再びキッチンに舞い戻る。とりあえず卵粥、ダメな時用にうどんも準備しよう。卵とねぎと油揚げと、確か冷蔵庫にわかめもあった。具には別に甘辛くした牛肉と白ネギもあるといい、帰ってくる男子陣のお夜食に出来る。あと揚げ出し豆腐に常備菜のひじきを付けて、必要ならおにぎりを握ろう。手抜きだけど今日は仕方ない。これは戦争だ。時間と材料に対する私の料理スキルの一騎打ちなのだ。

出汁をとり、絶妙な柔さの米粒と落とした卵でおかゆを仕上げ、牛肉は甘辛く炒め煮、合間にかまぼこやら揚げやらのうどんの具を準備して、牛肉の余分を具にしたおにぎりはフライパンで焼きおにぎりに昇華して。

「…All done!」

キッチン戦争終結。頭の中の汐崎さんが白旗を振って泣いていた。エッなんで敗けてる?ここ勝っていい場面じゃない?
ともあれ時間も時間だ、そろそろ起きて水分だけでも取ってもらわねば。いそいそ橘さんの枕元に近づき、幾分呼吸の落ち着いた彼女がかぶった布団の薄い肩あたりをそうっとゆする。

「橘さん、橘さんやい、起きれるかい?」

反応は存外早かった。ぎゅっと寄せられた眉根のまま、長い睫に縁取られた瞼がゆっくり持ち上がる。熱の所為だろう、潤んだ双眸がぼんやりと宙をさまよった。上手く焦点の合わないらしい瞳を覗き込む。

「ごめんね起こして、お粥出来てるけど食べれそう?」
「……、」
「うどんもあるけどそっちのがいい?どれも無理?」
「……」
「なんならゼリーか、せめてアクエリだけでもお腹に―――うん?どした?」

呻きとも取れる、でもそうじゃない。薄く開いた唇からかすかに漏れた音に全神経を集中させる。視線が合わない。確かにこちらを見てはいるけれど、認識されている気がしない。おぼろげな表情に不安を感じたその時、不意にほろり、宙をさまよう瞳から大粒の涙が零れ落ちた。

「おっちょっえっ」

ええええ次は何だどうしたんだ、どうしたらいいんだ教えて頭の中のおじいさんと慌てふためいていられたのはものの一瞬だった。コンマ数秒でそれどころじゃなくなった。

真っ暗だ。部屋がじゃない。瞳がだ。

「…、……」

ひとつぶ、ふたつぶ、止まる気配なく滴る涙が、横たわる彼女の鼻筋を横切り、こめかみへと筋をつくって流れてゆく。受ける光はただの蛍光灯のそれなのに、煌めく雫はひどく美しい。黒々とした瞳もきっと傍から見れば宝石かと見紛うほどだろう。
でも違う。

「…、」

手が伸びる。何かを探すような、いや違う。むしろもっと切実で、もっと弱々しい何か。伸ばされた華奢な白い手を思わず両手で包み返して、そうしてそれが言葉になった。

そうだ、まるで救いを求めるような。
それも、来るとは思えぬ救いを、ほとんど諦めたように、それでも苦しくて苦しくて、求めずにはいられなかったかのような。

「…亜紀さん」

亜紀さん、どうしたの。なにが苦しいの。

どこか遠くを、それもきっと真っ暗な遠くを見つめていた瞳がゆらりと揺れた。初めてちゃんと目があった。羽根布団の下の肩をゆっくり撫でさする。頬にかかった髪を梳いたのは、ばあちゃんの手を思い出したからだ。
すがるように手を握られる。目一杯に違いないその力の弱々しさに、軋むように胸が痛んだ。

「しんどいね、つらいね亜紀さん、ごめんねえ起こして」
「…、」
「お粥もうどんもあるかんね、起きたら一緒に食べような」

食べるとねえ、お腹があったまるから、きっと心もあったまるぞ。うちの死ぬほど元気で死ぬ気配ゼロのばっちゃまが言うから信用していいよ。

取り留めもないどうでもいい言葉をやめなかったのは、子守唄を歌えるほどの歌唱力がないからだ。いやふざけてない真面目に言ってる。こういうときは死ぬほど退屈で眠気を催すような話がちょうどいいんだ。ばっちゃまは私が寝れない時、隣のじっさまと打った将棋の手とかご近所百人一首大会で取ったカルタの上下の句とかを延々再生してくれたものだ。
…今さらだけどあの人マジとんでもない記憶力だな。認知症が泣いて逃げ出すんじゃないか。

亜紀さんの涙はしばらくしてようやく止まった。それだってうつらうつらと眠り始めて、瞼が落ちてからさらに数分かかってやっとだった。
握った手を放すのが忍びなくて、私は黙ってじっとしていた。落ち着かない心臓が心もとなさを訴えていた。

この寮の人は誰も突っ込まないし、私ももちろんそうだけど、彼女にはもともと容姿以上の儚さがあるというか、落ち着いているという言葉で片付けるには危うげな仄暗さがある。でもこれはどうも本格的に、ちょっとしたトラウマだとか、根の浅い話じゃ済まないような気がする。

蒸し暑い夜なのに、冷房のせいだけじゃない、どうにも背中が寒くて、たおやかな手を握ったまま彼女の隣に横になった。スマホの液晶に通知はない。電話口の岩泉くんは九時は回ると言っていた。
全部が一通り落ち着いた今なら、彼の帰りを待ちわびていても許されるだろうか。





「…どういう状況だこれ」
「…子どもの看病疲れで一緒に寝ちまった母親的な?」
「年の差がねえよ」
「俺に言われてもですヨ」

きっかり八時半まで行われた練習の後、普段なら参加する自主練を断って、急ぎ帰宅した寮の門前。ガラス戸の玄関の向こうに灯る明かりに首を傾げながら共有スペースを覗き込めば、煌々と照る蛍光灯の下、同寮の女子二人が向かい合うようにして寝息を立てていた。

竹ラグの真ん中に敷かれた見るからに値の張る羽根布団には、これまた見るからに病人の様子の亜紀がうずもれている。その折れそうな手首が布団の端から伸ばされた先には、寄り添うように背を丸め、剥き身のラグの上で肩を小さく上下させる灯の姿があった。
男から見れば大差のない小ささをした手は亜紀の手を包み、もう片方は布団越しに肩に回っている。スマホは傍に転がっていたが、カバンの類は端に寄せられた卓袱台の傍にとりあえずといった様子で押しやられていた。

「…ここにいるってことは橘サンが行き倒れでもしてたんかね」
「あ?」
「や、そうじゃなきゃ汐崎サンが寝落ちるにしても橘サンの部屋にいるはずじゃん?」
「ああ…そういうことなら多分、黒尾の言うとおりだ」

言いながらキッチンに視線を投げた岩泉に促され、黒尾はそこに足を踏み入れる。並んだ鍋のふたを開ければ、小さい方にはお粥、中くらいのには出汁が入っていた。ラップのかかったどんぶり二つにはうどんと、傍には具であろう肉だの何だのが、これもやはりラップ越しに鎮座している。横にはこんがりきつね色の焼きおにぎりが二つずつ。そうっと触れたそれはまだ温もりを残していた。

「俺らの分まで?」
「…だろうな」

いささかの驚きと共に岩泉を振り向き問えば、応じた平坦な口調に持て余すような感情が滲むのを聞いた。言葉にも振る舞いにも裏表のない岩泉が唇をとがらせて殊に無口になるのは、処理も表現もしがたい感情がくすぶっている時だ。

バックパックを降ろし、進み出た岩泉が灯の傍にしゃがみ込む。今日も今日とて豪快なスパイクを決めてきた大きな手のひらは、静かに上下する薄い肩に触れようとして、寸前で止まり、思いを改めたように触れた。
そのままぐっと引き寄せられ、ころり、仰向けになろうとした小さな体が、逞しい二本の腕にぽすりと転がり込む。大人しく両腕に収まる灯に目覚める様子はない。軽々と抱きかかえて立ち上がった岩泉の腕にうずもれるようにして眠る姿は、普段のある種絶望的な落ち着きのなさとはかけ離れて見えた。

「部屋まで連れてくわ」
「お、おお…そうだな、任すわ」
「?ああ、そっちは頼んでいいか?」
「オッケー任せろ」

くるり、踵を返して灯を連れ、二階への階段を上がってゆく岩泉を、黒尾は何とか押し込んだ驚きと一抹の感嘆をもって見送る。なんと迷いのない。なんせ迷いがない。
何なんだ、宮城の男女間距離ってみんなあんなもんなのか。これがヤツらの言うところの田舎コミュニケーションとやらの真髄なのか。ぱっと見っつうか実際すげえ親密なのに一切のいかがわしさを感じさせないこの無味無臭具合。いっそ感じるのは何とも言い難い敗北感。

「…都民だってジュンジョーなんですゥ」

都会なら誰でもテラシハウスみたいなキャッキャウフフが出来ると思うなよ、こちとら高校三年をバレーにささげたどころか大学までバレーを恋人にする勢いの一途なスポーツマンなんだよ。でもちょっと今度烏野の連中にも確かめてみようか。特にアレだ、菅クンとさーむらサンあたりに。

なんて胸中でぼやく黒尾は当然、颯爽と二階に辿り着いたは良いものの、彼女の部屋の鍵を持っているわけがない自分に気づいた岩泉が、灯の自室の前でかなりの間フリーズしていることを知らない。宮城だってジュンジョーである。

「…、おーい、橘サン」

仕方がない、いや仕方ないも何もないのだが、とにかく任せろと言った以上、とりあえずは彼女の容態を確かめねばなるまい。キッチンの様子からして、灯が彼女に準備した粥もうどんも未だ食べるに至っていないようだし、一度起こして水分補給をさせ、ついでに熱も計らせて。

一旦手を付けてしまえば風邪っぴきの看病など黒尾にとってメではない。元々の面倒見の良さに加え、自分より流行りの風邪や季節の変わり目に弱かった幼馴染がいれば、おのずと大抵の事は身についた。
腹をくくればさすがは元主将、慣れた手つきで、しかし最大限の慎重さをもって、黒尾は亜紀の肩をゆする。

そして黒尾は当然知る由もないが、数時間前に灯がそうしたときと同じように、この時も亜紀はあっさりと瞼を持ち上げた。

「お。起きた?だいぶしんどそうなとこゴメンね、何か飲めそう?」
「……、」
「それか何か食いたい?お粥かうどんか―――」
「…、ぃ…?」
「ん?」

かすれた声が何かを呟いた。頬が赤い。熱が下がっていないのだろう。唇の赤さもそのせいだろうか。だがその二つを除いてその端正に整った顔立ちは生白く、…覗き込んで初めて気づいた。意識がはっきりしていない。

「橘サン、どうしたい?何かしてほしいことあったりする?」

聞きながら、黒尾はそっとスマホに手を伸ばした。必要なら大家に連絡して、何なら夜間でもやってる病院に駆け込むことも有り得る。
同時にもう片手で、怖がらせないよう頭上ではなくこめかみから、彼女の額の前髪を掬う。手の甲で触れた滑らかな額は、案の定じっとりした熱を持っていた。額をすっぽり覆って余る大きな彼の手の下で、長い睫に縁取られた双眸は緩慢に上下した。

「…た…、い…?」
「うん、そうそう、どうしたい?」

意識のはっきりしない様子の亜紀に、黒尾は殊更声音を和らげて問いかけた。不意に視界の隅で、布団の外にはみ出した小さな手が、何かを探すように動く。
先ほどまで灯が握っていた手だ。ふと意識がそちらへ流れた瞬間、亜紀が息を吸い込む気配がした。黒尾は移りかけた視線を戻す。

そうして噛みあった視線の奥、真っ暗に塗り潰されたそれに、どうして今まで気づかずにいたのか。






「し に たい」

黒尾は息を止めた。
耳を疑う彼の背筋を、凍り付く戦慄が駆け抜けた。

決してよく通るわけでも、まして声量があるわけでもない。
ただ感情の一切を取り落とした虚ろな声が、空耳でなくそう紡いだことは、空恐ろしいほど美しく、底が知れぬほど昏い瞳が確かに証拠づけていた。


181022
お待ちかね(誰も待っていない)スーパーシリアスタイム。

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