反転・幕間にて

その日はとにかく、朝から調子が悪かった。

寝不足なのは帰宅後取り組んだレポートのせいだが、それ以前にも22時まで詰めていたバイト先の居酒屋で、過去最高を競う面倒さの酔っ払いにさんざん絡まれひどく疲れていた。
勤務中も三度に渡って鳴り続けていたスマホには嫌になるほど見慣れた番号が並んでいて、ついにメッセージアプリに浮かんだ返答を懇願する文言に、地に落ちそうなため息が漏れた。

帰り道半ばに電話をかけ、レポートを理由に切った。
わずか五分の会話で、亜紀はわずかに残った気力まですべて削り取られた気がした。

ようやっと布団にもぐりこんだものの眠りは浅く、朝から垂れ込めた雲からわかる気圧の低さに乗じてか、ここのところ鳴りを潜めていた低血圧のせいで寝覚めは最悪。低血圧を抑制、ともすれば改善さえさせていたと思わしき隣室の住人による朝食も、今日ばかりは遠慮した。
からし色の割烹着の灯は大層心配し、みそ汁だけでもと粘ったが、亜紀の経験則から言って、食べれば吐き戻す自信があった。それでも少しは腹に入れろともたされた小さなおにぎりさえ、ようやく口にしたのは大学についてからだ。

来週からは学期末試験が始まるのに、頭が重く意識はぼやけて、当然ノートも十分に取れない。外の茹だるような暑さ、中の効き過ぎた冷房の温度差が体に堪える。じわじわと痛みを訴え始めた前頭葉の具合から、これも経験則から言って、多分熱が出始めている。
そうしてそういう日に限って、余計な面倒事が起こるというのも経験則上よくあることだった。

「橘さんさあ、カレシがいるんならそう言ってくれたらよかったのに」
「…?」

終業のベルが鳴り、辛うじて板書だけは出来たルーズリーフやペンケースを仕舞おうと緩慢に伸ばした手が止まる。頭痛を抑えるため、なるべくゆっくり頭を持ち上げた先には、キャラメルブラウンに染めたボブの同回生が、その毛先を弄びながらこちらを見やって立っていた。

「…付き合ってる人はいないけど」
「またまたあ、嘘つかなくたっていいじゃん!結構イケメンだったし、別にバラしちゃってもよくない?」

亜紀は片付けのためにやや屈めていた身を、やはりゆっくりした動作で起こした。名は正直うろ覚えだが、この容姿には覚えがある。入学当初だけ昼食や移動教室にやたら誘ってきて、サークルの勧誘と合コンの誘いを断った途端一切構ってこなくなった女子の一人だ。

どれも亜紀にとっては珍しくも予期できなくもなかったので、取り巻きも含め名前すら記憶に残していないのだが、されて不快だったことをそう簡単に忘却できるほど生き易い造りもしていない。

食堂やカフェに向かって退室してゆく学生の流れが滞る。集まり始める注目が鳩尾をぐっと圧迫した。嫌な空気だ。ロクなことにならない気配だ。亜紀はぐっと唇を引き結んだ。不特定多数のちらつく好奇心の眼差しとは違う、斜め前方から刺さる視線に、亜紀には思い当たる節があった。

この講義には、同じ学部で同じ寮にも住みながら、ほとんど授業の重なる事のない同寮生―――岩泉一も受講している。
深く息を吸う。鈍く痛む頭を無視し、斜め先の視線とも目は合わせなかった。

「誰かと間違ってるんじゃない」
「間違うって、橘さんほどの美人を?ナイナイ!だって見たって言ってたもん、スーパーで男のコと買い物してるとこ」

薄い刃を仕込んだ声音が亜紀の容姿を卑屈に褒める。明るいトーンの気さくな口調は、隠しようなくわざとらしい。亜紀は静かに目を細めた。こういう手合いは当然初めてではない。そしてスーパーと男の子、というワードから状況を察せるほどにはまだ冷静だった。

買い出しのあの日だ―――そして「言ってた」という伝聞口調からして、途中で出くわした男子大生らしき一団が同じ大学だったんだろう。恐らくはそこから目撃情報が拡散した。痛みに鈍る思考回路で事実を辿り口にする。

「あれは寮の買い出しで、一緒にいたのも同じ寮生よ」
「ふうん?彼氏彼女だって思われるほど距離も近かったのに?」
「…見え方の問題だと思うわ。それにもう二人、他の寮生も一緒に来てた」
「でもカゴだってカレの方が持ってたんだよね?"対等な"寮生同士ならそんなことしなくない?」
「それは、」
「まあ橘さんみたいな美人なら誰だって荷物持ちくらいしちゃうだろうけどさあ」
「……」

ああ言えばこう言う。(頭が痛い。)無邪気な振りが鬱陶しい。(吐き気がしてきた。)とぼけたような口調でいて、その実酷く悪意ある解釈で揚げ足をとってくる。(どこかで座って休みたい。)

表面的な親しみも剥がれ始めた底意地の悪い笑みに、沸々とした苛立ちが湧き上がる。落ち着かないと。よくあることだ。そうやって自分に言い聞かせないといけない時点でいつも通りじゃなくなっているのはわかっていた。

斜め先から送られていた視線が険を増す。思わず滑らせた視線が噛みあった気がしたのは一瞬だった。行くか。尋ねられた気がして、そこからは電光石火だった。

「いいよねー美人って、ほっといたって男の方から、」

どん。
重たい教材を詰め込んだカバンが重力に任せて机を震わせた。水を打ったように静まり返る空間、集中する視線に女が怯んだ。

この程度の注目で逃げ腰になるか。冷ややかな嘲りはきっと冷め切った表情に出たはずだ。

「―――私のことが気に入らへんなら、好きに言うてもらってええけど」

制御が効いていない自覚はあった。言葉が"戻った"自覚はなかった。

「しょうもない噂立てて、関係ない人まで巻き込まんといてくれる」

西の訛りの刃でもって、冷然とした声音が場を切り捨てる。亜紀は鞄を掴み、パンプスを鳴らして教室を出た。

弾き出した言葉の余韻で舌が痺れた。唐突に現れた育ちの名残は、きっと昨日の電話のせいだ。噛み殺せない苛立ちと頭痛に歯を食いしばった。どこでもいい、一刻も早く座るか、出来るなら横になってしまいたい。

ようやく見つけた木蔭のベンチに鞄を放り投げるようにして腰を下ろす。日差しが厳しい。熱気でぐったりとうなだれた頭の痛みに呻きが漏れた。そうして数秒、迷いなく近づいてきた足音がすぐそばで止まる。
スキニーの脚の横に置かれたのは、結露で汗をかくスポーツドリンクのボトルだった。

「今日はもう帰った方がいいんじゃねえか」
「……、」

緩衝材になるような前置きをおかない率直な話し方は岩泉に特有だ。初めは驚いて気後れすることもあったが、言葉は素っ気ないが真っ直ぐで、裏表がないこともすぐわかる。だがそのぶん角も落とさない物言いに、今ばかりは亜紀は黙り込んでしまった。

「飯もまともに食えねえんだろ」
「…」
「汐崎がすげえ心配してたぞ」

息を吸い込み、でも言葉が出なくて、結局小さく頷いた。灯が持たせてくれたおにぎりは亜紀の好きな焼き鮭で、焼いた切り身をほぐした具をやわく包んだ白米には、丁寧に海苔が巻いてあった。彼女は灯に、鮭が好きなことを言った覚えはない。

「橘」

言い含めるような声が厳しい。亜紀は知らないが、彼はかの幼馴染の悪癖ゆえに、オーバーワークの類に敏感だ。返答を迫る呼びかけに、亜紀はしぶしぶ口を開いた。

「…三限、試験があるから」
「四限は」
「講義が…」
「どこのだ」
「……A304の、教育理論基礎」

岩泉はしばし黙し、スマホを取り出して、呼び出した連絡先に迷わずコールをかけた。数秒してつながった学友に確認を取れば、記憶に違わずその講義を受講しているという。わけを話して板書を頼み、学年一と呼び声高い美女の代返という突如の大役に慌てふためく友人をぞんざいにいなして、岩泉は「おー、今度昼おごるわ」という一言で通話を終えた。
何の了承も迷いもなく勝手に話をまとめた彼によって、文句を挟む暇もなく、亜紀の四限休講が決まってしまった瞬間だった。

「試験受けたら帰れ。いいな」

一方的に言い渡した岩泉は、返事を待つこともしなかった。昼練あっから行くわ、と残して踵を返す。
横暴だ。何の権限があってそんな命令。立ち去る武骨な背中の遠慮ない物言いに、亜紀はふつふつと苛立ちを覚えた。けれど見下ろした手の中のスポーツドリンクに、その苛立ちは急速に萎んでいった。

権限も何もない。自販機におもむき、わざわざ追いかけてきて、何一つ説明を求めることなく代返の手配までしてくれた。さっきの一悶着だって、必要ならいつでも割って入れるよう身構えながら、亜紀の意向を注意深く尊重し、介入を望まなかった彼女を理解し何も言わずにいてくれたのだ。
その同級生に、礼の一つも言わなかった自分の方がどうかしている。

弱った体に引きずられて、気持ちが落ちやすくなっている。わかっていても落下は止まらない。情けなさと自己嫌悪で視界が滲み、余計に頭が痛くなる。亜紀はひどく萎れて項垂れたまま、冷たいボトルを握りしめていた。




次の講義まで一休みをとキャンパスのベンチに腰を下ろし、買ったばかりのカフェラテを手にして3秒、尻ポッケから鳴り響いた無料通話のコール音によって椅子から軽く2センチ飛び上がったのは講義終わりの午後四時だった。

ちなみに躍り上ったカフェラテは五分の一ほど私の顔面にダイヴした。夏だし当然アイスよな!とアイスを選んだ数分前の自分を全身全霊で褒めてやったら、関西生まれの友人が「死ぬほどポジティブやな。いつか死因ポジティブで死ぬんちゃうか」と貶してんのか心配してんのか非常に微妙な感想を実に凛々しい真顔で寄越してきた。でもティッシュをくれるあたりが男前すぎて感涙した。頑張って長生きしよう。

ともあれ顔を拭きつつ慌ててタップした画面の向こうから聞こえたのは、慣れ親しんだ低音ボイス。今平気か?と尋ねる岩泉くんに、そっちこそ部活平気なの?と返せばまだ始まってねえ、と落ち着いたトーンで応じられた。電話してんだからそりゃそうか。

「どうかした?洗濯物入れといてとか?」
『いや、…いや無理だろ部屋違うだろ』
「アッそうか、ご飯一緒だからつい。じゃあ晩ご飯リクエスト?なんか作っとく?」
『それも違…えけど、あー…手間じゃねえなら』
「もちばち任せ。とりあえず揚げ出、」
『ちょっと待て、いや揚げ出しはすげえ嬉しいけど要件はそれじゃねえ』
「Oh what?」
『橘の体調が悪化してる』
「Oh waht!?」

なんですと?頭の中の汐崎さんが全身を耳にして立ち上がった。ミーアキャットもかくやという反応速度であった。
講義終わりに一悶着あったこと、様子からして熱もありそうだということ、三限は試験があるので見逃したが、四限は代返を頼んで帰らせる手筈にしたこと。副将仕込みの簡潔明瞭さでもって告げる岩泉くんに頷きながら、情報整理を頭の中の汐崎さんに任せて(たまにはいい仕事するじゃないか)急いで予定を確認する。

「ごめん、私今日三限飛ばして五限まで授業あるんだ。でもバイトはないから、そこからマッハで帰って部屋行ってみる」
『いや、十分だ。俺も黒尾も九時回るから、汐崎一人に任せることになるけどいいか?』
「ノープロ、むしろ連絡ありがとう。全力で看病しに行くね」
『ほどほどにしてやれよ』
「あれ?善行にも関わらずいさめられてる…?」

何故!と頭の中の汐崎さんが憤然と抗議を開始する前に、『じゃあそろそろ切るわ』とあっさり告げられた。あっ待った待ったと引き留める。

『なんだ?』
「うん、頑張ってね。いってらっしゃい」
『…、………おう』
「お?」

ぶつん。やけに長い間をおいて返された単音節の返答と共に、聞き返す間もなく通話が断ち切られた。急に電波悪くなったとか?あーたまにあるよなあ…アレでもここ東京じゃね?山ン中じゃなくね?

「…なあ」
「も?」
「そろそろ真面目にツッコミ追いつかんのやけど、お宅の生態どうなっとんねん」
「エッ天然記念物扱い…?」
「そんなエエもんちゃうわアホ、せいぜいが珍獣や」
「辛!辣!!」

181011
もちばち任せ=もちろんばっちり任せとけ

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