アイスブリンク・フォーリング


「「鯖の味噌煮定食1つ」」
「あら」

仲がいいのねえ。
カウンターの向こう、白い帽子にマスク姿の食堂のおばちゃんの目元が楽しそうに皺を作る。その笑みを前に、見事にシンクロした注文の出どころは、合わせた顔を見て目を丸めた。

「「…この前の」」
「うっふふ!」

またもや綺麗に被ったセリフに、おばちゃんはもう笑いが止まらないらしい。そろそろ余計な勘違いまでされそうだ。思いつつ、うきうきした手つきで差し出される鯖の大皿、味噌汁、白米を、並んだ二人、同タイミングにてトレーで受け取ってゆく。
ほうれん草の小鉢を乗せて、最後に伸びてきたおばちゃんの両手には小さなプリン。

「おまけね」

偉大なるおまけを前に気まずさは無意味となった。心なし弾むのを隠せない声でおおきに、と頭を上下したのは自分。苦笑いを含んだ様子で、ありがとうございます、と丁寧に会釈したのが隣。

昼休み真っ只中、キャンパス最大の面積を誇る食堂のメインカウンターは常に後続がつっかえている。押し出されるようにして歩き出し、ぺこり、さっきと同じ整った会釈をして立ち去っていこうとした黒髪を呼び止めたのは、ほとんど思いつきのようなものだった。

「なあ、ちょお、時間ある?」
「?」








「あ。外語2回の白河蒼衣です」
「…健学2回、宮治」

自己紹介が済まされたのは、トレー上のものが全て胃に収まった頃合いだった。

治は食事時に会話するのが好きじゃない。賑やかなのは気にならないし、人が話すのを聞きながら食べるのは、普段は意識しないが多分好きだ(生まれた瞬間から一緒にいた片割れに加え、部活人生が長かったのが原因だろう)。ただ、一対一で人と食事するときは特にありがちな、話しかけられることで食事が中断されたり集中できないのが嫌なのだ。

その点でこの同級生は、ランチの友としてはまず合格ラインだった。
いただきますの声さえ揃って三秒、気まずかったのはその瞬間だけで、箸をつければ黙々と、事情を知らない人間が見れば居合わせただけの相席に見えたであろう無言の食事が始まった。
向かいに腰掛けた治を気にするでも、食事中にスマホと睨めっこするでもない。きちんと躾けられたと見える箸遣いの、それでいてたいそう美味そうに定食を平らげてゆく食べっぷりには、気持ちの良いものがある。

先に食べ終わったのは治で、追いかけて蒼衣もおまけのプリンを完食する。ごちそうさまの一言までも重ならなかったのは幸いだった。
そうして満足そうに熱いお茶を一すすり、思い出したように顔を上げた名前の第一声が、冒頭の自己紹介だ。

健学…じゃあ生科?いや、食物栄養。なら知り合いはいないな。
そんなやりとりを挟んで、本題に触れたのは蒼衣の方だった。

「ええっと…何かご用でした?」
「…この前の」
「はい」
「あの子、…宮永さん。知り合い?」
「?はい。会ったのはあの時が二回目だけど」
「ふうん」
「…?」

聞きはしたが、それはもとよりほとんど確信していた。会話の感じはほとんど初対面だったし、何よりあの場で自己紹介をしていたからだ。
怪訝そうな顔をする蒼衣を無視して、「どういう知り合い?」と重ねて尋ねる。蒼衣はますます怪訝そうにしたが、あれこれ突っ込むことをせず簡潔に経緯を説明した。電車での一幕と、そのお礼。ことの顛末を聞きながら、治はゆっくりと視線を流した。

(…義理堅おて、真面目)

胸の奥の深いところから、不定形なのに質量のある重い靄が充満していく。眉間に皺が寄るのを感じた。振り切るように、水のグラスに手が伸びた。

蒼衣はそんな治の姿をじっと見ていたが、不意にそのあたりの空間へ視線を漂わせた。それから思い出したように、視線を戻して治に言った。

「…そうだ、もしかして宮くん?宮永さんが帽子借りて、返せてないって言ってたの」
「!」

はた、と治は目を見開いた。思ってもみない話題は、自分がどう切り出そうかと喉奥で転がしていたまさにそれだったのだ。
そんな治の心中を知ってか知らずか、蒼衣はスマホを取り出し、液晶に目を落として続ける。

「…やっぱりそうだ。この前ラインで話してたんです。最近忙しくて持って行けそうにないから、渡しといてもらえないかって」

今クリーニングに出してて、土曜には戻ってくるから、私が彼女のバイト先に受け取りに行く予定なんですよ。

「来週月曜とか、お昼時どっかで」
「───なあ、それ」

口をついて出たのは勢いだった。だって、多分。
これを逃すと次はない。

「それ、俺も直接行く。ついてってええ?」


全くの偶然だ。よもやこっちに来ているとは知らなかったし、もうとうの昔に縁も切れてる。正直普段思い出すこともなかった。

でも、忘れたわけじゃない。なかったことになってもいない。


「…えーと…じゃあ、宮永さんに聞い、」
「アカン」

今更どうするとか、なんだとか、考えがあるわけでもなんでもない。成り行きだ。ただ、にわかに重なった偶然が、その成り行きの流れに呑まれてゆくのを黙って見送れないでいる。

その程度には、澱んで消えない何かがある。視線の一つで呼び覚まされるほど、無視できない爪痕が。


「サプライズや、サプライズ」

昔の知り合いやねん。多分向こうは覚えてへんから、ちょっと驚かせたろ思て。


行き当たりばったりで動いた自覚はある。でもなんとなく、目前の黒髪の、特別美人でも着飾ってもいない女は、きっと押し通されてくれるだろうと思った。

翠とどういう知り合いだと聞いた治に、蒼衣は答えはすれど、ではそちらはどうなのかと質問を返すことはしなかった。
黙り込んだ治の様子は、ただの昔の知り合いを話題にした会話にしては少々硬かったはずだ。蒼衣はその様に気付いていた。それでいて、詮索も好奇心も見せなかった。

ただならぬ何かがあると察してくれたならむしろ僥倖だ。その物分かりの良さに漬け込もうと思った。

「ええやろ?土曜の夜、19時駅前でどうや」
「え、ちょっと」
「約束な」

トレー片手に立ち上がる。リュックを背負い、ついでに蒼衣のトレーも取り上げ、四の五の言う間を与えずに治は返却口へと向かった。

ご馳走さんでした、と二人分のトレーを差し出せば、向こうから顔を覗かせたさっきのおばちゃんがにっこり笑う。

「あら優しい、仲良くねえ」
「おおきに、どーも」

今度は気まずく思うことはなかった。ややざわついたテーブル周りに気づくことなく、治は食堂を後にする。
彼との食事風景を遠巻きに見守っていた蒼衣の友人たちが、一体どういうことかと彼女を質問攻めにしていたことなど、彼の知る由ではないのである。








これはやらかした。

来店2分、邂逅2秒、白河蒼衣は電撃的に確信した。
カウンターに腰掛けた自分を───正確には、一つ飛ばしてその隣で長い脚を窮屈そうに収めた青年を視た瞬間、その整った顔は吹雪くほど凍りついた。

「昔の知り合いって聞いて…帽子、直接受け取りたいって、一緒に来てもらったんだけど」

言いながら蒼衣は追加で思った。多分これはそうじゃない。
知人なのは本当なんだろうが、数瞬棒立ちになった翠に見た衝撃の余韻は、明らかに単なる昔馴染みとの再会へのそれじゃなかった。

気のせいでなく膠着する空気。いや、察してはいた。一方的に同行を申し出、その通りについてきて、しかし隣で無言を貫く彼、宮治の態度には確かに違和感があった。
ただ、話してくれる気配もなかったからあえて突っ込まなかった───多分それが裏目に出ている。

「ごめん宮永さん、私が勝手に」
「俺が勝手についてきたんや」

そっけない声が割って入る。咄嗟に見上げた先、ようやく沈黙を破った治の表情は読めない。
蒼衣は翠を見た。ゴールド調のアイシャドウを綺麗に乗せた瞳が、努めてゆっくりと蒼衣を捉えたところだった。

「…ライン、」
「送ったんだけど、既読がつかなくて」

言い訳がましく言ってしまった蒼衣に、翠は前掛けからゆっくりスマホを取り出した。画面を数度撫で、数拍置く。
長く息を吐き、彼女は目を、それから口角を上げて言った。

「通知、オフにしてたみたいだ。ごめんね気づかなくて」
「いや、」
「ご注文は?ああ、突き出しは冷奴。今日の大将オススメはトロと鯛ね」

落ち着いた声だ。会う度いつも綺麗に施された化粧、それがなくても整っているであろう顔に浮かぶ笑み。会って日の浅い蒼衣の目には、正直普段の翠と変わりなく見える。
でも、緊迫を拾う本能はアンテナを立てている。肌のひりつくような、凍えるほどの平静。

朗らかに話す彼女はまっすぐ、蒼衣だけを見ている。
蒼衣しか見ていない。

「…じゃあ、とりあえずそれで」
「飲み物はどうする?」
「梅をロックで。宮くんは…」
「…芋、ロックで」
「かしこまりました」

アッシュグレーが遠心力に応じて翻る。厨房に注文を伝えた翠は、テーブル席からの声に応じてホールに出ていった。まもなく別の店員が冷奴の小鉢とグラスを二つずつ運んできてくれる。
蒼衣が横目に盗み見た治は、冷奴より先にグラスに口をつけていた。

蒼衣が治について知ることは少ない。兵庫、稲荷崎出身で、日本代表を有力視されるセッター・宮侑の双子の兄弟。彼自身はバレーを引退し、今は青翔大、健康科学部に在籍。
パーソナルなことは何も知らない。青翔は総合大学で、2人の学部のメインキャンパスが重なったのは今年からだ。つまり接点がない。

翠が厨房に戻ってくる。料理とグラスをいくつか持って、颯爽とフロアに出て行った。それとなく追いかけた視界は、カウンターを締め出して過ぎ去っていく。

「…、」

黙々と食べていたら冷奴がなくなった。大豆の濃い、滑らかな豆腐だった。これもう一つ頼めないだろうか。頭の片隅だけは大層平和に思いながら、蒼衣は梅酒に口をつける。

詳細はともあれ、状況だけ見るに騙し討ちの匂いがする。なんにせよ説明責任を求めるべきはグラスを空にした隣席の彼しかいまい。蒼衣はちょっと思案した。

「ずいぶん殺伐としたサプライズですね」

ぶっ込んだ。完全なる闇討ちである。
ここにきて一切の忖度を消し飛ばした遠慮のなさに、治は思わず肩を揺らした。ぎょっと出どころを見下ろし、次いで理解し、纏う空気が圧を帯びる。

なるほど、彼もこの手の人間か。さりげなくも露骨な圧殺に対し、蒼衣は黙ってグラスを空けた。刺身の盛り合わせが運ばれてくるのに合わせて、再び梅のロックを頼む。店員は愛想良く治にも声をかけ、芋のロックが追加された。

「あ、ついでに茶碗蒸しと、茄子の揚げ浸しもお願いします」

気にした風もない蒼衣の注文に、治は遠慮なく眉根を寄せた。逆撫でされた気分には舌打ちも追加したい。この女、御しやすく空気が読めると思いきや、存外図太い神経をしているらしい。

侑ほど気分屋とは言わないが、片割れより温厚な治の威嚇も平均的な女子を竦ませるには十分である。しかし相手は梟谷出身、子供のような無邪気さで覇○色の覇気をぶっ放し、前触れなく周囲を瞬殺しにかかる猛禽に可愛がられてきた後輩の1人だ。
強者耐性は標準装備、多少の威嚇では怯まない。巷じゃあれを猛禽世代と呼ぶ。

当然弾む会話もなければ、皿の上の減りは早い。茶碗蒸しと揚げ浸し、二杯目、三杯目のグラスが空く。唐揚げ、梅きゅうりで四杯目。追加した五杯目はだし巻きと一緒に、耳触りの良いアルトのもとやってきた。


「お待たせ致しました。林檎酒と獺祭、だし巻き卵です。それと、」

皿に続いて降ってきた紙袋に、蒼衣は一つ瞬いた。白地に赤いロゴ。チェーンのクリーニング店のものだ。

「わざわざご足労頂かなくてよかったのに」

気さくで軽い、分厚い氷に包まれたような声だ。
透き通っていて、つるりと滑らかで、手に取るにはあまりに冷たい。

ホールと厨房を忙しなく行き来していたはずの翠は今、カウンターの向こうにはっきり身を据えていた。佇まいは一見自然だ。だが、蒼衣の目には敵を迎え撃つような様に見えた。

蒼衣はゆっくりだし巻きに箸を伸ばした。柔らかな重みで垂れる卵を取り皿に乗せ、大根おろしを積む。治は箸を置いたままだ。
翠が朗らかに鯉口を切る。

ああそれとも、


「ご兄弟から何か伝言でも?」


だし巻きに揺蕩う湯気の方が場違いなほどだ。
零下を割った湖水に似た空間が、わずかな言葉の衝撃で瞬く間に氷結する、






「羽鳥」


翠の笑みが消えた。


「どなたのことですか?」
「羽鳥やろ。稲荷崎の、」
「羽鳥翠なら死にました」

治が怯んだ。蒼衣にもそれがわかった。当然翠はそれを見逃さなかった。

「心配しなくても、今更週刊誌に売り込むような真似しませんよ。主犯は別で、そもそも証拠も残ってないし。あの写真だって今の化粧じゃ私だなんてわかんないでしょ」

塗装が剥げる。敬語が落ちる。吹雪く激情がちらついた。覗き見たのはクレバスのように深い断絶。

喉を潰されたような声が呼んだ。

「ちゃう、羽鳥、俺は」
「何が?…ああそうか、こっちが払うのね」

口角を吊り上げる翠の声が、唇とともに震え出す。保てない虚勢が自傷に走る。


「オーケー、何すれば満足?口止め料だろ」

裸の写真でも送ろうか。


鼓膜を疑う氷刃に、蒼衣はついに顔を上げた。
思わず顔を上げた先、美しく化粧を施した翠の顔には、引き攣るような笑みが酷薄に浮かんでいる。

治が刺されたのがわかった。やはり蒼衣にもわかるのだ、翠にも当然わかったはずだった。


「顔さえ写さなきゃそれでいいよ。このナリにするまでそれなりに手間もお金もかかったんだ」
「違う…!」
「ネットにばら撒いてもらっても結構。今更だろ、どうせ今も調べれば」
「俺はそんなこといっぺんも言うてへん!!」


がたん。

振り下ろされた拳がカウンターを震わす。薙ぎ払うような怒鳴り声が冷水のように酒場を打った。

文字通り水を打ったような瞬時の静まり、ゆっくり戻るざわめきと密やかに集まる視線。
血の気の失せたかんばせに、チークが虚しく浮かんでいる。ルージュを引いた唇が戦慄いた。


「そうだね…あんたは何もしなかった」


カウンターの向こう側で、もう繕いようなく、翠は全身を震わせていた。


「あんたの片割れもそう言うだろうね」


蒼白の目元に、凍るような雫が閃く。
切り裂くように翻るアッシュグレーが、厨房の奥へと荒く消えた。

蒼衣は言葉なく、それ以上に言葉を亡くした隣の青年に瞳を移した。
カウンターの拳はきっと爪痕の残るほど、唇は血の滲むほど噛み締められている。

何が何だか、正直何もわからない。ただ、冷めただし巻きはもう、喉を通りそうになかった。



210120

ここにきて安定の大荒れ。

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