映し出せ、泡雲


「あ、そこの店員サン!その、アッシュがカッコええオネーサン」

入店時から何かを探すように落ち着きなく辺りを見渡していたのは、なるほど彼女を探していたからか。
赤葦は一つ納得し、人好きのする笑みと共に長い腕でひらひらと手を打った青年の、端正な横顔を流し見る。それから、無駄のない動きでテーブルの間を行き来し、厨房に戻ろうとしていた渦中の彼女を。
不意に呼ばれて驚いたんだろう、薄い肩がアッシュの下で跳ねる。こちらを捉え、大きく見開く目が見えた。

この青年、宮侑の声は特別大きいわけではないが、人目ならぬ人耳をとかく惹く。女性ファンが色めき立つのはその容姿のみならず、声質のゆえでもあるんだろう。座敷から拐われてきた視線が、呼ばれた先である店員の彼女の方に集まる。一時的とはいえ集中した注目に、アッシュグレーの横髪が居づらそうに揺れるのを、赤葦は少し気の毒に思った。すっと伸びていた背筋を縮めるように、こちらへ浅く会釈すると、彼女は足早に厨房の方へ戻っていく。

「あらら、行ってもうた」
「今のが宮が助けたって子?」
「そうです、かわええ子でしょ」
「へー、美人じゃん…って、あのナリで薬盛った男とタイマン張ったの?肝据わってんなあ」
「元ヤンとかかもよ、髪の感じとかさ」
「あれくらい普通だろ、大学デビューってやつ」

当人見てて元ヤンって柄じゃないし、俺らと同じで二回だから、大学デビューって時期でもないっすよ。
赤葦はそんな注釈を顔色一つ変えることなく、美味しく咀嚼し飲み込んだ揚げたての唐揚げと一緒に腹の底に送り込んだ。

特に訂正が必要なほどの誤解とは思わない。脱色した髪色、隙のないメイク、右耳のシルバーピアス。飄々とした振る舞いがモード系によくハマる彼女、宮永翠は、赤葦の印象から言えば恐らく、そういう印象を抱かれることに頓着しないだろう。むしろそういう印象を抱かれるよう、当人が意図して振る舞っているようのではないかというのが赤葦の見立てだ。

余談だがこれには結構自信がある。なにぶん高校時代にて、骨の髄まで“飄々“を極めたホンモノ、純度100%の唯我独尊と遭遇済みなのだ。真髄を知っていれば、レプリカを見破るのは難しいことじゃない。

「元ヤンはないだろ、あの慣れてねー感じで。ユルい女なら宮の顔ですぐ釣れるっしょ」
「あー確かに?それもそうか」
「でもアレじゃん、そういうユルそうなギャルに見えて身持ちが固えってギャップよくない?」
「それをオトしてヤるまでがワンセットだろ」
「うっわやりてー!」

下世話な笑いが吹き上がる。赤葦は気づかれない程度に、店内を浅く見渡した。騒がしくはあるが、そう広い店内じゃない。結い上げたアッシュグレーの、細くて白い頸が見当たらないのを確認してから、無言でテーブルの端に追いやられた握り飯の平皿を引き寄せた。自分で注文したのではないが、手をつけられる様子もないので食べていいだろう。

飲みたい連中にとって欲しいのは酒と肴であり、腹の膨れる米はシメの茶漬け程度にしか出番がない。しかし今日はオフだったこの他大と違い、みっちり練習してからやってきた少数派の未成年にとって、胃袋の序列は米>肴。
黙々と頬張った程よい塩気の米の下からは、柔らかくほぐされた焼き鮭が現れる。気分と味覚を完全に分断することができれば、さぞ美味いに違いない。

胸はどれくらいが、場所はどうだ、明け透けに飛び交う猥談は高校時代に聞くような可愛げのある妄想と違い、生々しい体験談の暴露を伴う分、異性への遠慮や敬意に欠けて品がない。
基本的にシャットアウトの得意な赤葦でも多少辟易するのだ、そのゲスみが気まずいんだろう。所存なさげな同期のチームメイトの視線を感じ、赤葦は平皿を押し出してやった(「いる?」)。人懐こい大きな目を置き場なく、特徴的まろ眉を困り顔にさせていた全国指折りのリベロは、心なしほっとした様子で二つ目の握り飯を受け取る(「サンキュー!」)。

赤葦はもう一度、厨房の方に目を走らせた。ちらり、翻ったアッシュグレーは後輩らしき少女に何事かを指示しつつ、盆にグラスをいくつも乗せていた。そのまま厨房から颯爽とホールに出てくる。
それを見たんだろう、宮が盛り上がる上級生の会話に割って入った。

「ちょっとちょっと先輩方、聞こえたらどうすんスか」
「いい子ぶんなよ侑ぅ、あわよくば持ち帰ろうって魂胆だろ?」
「ちゃいますー、俺は紳士なんでそんなゲスいことしません」
「おいお前ら、去年の準ミス三ヶ月で捨てたヤツがほざいてんぞ!」
「はあああ!?」
「ちょっ、痛っ、やめてくださいよ!俺の顔がエエんは俺のせいちゃうでしょ」
「よーし店員呼べ、鬼殺し注文しろ!」

話題が宮の華々しい恋愛遍歴に移ったところで、目の前で二つ目の握り飯(具は昆布だった)を食べ終えたところの同期と再び目が合う。赤葦は黙って最後の握り飯を天辺から半分に割った。見るからに上等な梅干しの肉を、器用に種だけ除いてわけ、無言で差し出す。人好きのする笑みが、若干の気疲れを覗かせながら返ってきた。多分、内心かけた言葉は同じだ。「お疲れ」。

赤葦はもう一度翠の姿を追いかける。動きは機敏だがグラスをサーブする手慣れた様は丁寧だ。ふと、ほろ酔いのサラリーマンから陽気に声をかけられて、何事かを返している。どんなセンスの良い返しをしたのか、スーツ姿の大人たちの明るい笑い声が湧くのを尻目に、握り飯の最後の一口を飲み込んだ。








「なんか俺、こういう場向いてないなあ」
「いいんじゃない、向いてなくても」
「赤葦はスッゲー落ち着いてたよな。ああいうの慣れてんの?」
「いや、右から左に流してただけ」
「それが出来んのがオトナだよ〜」

まろ眉がへにゃりとくたびれる。赤葦はその気安い様に相好を崩した。古森元也。高二時点の高校全国三本指中、唯一の同期にして最も扱いづらい潔癖スパイカーと、恐らくいっとう上手に付き合っていた選手が何をいうか。
古森の方こそ大人だろ、とそんなことを言ってやれば、「木兎さんだって相当だったろ」と軽やかな笑い声で返される。否定はしない。

「うち、チームも強いんだけど、同じだけ酒にも強くてさ。遊んでる人もそこそこ多いし…や、バレーにはマジだぜ?あんだけ飲んでも明日にはバッチリ練習参加してるからね」
「みたいだね」
「みんないい人で、馴染めてないわけじゃないんだけどさー…ああいう会話はどうも、周りの目が気になっちゃって」
「それが普通だし、そういうやつも必要だろ」
「……。赤葦うちのチームこない?」
「全国区のセッターがいるのに?」
「セッターじゃなくて俺の心のセーフティネットとして」
「役職が限定的すぎる。却下」
「くっそー」

初見のとっつきにくさを自覚する自分と違い、人類の8割以上に第一印象から好感を持たれそうな古森にも、付き合いづらい分野というものがあるのだろう。それが猥談だというのはなんとも微笑ましい。

俺が女だったら、さっきの先輩たちの誰かより、お前みたいなやつの方が安心して付き合えるだろうけどな。
そんな一言は、会計のためにレジ前に集まったいくつかのジャージを見て飲み込んでおいた。それこそ聞こえたらコトだ。

それにしても、まだ会計が済んでいなかったのか。お開きにしてからすでに数分は経っている気がする。カウンターを覗けばなるほど、先ほどなまえが指示を出していた新人らしき女の子が、レジ操作に手間取っているのが見えた。
誰かヘルプに来ないのか、と赤葦が顔をあげた時、どんぴしゃだ。今日何度目かのアッシュグレーが、風のように脇をすり抜けていった。

「大変お待たせいたしました。お会計の方、代らせていただきます」

水を断つように凜然とした声だ。話のネタに上がった店員の登場に、どよ、とジャージの数名がざわめいた。翠はそれに反応することなく、手早くレジ操作を行い、受け取った札を数え始めた。意味ありげな視線に、ちらとも表情を変える様子はない。

「6320円のお返しです」

そうか、サービスすると言っていたから。赤葦は思い当たった。レジに浮かんだ数字は、想定よりも2割ほど割り引かれている。おそらくそのイレギュラーが、新人の子のレジ操作に響いたんだろう。

「ありがとうございました。またのご来店お待ちしております」

レジと一緒に会計も閉める。付け入る隙のない折り目正しい接客をされれば、不躾な視線を浴びせていた会計待ちの客たちも大人しく送り出される他ない。
絡まれない応対をよく心得ている。赤葦が翠から意識を外そうとした、その時だった。

「宮永サン」
「!」

よく手入れされた爪の、長く骨張った指先が、空になった釣り銭受けを下げようと伸びた翠の手を掴まえた。

高校時代から磨きをかけて整った端正な顔が、人好きのする笑みを口元に、レジそばのマジックペンを我がもののように取る。そうして彼女の華奢な手に、躊躇いなく文字を書きつけた。

「連絡待っとる」

先を行く先輩たちに目をつけられないようにだろう、宮は素早く顔を寄せて囁く。崩さぬ笑みをそのまま、翠の手はマジックペンとともに返却された。

突如隣で勃発したシンデレラストーリーに、新人の女の子が興奮気味に頬を赤くする。だが、対する彼女は動かない。
宮が怪訝に思う前に、赤葦はさりげなく進み出た。レジ脇に立つ赤葦には、すっきりと整った翠の横顔がはっきり見えていた。

「行こう、後ろ詰まってる」
「お、堪忍。ほな、今日はご馳走さんでした」

会計待ちの客を示し、出入り口の方へ誘導する。手を振る宮が背を向けたところで、頬を染めていた新人スタッフはハッと我に返ったようだった。ぱたぱたと次のレジを開けにゆき、客をそちらへ誘導する。

さらに待つ客がいないことを確かめてから、赤葦は翠の前に立った。

シンデレラなどとんでもない。
油性の英数字を残された手の手首を、静脈を蒼く浮かばせて、もう片方の手が握り締めている。


「宮永さん」

弾かれたように顔が上がり、明るく染めた髪が舞う。強張った顔だ。赤葦は自分の直感を確信した。

いつ、どの程度かは知れない。だが彼女は聞いていたのだ。自分をネタに盛り上がっていた、あの下品な猥談を。

「…大丈夫?」

無意味と知りつつ問うた赤葦に、呆然と彼を見上げていた翠の表情が揺らいだ。赤葦は一瞬身構えたが、翠が崩れたのはその一瞬きりだった。

またたき一つ、動揺を振るい落とすようにして、翠は唇を歪めて笑った。

「…最悪だよ。油性なんだけど、これ」

茶化して言う。平生に持ち直したようで、そうしきれていない。赤葦は微かに眉を潜めた。

『耐えられるうちは限界じゃない』。困ったように笑うくせして、覚悟の据わった声が蘇る。

今思えば振り切った無関心に近い寛大だったとも言えるが、根本としてお人好しと忍耐の過ぎるそのスタンスに、赤葦は今でも、尊重こそすれ同意はしない。
スポーツの世界ならそんな根性論、時代遅れの暴論と片付けられる。メンタルだって筋肉と同じだ。ダメになるまで酷使するなんて馬鹿げてる。

けれど、弱みを見せまいと張られた目一杯の虚勢を、必要もないのに暴くほど性根が悪いつもりもない。

赤葦は無言でレジ横のショーケースから、紙パックのジュースを一つ取り出した。十数円のお釣りが出るだけの小銭と一緒にレジに置く。

「お釣り、募金箱にでも入れといて」

詫びというには安過ぎるし気休めにもならまいが、せめてもの謝意だった。何もないよりはきっといい。
赤葦は応答を待つことなく店外へ出た。背後を気にする様子を見せながら、古森もその後に続く。

「…赤葦、さっきの子、知り合いだったの?」
「学科の同期なんだ」

古森はうわあと言いたげな顔をすると、後にした暖簾を気遣わしげに振り向いた。古森からもなまえの表情は見えただろう。気配りのできる彼も、翠が接客用の外面を保ちきれなかったことに気づいたはずだ。

十数メートル先を騒がしく進むジャージの一団の、金髪に染めた髪を眺める。赤葦は今度こそ直にため息をついた。

憂鬱な鼓膜に蘇った記憶のせいで、あの落ち着いた声の、取り留めもない話が無性に聞きたくなっていた。


200723

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