クラウドシート・ランペイジ





「…おや、これは」
「どうも、お久しぶりです」
「──ちゃんがいますから、何処かで会えるとは思っていましたが。お元気でしたか岩泉くん」
「はい。先生も全然変わらないっすね。名前がわかるようになったくらいで」
「君も相変わらず肝が座ってますね。…で、──ちゃん、何をそんなに急いで来たんです?」
「…2年越しの再会を邪魔して申し訳ないんですが、先生、白河先生来ませんでしたか」
「ええ、来てしまわれましたね」
「!それどういう」
「多分なんですけど白河先生、”私とは会えない“はずだったんですよ。それが会えちゃったんで」
「……先生、私、先生は東京に住んでると思ってたんですけど、違うんですか」
「やだなあ──ちゃん、そんな怖い顔しないでくださいな」
「じゃあ先生宮城に住んでるんスか?」
「ここ東京なんだけど、君は本当に動じないね岩泉くん。残念ながら宮城県民ではありません」
「ハジメ駄目だ、私もうこのドア出られない。本気で今ここだけ異空間に切り離されてるとかない?ありそう過ぎて怖すぎる」
「あんまり深く考えない方がいいですよ、思い詰めてうっかり何かに繋がるとマズイんで」
「…先生、マジで、マジで真面目に答えてほしいんですけど」
「何なりと」
「白河先生、今どこにいるんですか」
「この日本のどこかには」
「…。殴っていいですか」
「待って待って──ちゃん、合格してからの方が落ち着きなくなってません?」
「先生こそ私が合格して戻ってきてからのが愉快犯指数上がってません?あの子はここの講師で、私の友達の後輩なんですけど…!?」
「落ち着け、本当にマズかったら先生も止めてるよ。俺が熱出したお前を家に送ろうとした時、先生が車出してくれたの覚えてるだろ」
「…、…状況を…状況を説明してください。私が彼女の先輩である私の友人に、この件で申し開きできるようにです」
「(うーん相変わらず文系にして論理肌)…心得ました。もう小1時間ほど前ですが、飛び込んできましてね、白河先生。で、私たち初対面なもんだから自己紹介しました。ジャージに水着で、見た感じ仕事しにきた風体でもなかったんで、今日はどうしたんですかって聞いて」
「(あのまま行ったの…!?)」
「(あのまま行ったんだな)」
「したら、『会いたい人がいる』って言うので」
「「!」」
「ピンときました。これは君達のどちらか、いや──ちゃんがけしかけるとは考え難い、ともすると岩泉くんが一枚噛んでるかなと。そうなると思い当たる場所はもちろん?」
「…宮城県」
「私たちが交差して、先生が居合わせたから…?」
「関連を断定はできませんがね。…ともあれ、『その人とここで待ち合わせですか?』って聞いたら、困った顔しましてね。謝ってそのまま帰ろうとするから、『どこにいるんですか』って聞いたんです。そしたら」

返事、聞こえなかったんですよね。

「「……」」
「コーヒーポットが五月蝿くて」
「「殴っていいですか」」
「困りましたねふたりして、ちょっとしたジョークじゃないですか」
「(次やったら殴るから止めないでハジメ)」
「(グーはやめろ。パーで縦は許す)」
「(心得た、チョップなら可)」
「彼女多分、『遠いところ』って言ってました」
「「!」」
「…そういう顔をするということは二人とも、彼女の発言の危うさが解ってますね。私も、これはもう勘ですけど、ここまで来たらある程度方向づけした方が安全じゃないかと思いましてね。最後にほんの少し“けしかけた“わけです」
「…どういう意味ですか?」
「岩泉くん、覚えてます?君が通っていた予備校の階段そばには、赤い自販機がありましたね。そして、──ちゃんの側にはなかった」
「「!」」
「だから言ったんです」

『出てすぐ、自販機がありますから、冷たいものでも買っていってはどうですか』って。

「…そうか、それが“あると思えば”」
「そういうことです。…果たして、自販機の取り出し口に何かが落ちる音がしました。無事“着いた”ということでしょう」
「…はーーーーーっ…」
「マ、そんなに心配しなくても大丈夫だったと思いますよ、──ちゃん。私が知る限り一番危うかったのは、死人相手だった私ですから」
「!……すみません、私」
「謝ることじゃありませんよ」
「…死人?」
「おや、岩泉くんには話していませんでしたか。大した話じゃありません、君は知らない方が良いでしょう。…それにしても君ですか?ここを時短と交通費節約のために使おうなんて命知らずを思い付いたのは」
「…。まあ、ダメ元でしたけど」
「心臓オリハルコンなのかなキミは。…これでおわかりと思いますがね、岩泉くん、皆が皆キミみたいな主人公体質じゃないんで、ここを宮城直通どこでもドアと認識しているならその考えは改めてくださいね。白河先生、結構に危ない橋を渡っていきましたよ」
「だから言ったんだよメチャクチャだって、ハジメの馬鹿!」
「(主人公体質?)…悪かった、軽率だったよ」
「ここで素直謝罪なのがまた…ッ!」
「それにしたって経験者の──ちゃんならまだしも…参考程度に聞きますけど、どうして行けるって思ったんです?」
「あいつ、ここで働いてて、──のダチの後輩で、行きてえ先が宮城だって聞いたんで。そこまで揃えば、普通に行けるんじゃねえかって」
「普通、普通ねえ。や、私たちがそう思っちゃうのは百歩譲ってわかるんですけど」
「?だって、──はそうやって俺に会いに来たんだろ」
「え、いや、…まあそうだけど、あれはもう火事場の馬鹿力っていうか、そんな当たり前みたいに信じられる話じゃ…」
「うーん尊い。青春のかほり。…あっ待って待って殴らないで」











xxxxxx











寂れた無人駅で待つこと20分、やってきた1時間に一本の列車は、都心じゃまず見ることのない一両編成の鈍行だった。


乗り込んだのは私と先輩のふたりだけで、車内には深緑の着物をまとった老齢の女性がひとりだった。がま口の手提げを膝に、頭をかしげてうたた寝する小さな体を、窓辺に刺さる昼下がりの陽光が背後から容赦なく照りつけている。車内には冷房が効いているが、うなじを焼く日差しの暑さは遮れない。
お年寄りの体は体温調節機能が落ちている───なんて考え始めてそわそわしそうになっていたら、隣に座っていた先輩が徐ろに立ち上がり、向かいの座席へ歩いていった。そのまま女性の腰掛ける座席の真後ろ、ではなくその隣のブラインドを一枚、二枚下ろしていく。

徐々に湾曲する路線に合わせて角度を傾ける陽光が遮られ、ブラインドが作る影へと小さな身体が収まった。
音に気づいて目を覚ました女性が、無言のまま私の隣に戻ってきた先輩を、それから下がったブラインドを見やる。

「どうも、ご親切に」

戻した顔をほころばせたおばあちゃんの柔らかい東北訛りが、ブラインドに淡く遮られた陽の落ちる床に降る。横目で盗み見た先輩は、いつもの気怠そうな横顔を首ごと落とすように会釈しただけだった。次いでノールックで私の顔を掴み、無遠慮に前へひねり戻す。
無言の「こっち見んな」。首をさすりさすり、流れる車窓に大人しく目を向ける。

見渡す限りの田園風景、果てには山々の優美な稜線。晴れた夏空には目に痛いほど眩しい白雲が浮かんでいる。ただそれだけなのに、それだけだからか、飽きることなく魅せられる。
東京じゃ奥多摩で見れるかどうかの──いや、この雄大さは奥多摩でも無理な気がする。山裾まで青々広がった水田の規模が広すぎる。

たたんたたん、たたんたたん。

軽やかに揺れる一両編成がゆっくり速度を落として、次の駅に辿り着く。乗り込んだのと似たような無人駅、開いたドアから乗り込んだのは熱気を抱えた夏風と濃い日差しだけで、乗り込む人はいなかった。あっという間の発車の合図、動き出す車輌。

生乾きの髪からカルキが匂う。水着の上からジャージを履いただけのお尻がシートを濡らすのが心配で、座席に敷いたバスタオルはどれくらい役に立っているだろう。膝に抱えたスポーツバックは、日差しの名残を残して温かい。

じわじわと這い寄る疲労感が四肢を重くし、心地よい揺れが頭を留守にする。およそ現実味のない心地だ。わずか1、2時間ほど前にいたプールサイドが、はるか遠い異国のように思う。

泣きすぎて重たくなった頭は、眠気に似た疲労にぼんやり霞んでいる。長閑な静寂が草臥れた体に優しくて、考えるのをやめたまま、腫れぼったい瞼で目の玉を覆った。
着けばきっと起こしてくれる。先輩はやはり何も言わなかった。





「起きな」

肩を揺すられ、はっと意識が浮上した時には、列車はそれなりの駅舎を従えた有人駅に辿り着いていた。
向かいの席にいた着物の女性の姿はすでになく、乗り込んでくる客層もさまざまになっている。ホームに差す日はまだ高かった。でも、へばり付くような熱気を感じない。
聞いたこともない名前の駅前、改札を抜けた先輩が迷うことなく足を向けたのはバス乗り場のロータリーだった。

半分寝起きの頭で辺りを見回すのもそこそこに、あっという間にやって来た市バスに乗り込む。
そばであれこれ会話する老夫婦の言葉は八割がた聞き取れなかった。波打つような訛りのトーンは、馴染まないのに耳を捉える。不思議だった。
時折田んぼを挟みつつ都市の顔をした街並みを抜けて10分、一切の説明なく降りたのは総合病院前だった。

「……先輩」
「あたしじゃないよ」

思わず息を詰めたのがそんなにわかりやすかっただろうか。まだ何も言っていないのに返された素っ気ない否定に、ひとまず胸を撫で下ろす。ではなぜ、と考えて思い出したのは、関係者ブース付近、バイト先の先輩が口にした言葉。

『私も応援するつもりだったんだけど、なんかおじいちゃんの退院日がどうとかで棄権したって』

「…お祖父さんの?」
「、…ああ、あいつか」

バイト先の先輩、つまり光琉先輩の同級生である彼女から聞いたんだろう、と暗に問う声に険はなかった。頷き返す頃には先輩は背を向けて入り口へ向かって歩き出していた。説明がないのは察して、黙ってついていくことにする。

明るく清潔な空間には、うっすらとした消毒液や薬か何かの匂いが充満していた。行き交う見舞客、病院着の患者らの間にあって、湿ったジャージとスポーツバッグの自分が今更ながら酷く場違いに思えた。
受付のカウンターで看護師とやりとりする先輩を、待合室の隅っこでじっと待つ。やがて戻ってくる先輩に問うた。

「私が来たせいで、予定が遅れたんじゃ…」
「退院は明日。今日はちょっとした打ち合わせと荷物まとめるだけだから予定通りだよ」

本当だろうか。思ってすぐに考え直す。この人は基本的に嘘をつかない。適当言って誤魔化すくらいなら、あからさまな無視か不機嫌な黙殺で押し通す。

淡々とした背中を漫然と追いかけて、ぼんやりとエレベーターに乗ったり降りたりしているうちに、病室の並ぶ廊下に出た。入院棟だろうか。
幸いにして病院通いと無縁の人生を送ってきた私には何もかもが目新しい。不躾にならない程度にあたりを見回していたら、ノーモーションで立ち止まり扉をノックした先輩の背中に衝突しかけた。入室。

「あら、篠崎さんのお孫さん。こんにちは」
「こんちは」

相部屋だ。独特の匂いが鼻をつく。ベッドがいくつか並んだ大部屋の左奥、病院着で身を起こした女性からの挨拶に、二割増し丁寧めに光琉先輩が返した。慌てて自分も挨拶する頃には、先輩はさっさと反対側の手前のカーテンに手をかけていた。
多少迷ったが、通路に突っ立っていたら看護師さんの邪魔になりそうだし、ベッドの女性を含め数人いる患者さんたちの目も気になる。カーテンの向こうが見えない程度に近づいて立ち止まれば、気づいた先輩が目だけで言った。「何してんの」。

入っていいということらしい。白いカーテンをそろそろと覗けば、これまたノーモーションでバチリ、鋭い双眸と視線がぶつかった。

年輪を刻んだ褐色の肌と銀鼠の短髪に、白刃のような瞳が埋まっている。通った鼻筋、鋭い目の造形は整っているはずだが、真一文字の口元と瞬きひとつない眼差しが纏う雰囲気は峻厳だ。
俗に言えば目つきの鋭いイケおじ。気圧された勢いで弾かれるように出てきた挨拶は、見事に舌の上でこんがらがった。

「こ、こんにちは」
「…」
「えーと…初めまして、私」
「高校ン時の後輩」

紹介というにはあまりに雑な注解が飛んでくる。首のみじろぎ数度分で確認した先輩には案の定こちらを気遣う気配など皆無で、勝手知ったる様子でベッド脇の戸棚を開けている。
流石にハイそうですと黙っているわけにもいかない。未だ外れぬ視線に目を戻し、姿勢を正して口をひらけば。

「梟谷の水泳部でお世話になりました。白河蒼衣とい、」
「泣かされたのか」
「…、!?」

唐突でつっけんどんなバリトンボイスの意味を取るまで2秒かかった。私の目元を見てのことだと理解した時には、柄の悪い訂正が入っていた。

「あたしじゃないっての。人聞きの悪いこと言わないでくんない」
「……」
「なに、随分と物言いたげだね」
「……」

おじいさんの目は私から外れない。姿勢の良い人だ。ぱっと見からして病人らしくないその視線が、先輩の主張の真偽を測るためだとわかったのは、地を這うような声が本格的に臨戦体制に入ったからだ。

「上等だクソジジイ、もう1ヶ月世話になってくか?」
「あっあの!」

本当に、本当に光琉先輩じゃなくて、むしろ私がいきなり勝手に押しかけて。

「泣かせてもらったというか、」

口をついて出た言葉に自分で蹴躓く。先輩が口を噤んだのがわかった。尻切れとんぼになる弁護。
ベッドに腰掛けた病院着が恐ろしく似合わない痩躯の老人は、不意に興味が失せたように呆気なく私から視線を外した。

「光琉」
「…何」
「下の売店に行ってこい」
「頼まれたモンは持ってきたけど?」

おじいさんには答える気も撤回する気もないようだった。引き出しの一番上から出した財布から千円札を抜き取って先輩に差し出す。無言の抵抗は数秒で、先輩は面倒そうなため息と共に受け取った。

「余計なこと言うなよ」

言い残し、病室を出ていく。目的語がないので対象がわからない。私に対しての警告か、はたまたおじいさんへのものなのか。

熊谷さーん、血圧測りますねー。看護師さんの間伸びしたようでテキパキした声が、おじいさんと私の間の沈黙を抜けていく。
静けさに耐えかねて、口を開く。“余計なこと”でなければ、話をするなと言われたわけでもないし。

「…あの、お加減は」
「大事ない」
「突然押しかけてすみません。今日、お見舞いだと知らなくて」
「構わん」

取り付く島もない。なのに、空気だけで「話せ」と言われているのがわかるのはなぜなのか。

「…光琉先輩には、高校の2年間、とてもお世話になって…」
「…」
「けど、宮城におじいちゃんがいらっしゃるのは、初めて知りました」
「アレが家の話をするわけもないからな」

窓辺を眺めていたおじいさんが、ひたり、再び私の方を捉えた。瞬きの乏しい眼差しだった。無関心なようで、何処か試されているような気がした。
返された言葉を咀嚼する。瞬きを二つ、ゆっくり唇を弾き結んだ。そうすれば、探るような、それでいて嫌な感じは全くしない視線が──そう、面白そうに向けられる。

「アレが名前で呼んでいいと言ったのか」

アレ、というのは先輩のことで間違いないだろう。では、名前というのは先輩の?

「…いえ。私が勝手に、そう呼ぶようになりました」
「光琉は何も言わなかったのか」
「特に何も…先輩が名前で呼ばれるのを好きじゃないのは、何となく知ってたんですけど」
「…」
「怒られた覚えもないので、勝手に呼んでます」

えいやとぶっちゃけたが、笑いは取れなかった。ただ、興味深そうにしていた鋭い双眸が、再び静かな検分を帯びるのがわかった。

「水泳部だったか」
「はい」
「いくつ後輩だ」
「一つです」

次の返しには、随分と間があった。

「そうか」

生ぬるい風が吹く。空調の仕業だろう。入院どころか通院さえ経験のない人間からすると窓を開けたいと安直に思うが、室温や衛生のためにもできないのかもしれない。
看護師さんが出ていく。病室にはまた、うっすら澱んだ沈黙が戻ってくる。

“余計なこと“。今舌の上にあるものは余計だろうか。
非日常だからだろうか。今日は言葉が軽い。

「……気難しくて、万人受けする人ではないですけど、すごくいい先輩でした。部内でもバタフライが一番速くて、スタミナもあって」

練習は遅れがちでしたけど、メニューには多分、他の人より真面目でした。プール掃除も結構ちゃんとしてて、ケータイのマナーモードのオンオフなんかもマメでした。勉強は、してるとこ全然見ないのに、大体学年上位にいて…私はこないだまで知らなかったんですけど、一年生の時は進学科にいたって聞いて納得しました。ダウンにバッタ4面泳ぐような人なのに、スタミナからじゃ信じられないくらい偏食で、合宿の食事が嫌そうで。

「周りとはよく揉めただろう」
「時々──割としばしば衝突してました」
「協調性も他人への配慮もないからな」
「それも…今思えば、どっちもどっちな話がほとんどだったと思います」
「そう育つしかなかった」
「…」

見て見ぬふりをして流した話題を、引っ掴んで目の前に戻されたようだった。でも、結局私には否定も肯定もできない言葉だ。
祖父と思しきこの人が知る、先輩の生い立ちを私は知らない。知っていることからしか語れない。

「……どうあっても、本質は、真っ直ぐな人だと思います」

配慮はないかもしれないが、芯の部分で他人に無関心なわけじゃないと思う。干渉はしなくても周りを良く見ている人だ。
冷徹さの裏面には公正があり、大局に阿らない頑固さには通す筋と理屈がある。卑怯で曲がったやり方を蜥蜴のように嫌うのは、真っ当な感性と良心があるからだと思う。

その全部を穏便に表明する手段を選ばず、敵を作ることを何とも思わないスタンスがねじれているだけで、あの人は多分、あの人に対して真っ直ぐな人には、割と結構に真っ直ぐな人なのだ。

「高校時代いろいろあって───光琉先輩だけが、私にとって先輩でいてくれました。今は…今はそうでもなくて、よくしてくれる人がたくさんいますけど」
「…」
「でも、今も、先輩は特別です。すごく感謝しています」
「……アレを慕うには、あまりにまともな優等生だな」
「…どうなんでしょう。最近は特に、方々で変だと言われるので」

褒められていないのはわかったが、気を悪くすることもなかった。むしろこの人が本当に先輩の身内であるのをはっきり意識した。先輩もよくこういう顔でこういう言い方をする。
そもそもおじいさんの総評に照らせば、光琉先輩を慕う私はまともじゃないことになるんだけど、その辺どういう解釈なんだろう。

ぼんやり思っていたら、頭上に衝撃が降ってきた。

「余計なこと話すなっつったろうが」
「あ゛いだ…ッ!」

しかも冷たい。そのまま頭頂部から滑り落ちてきた塊を受け止める。箱型のハーゲンダッシュ、クリスピーなんとかのキャラメル味。

「こういう時だけ無駄に饒舌になりやがって」
「…何が余計とは聞いてません。いただきます」
「年々図太くなるねお前、え?」
「ヤンキーみたいな接尾語使わないでくだふぁい。美味ひいです」
「黙って食ってな泣きっ面」

言いながら先輩がおじいさんに投げ渡したのは黒糖饅頭だった。すぐにフィルムを剥がして頬張っているあたり、この人も相当な自由人の気配がする。一方の先輩は苦々しく眉間に皺を刻んだままぐんぐんヨーグルバーを早々に噛み砕き、私たちが手の中のものを胃袋に納める間に戸棚の衣類や生活用品を紙袋に移し切って空にすると、「明日の10時に退院手続き」と短く言い渡した。お茶を飲んでいたおじいさんが浅く頷く。

「帰るよ」
「、もうですか?」
「用事は終わった。どうせまた明日来るし」

別れの言葉も、また明日の一言もない。さっさと荷物を持って病室を後にする先輩に、慌ててアイスの箱を潰してスポーツバックを担ぐ。おじいさんがゴミ箱を差し出してくれた。

「ごちそうさまでした。突然お邪魔して、よくして下さってありがとうございます。お会いできてよかったです」

先輩の分まで詰め込んで頭を下げる。返される言葉はなく、ただ白刃を埋めたような瞳が、ほんの僅かに緩まった。
それを返事と思って背を向けた。


病院を出た先輩は、相変わらず迷いなくバスのタラップを踏み、さっきと同じ駅に戻って、反対方向のホームに向かう。次の列車は8分後だった。
日が暮れていく。薄く眩い黄昏を背負って、足元から長く伸びた影が単線の線路に落ちている。

「蒼衣」

夕風が吹く。名を呼ばれた。
凝視した真隣で、先輩は普通の顔をしていた。

「晩、何食べたい」
「…、……な」
「?」
「……な…んでも…美味しいものなら何でも…」
「は?美味いのは前提じゃん。…ま、じゃあラーメンでも行くか」

駅近に有名どころかあんだよね。ちょっと並ぶけど、この時間ならマシだろうし。

言いながらスマホを操る先輩の手元をぼんやり眺めていたら列車がやってきた。「餃子も美味いんだよここ」とちょっと機嫌の良さそうな背中にくっついて乗り込んだ車内は、帰宅の時間帯だからか、ラッシュとは言わないまでもそれなりに混雑していた。

スポーツバックを背負った身なのもあり、満席に近い座席には近付かず、自然とドア横のスペースに体を収める。手持ち無沙汰になって眺めた車窓、流れる景色に既視感が湧いた。
高3の夏、先輩方に会いに行った時、先輩のアパートに向かった帰り道。

あの時は赤葦くんと木葉さんが一緒だった。手元にはスーツケースがあって、そのために新調した私服を着て。最寄りのスーパーで、夏なのに鍋の材料を買い込んで、アイスを買い忘れて、それで。

「───…っ」

唇が痙攣したのがわかった。心臓を握り込まれた気持ちになる。どうせなら握り潰してくれれば良いのに、きりきりと、ただ締め上げるばかりで楽にしてくれない。
記憶の中の星空は、いつも美しく瞬いている。

自然乾燥で乾いたパサパサの髪に生乾きのジャージ、着替えとスマホを押し込んだままの草臥れたスポーツバックを見下ろして、不意に、ひどく不意に、馬鹿になった涙腺から涙が一つ滴り落ちた。

過ぎ去った全部の瞬間は、いつだって脆く尊く、途方に暮れるほど二度と戻らない。
刹那の定義を思い知る。不可逆性の残酷さに心が軋む。

頭に手が降ってきた。アイスの箱を、それも角から容赦なくぶつけにきたのと同じとは思えない、乗るだけの手の温度が頭皮に染みた。

声が潰れる。顔が歪む。唇を目一杯噛むのに、情けないほど涙が出る。

「…すみません、」
「いい」

応答は珍しくノータイムで返ってきた。
それが、構わないという意味の「いい」なのか、次に続いた言葉の走りだったのかは、私にはついぞわからない。

その言葉が返ってきた瞬間、飲み下していた嗚咽も涙も全部が決壊したからだ。


「───いい泳ぎだった」


速くなったじゃん、蒼衣。


「…反則だ…!」
「公共交通機関でギャン泣きする方が反則だよ。あたしが泣かせたみたいじゃん」
「だれのっ、せいですかっ!」
「まず五月蝿え外野のバカ共のせいだろ。そんで白河、オマエもオマエでどうせまた平気ぶってやり過ごしてたんだろ。あたしの後輩のクセして一発ぶん殴るくらいの度胸はないわけ?」

無茶言わないで欲しいしそんな後輩特典いらなさすぎる。あと名前か名字どっちで呼ぶか統一してほしい。いややっぱり名前がいい。

乗り降りする乗客の皆様方にギョッとされるなり心配そうにされるなりいっそ微笑ましく眺められるなり、向こう一年分の恥を晒してやっと降り立ったローカル駅。
見覚えのあるこぢんまりとした駅舎の屋根の向こうには、宵を背負った藍染の空が、山際に朱色を残して月を浮かべている。その向こう、民家が並ぶ家並みの反対側には、青々とした稲が夕風に波打っている。耳を撫でる葉擦れが優しくて、瞬いた視界が少しクリアになった。

醤油のいい匂いが漂ってくる。お腹が鳴って、先輩が笑った。こんな時でもお腹は空くのだ。

赤提灯の灯りを背に月を見上げて、淡い眩しさにほっとした。 2年前の星空は、月のない夜だった。



230718
通りすがるDoor;

今年も夏がきました。
この夏のうちに決着をつけたい。

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