噎び泣け、雨雲


合同研究の中間発表は幸いにして、想像よりずっとつつがなく終了した。

土壇場でパワポの代打をこなし、意外な即興力を披露した松原の株を上げつつ、皆のもっぱらの関心は当然、発表を放り出して姿を消した赤葦にあった。

言い残した「会わなきゃいけないヤツ」とは誰なのか。学科の同期か、はたまた他大の恋人か。一周回って男の友情説まで出た。あながちありそうだと一定の支持を受けていたが、勘のいい人間、特に女にはわかる。あれはそういうヤツじゃない。

寸前まで赤葦と話をしていた松原と私には皆からの質問が集まった。だが、ピンクボブの友人が「何あいつ無責任!」と必要以上に怒ってみせ、「あ、ミスったUSB忘れたわ」と言い放って私まで仰天させたパツキンが場の空気を持ち逃げし、話はドサマギでうやむやになった。
ちなみにUSBを忘れたのはガチである。大慌てしてPCをいじくり回し、クラウドの共有ファイルで引っ張ってこれたからよかったものの、一瞬マジでどうなるかと思った。

でも良いショック療法だったと思う。そのプチ騒動の勢いでプレゼンを終えられた。それがなければきっと、動揺を隠せず、切り替えもできず、不特定多数に何がしかを悟られてしまったはずだ。

苦くて重い衝撃と理解は、一度引いた引き潮のように、後からゆっくりと戻ってくる。

「つっかれたー!ねえカフェ行かない?E棟横の」
「賛成。ここ暑すぎ…行くよ宮永」
「、うん」

発表が終わり、合同で飲みに行かないかという話になる雰囲気の中、友人たちがさっさとその場を連れ出してくれたのはありがたかった。
学内カフェの一角、とりあえず頼んだラテとドーナツ。何をいうでもなく流れる沈黙を破ったのは、パツキンのスマホから流れ出した中継音声。

「…これ」

白河さんの出ている大会の中継だ。
パツキンは何も言わない。私の表情の動きをどう拾ったのか、画面を見えるように置く。身を乗り出したツートンボブも、何も言わずに傾聴を始めた。
大会はすでに終盤なのか、それともこの種目?だけがそうなのか詳しくわからないけど、いわゆる予選ではない、決勝が始まるところのようだった。


『──そして今大会200m背泳ぎで注目の関体大の村山菜摘選手。次の五輪出場にあと一歩というところですが、僅差でベテラン・TOMOTAの梶山来海選手に先を越されています』
『学生で最も五輪に近い選手の一人として期待を集めていますね。来年3月に控える国際大会日本代表選手選考会までに弾みをつけたいと話していました』
『予選の同じ組にはジュニアオリンピック王者にも名を連ねた羽田茜選手がいます。それから──次は200mフリー、注目は青翔大の白河蒼衣選手。関東学生選手権、通称関カレで脅威の飛躍を見せました』

スマホの画面がぱっとシーンを切り替える。不意に名指しされた聞き馴染みのある名前、抜かれたカメラが捉えた横顔に、なぜか一瞬息が詰まった。

「ねえ宮永、これこないだの…」

ツートンの声に、画面に向けた目はそのまま、こくり、ただ頷く。次いで反対側、金髪の友人がやけにつまらなそうなトーンで言った。

「で、赤葦が会いに行ったってヤツね」
「え!?…やっぱそうなの宮永!?」
「…どうなんだろうね」

確証はない。今思い返しても、白河さんにそういう素振りは一切なかったから。
私が赤葦の話をするときも、白河さんが赤葦について口にする時も、彼女は至極普通の様子だった。含みも妬みも牽制も、女なら察せるはずの何かを感じ取った記憶はない。
彼女の側はなんとも思っていないのか。いや、抜けているように見えるだけで、あの立ち振る舞いは人の機微に相当聡くなきゃできないはず。じゃあ巧みに隠していた?…いや、そういうタイプにも思えない。

でも結局、少なくとも、赤葦の側には何かあるのだ。確証がなくても確信できる。

(…なるほどね)

距離が遠かったとは思わない。他の女子より気さくに喋っていたと思う。レジュメの貸し借りとか、代返とか、行き合えばお昼を一緒に食べることもあった。
でもそれだけだ。放課後遊びに行くことも、食事に誘われることも、業務連絡以外の話でメッセージが続くこともなかった。コールバックが返ってくることも、踏み込んで何があったのかと問われることも、あるいは自身の内側について語ってくれることも。

思い返すどの親切にも、同期に対する当然の気遣いとかごく普通の親しみ以上の温度はない。
赤葦は一度たりとも、線引きを間違えたりしなかった。気のある振りをして弄んだとは決して糾弾できない完璧さで。

だからこそ、それでも一番近しいのは自分だと、どこかで理解していた線に気づかない振りをして、自惚れていた自分が尚更惨めで恥ずかしい。


『──白河選手と言えば、200フリーでベストタイムを約8秒更新。その後の100mフリー、これはメドレーリレーのものですが、大会新に迫るタイムが出ています』

じくじくと膿んで沈む思考が、ふと画面に引き寄せられた。解説に合わせてだろう、カメラは彼女の姿を捉えていた。
白河さんは平然として───いや、どうだろう。
…どうだとも言えない、私には説明できない顔をしているように見える。

不意に胸をぐっと押し込まれたように感じた。検索結果に出てきたネット記事の断片が頭の中に散らかって、飛び散ったガラス片みたいにチカチカし始める。

(…一度ネットに出回ったものは、基本的に一生消せない)

あのネット記事を、彼女も読んだんだろうか。根も葉もなく噂され、詮索され、嘲笑と好奇の、あの舐め回すような視線に晒されたんだろうか。…彼女の場合じゃ、嘲笑より非難かもしれないけれど。

私の経験だって相当クズだ。限りなく犯罪に近いケースだったと思うし、多分、悪質さなら勝てると思う。いや勝つ意味なんか一切ないけど。
でも、実名報道でネットニュースになるような、そんな経験はしていない。

白河さんは淡々と準備を進めていた。そこにあるのは、一切を遮断したような──いや、取り落としてきたような、茫洋として、温度のない無表情。

『…武本さん、このタイムについて、一部では先月のxxx界隈でのドーピング事件に結びつける報道もあるようですが…』
『いやあ、それはないでしょう』

話を続けるアナウンサーの言葉を、有識者らしき解説の男が快活に遮った。アナウンサーはとりなすように「身体検査はもちろん問題なかったようですしね」と応じる。
武本と呼ばれた有識者は明るい調子で、だがどこか釘を刺すように論じた。

『僕に言わせれば、その報道元もそれを信じる人も、スポーツ界における禁止薬物の使用についてまるで無知ですね。ドーピングじゃあんなタイムの動き方はしませんよ。やるならもっと周到で巧妙にする。少なくとも、もうちょっと上手に記録を伸ばすでしょう』
『それはそうですね…』
『あの伸び、特に後半ですが、あれは1980年の───おっと、始まりますね』

画面が再び切り替わった。プール全体を映すカメラワーク。水着に身を包んだ選手たちが各々飛び込み台の前へ進み出て、肩を回したり、ゴーグルをしっかり目にはめ込んだりしている。レースが始まろうとしているらしい。

白河さんは2コースで泳ぐようだった。いつか見たのと同じ、黒に銀灰色の稲妻が走った水着に、鈍い光沢を帯びたグレーのキャップを被っている。その体躯はしなやかだが、他の選手と並ぶと小柄で線が細い。
ミラー仕様のブルーのゴーグルを嵌めた後は、首を回すでも屈伸するでもない、ただ水面の方に顔を向けて佇んでいる。

彼女は今、何を考えているんだろう。
見たことのない顔をした赤葦が、プレゼンを放り出し、今すぐ会わなきゃいけないと言い切ってその元へ向かっているこの瞬間、何を。

画面の中の会場は静まり返っている。マイクが拾わない審判か誰かの声がして、選手たちが飛び込み台に上がる。

『SET』

無機質な機械音が告げた。数秒に満たない空白。思わず息を止め──銃声ではなく、やはり機械音声の号砲を受け、選手たちが水面へ飛び出す。

レースはあっという間だった。
鮮烈で、圧倒的で、感傷全てを脇に置くどころか一旦吹っ飛ばして飲み込むような、衝撃の2分弱だった。



















水が軽い。

体温と水温の境目が溶けて曖昧になっていく。伸ばす腕がふわふわして、蹴る脚に重みがない。

呼吸が浅くなる。苦しくはない。上がる心拍、駆け巡る血潮が熱を持ち、息継ぎのたびに送り込まれる酸素を肺胞から一粒残らず吸い上げる。少し前にお腹に入れたウィダーが空っぽになって、無駄なく筋肉で燃焼する感覚。

(速く)

腕のひとかき、次のストロークが壁に辿り着くまでの距離を、本能が直に測り出している。指先から付け根までの手のひら半分ぶんの微調整。頭を突っ込み一回転、壁を蹴って折り返す。

(もっとはやく)

揃えた脚をうねらせる。突き破った水面では飛沫と喧騒の断片がどこか遠く踊っていた。
思考が身体の支配権を手放し、脊髄が主導権を握る感覚。全身の神経が一本につながって、ただ水を駆ることだけに集約されていく。

(───良い)

全身の細胞が歓んでいる。水と一つになれることを、泳ぐために削り出されることを、あるいは他の何かを。…何を?何をだろう。わからない。どうでもいい。そう、どうでもいいのだ。


ただずっと、このままずっと、どこまでも。

溶け出すほどの疾さで、見失うほど透明に、






ワッ、とも、ドッ、ともつかない響めき。


糸が切れた。
その音を、身体の内側から聞いたと思った。

壁に触れた手、ついでターンしようと翻って壁に向かった両の足裏を、脹脛が引き攣るほどに縫い付ける。相反する命令を同時に遂行しようとした脚に、鈍く重い衝撃が走った。

脊髄が放り出した体の支配権を、脳味噌が拾い損ねて取り零す。突然ヒューズの飛んだ家電みたいに、ブラックアウトした四肢が水に沈んだ。
あの時と同じだ。距離を数えていなかった。でもなぜ?なぜ止めなきゃ、…いや、そうだ、これは大会で。

思い出したように肺が狭窄し、死んでいたはずの心臓が冷たく脈打ち出す。水を飲みかけ、咄嗟に唇を引き結んだ。微かに痛む足を蹴り、水面へ顔を出しコースロープにつかまる。

水の抜けない鼓膜の向こうで、響めきに空気が揺れる。先輩が電光掲示板を指差して叫んでいた。よくわからないまま目で追った。赤く点灯する数字。

第2コース、1.58.79。

「───…?」

耳の奥がぼやりと滲んで、生暖かい水が抜けていくのがわかった。振動が虚空を打つ。脳みそが揺れている。
呼びかけられ、惰性だけで水から上がった。水の中よりも体が不自由なのはなぜだろう。手脚の力が入らずふらついている。おかしい、そんなに疲れていないのに。

「白河!お前すごいぞ、」
「おい見たか今の追い上げ」
「大会記録手前だ…」

湿度の高い会場の熱気を感じるはずなのに、濡れた背中が急速に冷えていく。光線のように降り注ぐ何かが、肌の上を這い、全身を刺した。
体を貫く無数の矢。それが視線だと理解する。猜疑、驚愕、感嘆、敵愾。分類のできないそれが少しずつ、嵩を増して押し寄せる波になっていく。

吸う息が浅い。水の中よりよほど苦しく。あれほど静かだったはずの心臓が、狂ったように音を立てて叫んでいる。
歓喜か、絶望か、その両方にか。

これはなんだ。───いいや、知っている。
本能の攫んだ理解を前に、全身が総毛立つ。

(そうだ、これが)
これが“本来”だ。

会場を揺らすような響めきと興奮、沸騰しそうな熱、栄光、ぎらつく競争心、突き刺さる詮索、心臓を握り潰すほどの昂揚。

めざましく、煌びやかで、輝かしく───刺々しく熾烈で、凍えるほど息苦しい。

促されるまま引き上げる道のり、濡れた足を滑らせながら、回らない首が縋るように捻れた。滑りの悪い眼球が会場の有象無象をなぞる。
フラッシュ、スマホ、視線と声。
見つからない。繋がらない。

柔らかな猫っ毛、日に焼けない肌、薄墨色の静かな瞳。
そのどれをも見つけられない視界が、真っ暗な帷に覆われる。

(──当たり前だ)

いるはずがない。ずっとそうだったろう。
ここは私の世界だからだ。


彼の立つコートに、私が決して立つことがないのと同じように。


「白河何してんの、あんた向こうでインタビュー…、?」

興奮気味だった女子主将の顔が奇妙に揺れている。髪から滴り肌を伝う水が、体温を吸って生温く澱んでいく。さっきまで一つになるほど馴染んでいたはずのそれが、まるで知らない物質のようで怖気が立った。

喉がひくりと戦慄いた。体が震えている。
切り絶たれていた。気づいたのが今なだけで、いつからかわからないほどずっと前から。

ひとりだ。今度こそ、絶望的に。


せんぱい。

口にしようとして──したのかもしれない、主将が答えてくれたから──脳裏に閃く、傷んだ茶髪。


光琉先輩。










「えっ篠崎来てるの?」

「──、」


パタ。

滴る水滴で両目が滲んだ。顔を上げ、麻痺して動かない瞼が軋むように瞬く。
カルキで滲みる視界の先、聞き覚えのある声の主は、心底驚いた顔をして私のことを見つめていた。

先輩だ──バイト先の。一つ上で、同じ梟谷で、光琉先輩と懇意で、文系ながら数学担当の。

「あいつ今日、所用で棄権するって聞いたんだけど…あ、もしかして蒼衣ちゃんの応援に来たとか?」
「…、……」
「…ってわけじゃ、流石にないのか…?えーと?」

予備校で見るスーツ姿に似た空気の、シンプルなパンツと淡いブラウス。その先輩の隣には短い黒髪の、飾り気のない長身の青年が佇んでいた。知らない人だった。

からからの喉をこじ開けて、張り付く舌を引き剥がす。捻り出した声はがたがただった。

「…せんぱい、来てるんですか」
「え、いや、来てないんじゃないかな…?私も応援するつもりだったんだけど、なんかおじいちゃんの退院日がどうとかで棄権したって」

でも私、蒼衣ちゃんは出るって聞いたし、せっかくだから見ていこうって思って。

「……えーと、連絡しようか?」

やや混乱気味に話していた言葉が途切れて、伺うようにそう問われた。頭が動いていない。間にすれば数秒もなかった。それ以上あったらきっと、主将たちに言われてミックスゾーンに向かっていただろう。

「それ、宮城のお前のダチか」

そうならなかったのは、先輩の隣でじっと黙っていた精悍な青年が唐突に口を開いたからだ。

「うん、例の…この子の先輩でもあるんだけど」
「こっちにはいねえんだな」
「そう聞いたよ。なんか急に棄権することになったって」
「で、こいつはあの塾の後輩か」
「そうだけど──」

「会いてえのか」

淡々として飾らない口調の、最後の問いは私へのものだった。意志の強そうな顔立ちの、物柔らかとは言えない猫目が、初対面らしからぬ直球さで問う。

言葉は枯れていた。役立たずの唇が結んだままひくつくのがわかった。
それでも、名前も尋ねていない彼には、それで十分のようだった。


「なら、バイト先に行ってみろ」


バイト先。…バイト先?

「…は!?」

動かない頭をぼうっとさせていたら、先輩が目を剥いて青年を見上げた。その大声に周囲の視線が集まる。先輩は慌てて声を顰めるが、青年はお構いなしのようだった。

「ちょっ…とハジメ何言ってんの!?まさかきみ、あの扉を…!」
「運が良けりゃそこで会えるだろ」
「バカ言わないで、うっかり開いたらどこ繋がるかもわかんないのに…!」
「そいつはお前のダチでワケも知ってて、こいつはお前ら二人の後輩なんだろ。そんで行き先が宮城なら、どうかすりゃ行けんじゃねえか」
「…!?……!!?」

代名詞が多すぎる会話の内容はよく掴めない。ただ、先輩が絶句しているのはわかった。

「…とんだ暴論だ、いっぺん繋がりゃOKとかシナプスでも無茶振りだよ!大体蒼衣ちゃんはあの扉のことは何も、」
「知らねえ方がむしろ安全じゃねえの」
「…、…いやダメだ、どうかして向こうが3年前とか笑えない。蒼衣ちゃん普通に新幹線乗んな、今からネットで席取ってあげるから」
「試すだけならタダだ。無理なら最寄りから品川かどっかまで出て、新幹線に乗りゃあいい」

青年があっさり言う。素っ気なくフラットで、他人事だが突き放さない。
もはや二の句もつげない先輩に構うことなく、夏前、磨き上げたばかりのそこに水を満たしたプールのように。

底まで透き通る強い双眸が、物言わぬ私へひとつ瞬く。
一等星に似た光を湛え、挑むように、試すように和らぎながら。


「会いてえんだろ、どうしても」

































陽炎に蝉時雨が降り頻っている。

鼓膜を引っ切りなしに打つ大合唱が、茹だるほどの暑さに煮える空気に充満する。赤色灯を明滅させてけたたましく鳴りっぱなしの警報器、その先の線路を電車が通過する気配はまだない。
ここはいつもそうだった。駅まで最寄りの抜け道で、人通りも少ない小道のくせして、遮断機だけが無駄に早く降りる。

キャップの作る影が及ばぬ頬を灼く陽は痛いほどで、女はじっとりと汗ばむ額の生え際を押し潰すように、目元のつばを引き下げた。その代わりに、日に弱い肌を庇うアームカバーがずり落ちてうんざりする。
使い古しのクロスバイクのグリップは汗以外の何かでべた付いていて、さっきから変速がどうもスムーズにいかない。苛々するのも億劫で、全部無視してこめかみを伝う汗を拭った。

遠くようやくこだまする、線路を駆る車輪と汽笛の音。熱風に近い風が吹く。走行音が増す寸前、ジーンズの尻でスマホが震えた。立て続けに3度、間隔的にはメッセージアプリ。

一切合切面倒になる酷暑の中、熱を持った液晶を取り出したのは、このタイミングで連絡を寄越して来る相手に思い当たりがあったからだ。

数十分前まで観ていた中継。
そこで目を見張るような追い上げの末、大会新に迫るタイムを叩き出した後輩の、

「…あ?」

ゴウッ。

重い車輌の駆け抜ける轟音が、柄の悪い感嘆詞を掻き消した。浮かんだアイコンは、思い当たった後輩のものではない。

その後輩がどういうわけか同じバイト先で塾講師をしている、女の高校時代の同期の名だ。
トーク画面には短い吹き出しが忙しく並んでいた。

『ごめん篠崎』
『気づいたら連絡して』
『私じゃなく蒼衣ちゃんに』

既読が付いたのをリアルタイムで見ているのだろう。画面の向こうから慌ただしく追加の添付が飛んでくる。

『連絡つかなかったら駅前のここ』

カンカンカンカン。

突風を残して過ぎ去っていく列車、鳴り止む警報器。
女はスマホを仕舞いペダルを踏み込むのではなく、数秒無言でその画面を見下ろしていた。

お世辞にも決して良いとは言えない目つきが、見る間に険しく胡乱げになる。眉間に遠慮ない皺を刻んで、女は通話ボタンを押した。

『──っもしもし、』


つながるなり言い放つ。


「“聞き取れない“」

『──!』


問答無用、2秒で切る。
あの生真面目で気の小さい同期には通じたはずだ。秒速のコールバックを無視し、マナーモードに切り替える。今度こそスマホを尻ポッケに押し込んだ。ようやく遮断機を持ち上げた踏切を渡ることなく背を向ける。

女はチェーンの緩んだクロスバイクの、草臥れたペダルを力任せに踏み込んだ。
駅前は目と鼻の先だ。ただし、爪先を向けたのはそこじゃない。

もっとローカル線の、普通電車しか停まらない寂れた駅。だが、近隣の高校からはそう遠くない。
部活終わりの学生が、塾に通うにも無理のない通学圏内。


女には当たりがついている。
かつて切羽詰まった同期が寄越した電話の向こう、繰り返される学校名が水中にいるように不明瞭だった時のように。


例え、送られてきた地図らしきスクリーンショットが、鉛筆で塗りつぶしたように解読不能にされていても。

今の女は、“青葉城西高校”の名前と位置を知っている。



熱波に人気の失せた一本道を駆け抜ける。古びた駅ビル群から妙な距離のある駅舎の色褪せた青い屋根は、ものの15分で視界に入った。
制動力の良すぎるブレーキが後輪をロックした。すり減ったタイヤは軽くドリフトし、こちらも古びたアスファルトを荒く滑る。

改札からホームまでが一直線に抜けた簡素な駅。年季の入った券売機と黄ばんだ路線図、破れかかった時刻表。その奥、ホームを駆け抜ける通過車輌。


「───……、」


女は黙って手首を返した。腕時計の盤面を確認する。
東京の辰巳国際水泳場で、200mフリー決勝が行われてから、1時間も経過していない。

東北は宮城、飛行機でさえ辿り着くには早すぎるその地方駅の片隅。

焼けたアスファルトに影を落とし、髪から滴る水滴で肩口の色を変えながら、一つ下の後輩が、陽炎に呑まれそうに立っている。



女───篠崎光琉は、何も言わずにクロスバイクのスタンドを降ろした。

踵の減ったスニーカーがそっけなく歩み寄る。水着にジャージを纏っただけの後輩は、この炎天下に関わらず色のない唇をかすかに戦慄かせた。

真っ暗な瞳が篠崎を映す。途方に暮れ、混乱した、決壊寸前の無表情。
口が開いて、瞬時に閉じる。そこから溢れ出ようとした何かを、咄嗟に押し止めるように。

瞬きの余裕もなく立ち尽くす蒼衣の眼前に、徐に篠崎が手を伸ばす。
迫る影に蒼衣が身を引くより早く、濡れた前髪を張り付けた額を、篠崎の中指が思い切り弾いた。

容赦のないデコピン。

「…!」

咄嗟の痛みに顔が歪んだのも一瞬。
それを放った無表情が、傷んだ茶髪の下、しょうがないと言わんばかりの呆れ顔に変わるのを見て。

蒼衣の両目の縁を乗り越え、大粒の涙が転がり落ちた。


蝉時雨に打たれ、陽炎に灼かれ、通過する列車の風圧に煽られて、矢も盾もたまらず泣き出した後輩の、日に晒されて中途半端に乾いた頭に左肩を貸しながら。

カルキと塩水でシャツを濡らし、耳朶を打つ痛々しい嗚咽で鼓膜を満たして、篠崎はただじっと、炎天下の路面に落ちる二人分の影を見つめていた。




230404
通りすがるDoor; again。
ここまでが…長かった…。

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