忍び寄れ、雷雲

(…思ってたより早くきたな)

第二セットも終盤、21−23の2点ビハインドで取ったタイムアウト。デュースに持ち込まれると面倒だ、と思うのは第二セットから投入された向こうのスロースターターのレフトがノってきたのと、じわり、熱を持ち始めた左肘の両方ゆえ。

アイシングを取る手に感じる視線。逆らわずに応じれば、監督の静かな瞳が無言で問うてくる。チームメイトたちからの微かな注目はそのままに、自分で進み出て告げる。

「この試合はいけます」

数秒置いた監督が黙ったまま短く頷いた。そこにはGOサインとともに、このセットを取れなければ降ろすという選択も含まれる。こちらもそれは心得ているので、特に言葉にすることはない。

冷静ながら声を張る時は張る、しっかり体育会系だった闇路監督とは毛色を異にする、寡黙で表情に乏しい監督だ。だが選手を見透かす眼という意味では同種のものを備えていると思う。同時にオーバーワークには厳しい。

基本的にサブで使われる俺がスタメンに繰り上がったのは、本来出場を予定していた正セッターの上回生がリーグ戦前の練習試合で捻挫したアクシデントゆえだ。
そうでもなければ、様子見の故障を抱えた2回生をおっかなびっくり使う理由がない。



左肘の靭帯をやったのは、高校三年の春高後だ。

高校最後の試合のホイッスルを待ち構えたかのような、あまりに都合の良いタイミングでの故障だった。予期どころか予兆もなく痛み出したそれに、医者も首を傾げていたほどだ。

思ったよりショックは受けなかった。どうしても手術が必要なほどではなかったし、何より春高を終えた後のことだったから。引退から受験、入学までの数ヶ月も、通院と療養にちょうど良い期間になった。

ただ、大学での練習は当然ながら高校でのそれよりずっと厳しい。一時は鳴りを潜めていた痛みがぶり返し、じわじわと慢性化し始めたのは一回生の秋頃だ。
入部時点で通院の事実は隠さなかったし、入部後もオーバーワークをしたつもりもない。それでも、引き抜きに応じる形で──推薦ではない非公式に近いスカウトだったが──入学した手前、自分でも無意識に無理を強いていたかもしれない。

極限まで削り出した身体の綻びに、選手としての寿命を見る。

才能の天井を見る時の失意と屈辱には及ばない、静かで決定的な絶望感。寄せては返す波のように心臓を侵食する諦念を飼い慣らし、ままならない身体と折り合いをつけるのには時間が要った。いや、今もまだ完全な過去形にはできない。
それでも、

「───、」

タイムアウトの終わりを告げるホイッスルが鳴る。アイシングを置いてコートに戻った。
決着寸前の緊迫と昂揚感が、じわじわと肘を喰っていた鈍い熱を吹き払う。

腹の底から熱が噴き上がる。アドレナリンが一番の特効薬だ。
結局はここから、鳴るコートと唸る風音、アタッカーを翔ばす瞬間から離れられない。

ホイッスルが鳴る。相手サーブ。ジャンフロを捌いたレシーバーからレフト寄りの高いボールが返ってくる。アタッカーは左右の2枚、バックに1枚。ネットの向こうの壁は3枚。
視線一つ、レフトのエースに上半身だけ傾ける。壁を引き付け、姿勢を戻して、待ち構えるライトへ長くて速いロングトス。
伸ばし切った肘が微かに軋む。不思議なほどに痛みは感じなかった。

助走に入っていたライトが床を踏み締める。一瞬の間を空け、跳躍。


「───翔べ」


“この試合はいける“。
本音は別だ。

もとよりこの場所を譲る気がないのだ。












(…悪うない)

例えば烏野の影山のような、精密機械じみた天賦の才能を感じるわけではない。あるいは、自身の片割れのようなプロに手の届く習熟した練度も。

だが視野は広い。堅牢な冷静さと自制、かと思えば肝の据わった好戦的なトスを繰り出す度胸もある。
よく言えば無邪気、行き過ぎると気性が激しい侑とは対照的なようでいて、しかし似た匂いのする戦闘本能とスパイカーへの徹底した献身。ただし、

「俺よりはヘタやな」
「…みたいな傲慢は言わんのやろな、赤葦クンは」
「事実やろ」

平然と言ってのける片割れに治は反論しなかった。異論はない。身内の贔屓目を抜きにしても十分に侑の方が優っている───セッターとしての実力については。

「お前何しに来てん、次試合やろ下戻れや」
「次はベンチやもーん」
「下げられたんか。ダッサ」
「ちゃうわボケ!調整中の先輩がおんねや」
「へえ」
「お前こそ店ほっぽっててええんか。そんな注目株の試合でもないやろ」
「…」

治は答えず、進行する試合を見下ろした。シーソーゲームが続いている。星英が1点リードの21−20。どちらも流れを渡さない粘りの展開だ。ただ侑の言う通り、優勝争いに絡むかと言えば微妙なラインの対戦カードである。行ってベスト16か、番狂わせでもベスト8。

でも、翠にとって重要なのはバレー選手としての実力ではない。
その当たり前の常識が面白くない。子どもじみているとわかっていても。


不意に妙な沈黙が流れるのを察した。
感傷の浅瀬に浸っていた思考が引き揚げられる。侑が何かを言おうとしているのを察し、治は視線はそのままに、ギャラリー席の手すりに預けていた上半身をゆっくり起こした。

翠の件について、治は侑とあれ以来何も話していない。治は殴ったことを謝らなかったし、侑も蒸し返すことはしなかった。
だから多分、今のこれは、それについての何がしかだ。

治が察しているということには当然ながら侑も気づいている。治同様、頑なに眼下のコートを睨みつけたまま、侑は硬い声で口火を切った。

決定事項よろしく、いっそ憮然とした頑なさで告げられたその突拍子もない内容に、十分身構えていたつもりの治はしかし、コートに突き刺していた視線を思わず引き剥がすことになった。

「──はあ…!?」

おまえ、それ一体どういう。

追及すべく喉を割らんとした声はしかし、鳴り響くホイッスルに呑まれて消えた。

双子ならではの綺麗なユニゾンで揃って見下ろす先、会場は僅かに波立っていた。その視線とざわつきの先には、コート外をてんてんと転がっていく三色のボールと、涼しげな横顔に汗を伝わせながら、ゆっくりと片肘に手を伸ばす件のセッター。

試合終了ではない。それどころか、展開は2点差を争うデュースの場面だ。
その佳境で、ナンバープレートを片手に立つ選手が、ベンチからの選手交代を告げている。

2人の視力はその番号を過たずに確認した。17番───赤葦がゆっくりと進み出る。
戦略的交代ではない。明らかに不自然なタイミングだ。ここで赤葦を引っ込めるゲーム的な理由がない。

(だとすれば、)

考えが中断する。治の注意は不意に、視界の観客席に捉えた動きに引かれていた。

試合を観戦していた誰もが急な選手交代にざわつき、首を伸ばしたり顔を見合わせたりする中、弾かれたように席を立つ人影。
連れらしき女が呼ぶのを気に留めず、客席の間の階段を4、5段まとめて飛び降り、しがみついた手すりから眼下を凝視し数秒。人影は身を翻してギャラリーの出口へと駆けていく。

白河蒼衣。

「──…、」

見たことのない顔だった。“何でも平気”を外しても揺らがなかったあの、当たり障りのない常温をかなぐり捨てた動揺と切迫。

治は一瞬迷った。侑の口から出た寝耳に水の急展開は絶対に問い質す必要がある。だが、心のもう半分は別の方向にも引っ張られていた。

「ツム」
「な、なんや」
「それ、今日の話か」
「いや、さすがにそんな急ちゃうけど…」
「まだ日も決まってないんやな」
「おん…何やいきなり」

ならばこの件は後回しだ。どうせあの人が間に入ってくれるなら、後で直接連絡した方がいい。
治は瞬時に頭を切り替えた。翠の一件は別にして、元来優柔不断な気質ではないのである。

「ほな日取りは一旦保留しろ。ええな」
「は?ちょ、おい!どういうことやねんサム!」

治は侑を残し、自らもギャラリーの出口に向かって踵を返した。廊下を回って階段へ、長い脚を存分に活かし、2段飛ばしで下へ向かう。


電話越しの悄気た声が耳元に蘇る。
振り返れば布石はこれまでにもあって、でも今はっきり確信の糸が繋がった。

あの男が、蒼衣のアキレスなのだ。


翠に関する一件を脇に置いても蒼衣の足取りを追う自分の心理に、治は説明をつけられない。蒼衣に対する感情は、翠へのそれとは全くの別物だ。ままならなさのレベルで言えば翠の方が天井知らずである。

ただあえて言うなら、蒼衣との間には時間がある。
隣り合うでも、まして舐め合うでもなく、互いの傷を晒した短い時間が横たわっている。

逸る脚と心臓はきっと、蒼衣が隠さなかった傷跡の行く末を案じているのだ。











「よお」
「…黒尾さん?」

芸術的に逆立った黒髪、猫背で落とした頭から上目に寄越してくる視線。
一瞬人物を捕捉できなかったのは多分、薄青を基調にしたジャージが記憶の中の真紅に馴染まなかったせいだ。

挨拶程度に浮かんだ口元の食えない笑みが引っ込み、静かな視線だけが残るのを見て内心苦笑する。他校の、それも卒業して二年にもなるのだが──自分は今もこの目敏い面倒見の良さの保護圏内にいるらしい。

「肘か」
「アイシングで済む程度っスよ」
「あの場面で引っ込められといて?」
「うちの監督は慎重派なんです」

言葉遊びのような探り合い。薄く笑んで茶化す俺に、しかし黒尾さんは真顔を崩さなかった。
大概を適当に見せて、その実思慮も情も深い人だ。本当に心配してくれているのがわかるから、俺もはぐらかすのをやめる。

「春高後に靭帯を。そこからはまあ、騙し騙し」
「手術は?」
「そこまで大事じゃないんで」
「ちゃんと治らねえぞ。慢性化したらどうすんだ」
「俺は別に、プロになる選手でもないですから」

黒尾さんがつと口を噤んだ。今はジャージに身を包むこの人が、しかし選手としてのキャリアを望んでいるわけではないことはある程度聞き及んでいる。
だからというのもあるだろうし、選手であり続けることだけを成功と呼ぶのでないことを当然のことと理解しているからでもあるだろう。
黒尾さんはただ「そうか」とだけ言った。その一言が労いであることが伝わってくるから、俺は浅く頭を下げる。

プロになる選手でもない。
その辺はわりと割り切っている。自分の才能を水増しするタイプじゃないし、何より真にプロたり得る選手──言わずもがな木兎さんのことだが──と同じコートに2年も立っていれば、理解も実感も容易いことだ。
そしてそれを受け入れていることが、今立つコートへのモチベーション、プレーへの熱量を失わせるわけでもない。早い話、「プロになれそうもないからやる気を失う」なんてことはないのだ。
ただ俺に、大きな故障の経験はない。

技術や才覚以外の理由で思うようにプレーできない、最も理不尽でやむを得ない物理的なもどかしさ。その中で幕引きを迎えることを思う時、軋まない心がないわけじゃない。指先に残るボールの感覚と体の芯に巣食う熱がある限りは、多分ずっと。

でもきっと、そこも上手に折り合いをつけていける確信もあった。元来そういうのが得意なタイプだというのもあるし、単純に、“ずっと“も“永遠“も存在しないなんてことは十代後半にもなればわかってくることだから。

部活の終点、路線の終わり。卒業はさながら改札のようだ。どんな幕切れであれ、いずれ乗り換え先を考えないといけないことに変わりはない───そうわかっていて、


「赤葦くん!」

飛び込んできた瞳の、迸る声の必死さに、思わず言葉を失ってしまったのはそのせいだ。


「腕っ…肘…!?」

疾走と急停止の勢いで乱れる短い髪の下、強張った面持ちに一瞬気圧される。
返事を待たず俺の左肘へ走った視線が、再びこちらを見据えて強張るのがわかった。
白河。

なんで、に一瞬染められて半ば呆気に取られていた俺の頭に、ゆっくりと冷静が戻ってくる。初めの驚きを仕舞い、事態を注視することにしたらしい黒尾さんの視線には気づいていたし、返す言葉は彼に対してのものとほとんど変わらないのに。

木兎さんに向けて困ったように笑う顔、差し出すビニール袋の小さな手。
頭から締め出し損ねた映像が、冷静にしたいだけの声の温度を低くする。

「アイシングで済む程度だよ」
「いつから、」
「三年の春高後」
「…、……治る?」
「そのうちには」

切るように返している自覚はあった。声を和らげられる気はしなかった。
咀嚼し、飲み込み、削り落として言葉を選ぶ、よく知るはずの白河の慎重さが、今は無性に癇に障る。

「…そのうち?」

切れた息を整え、滲んだ汗をそのままに、問いただす声の揺れには気づいていた。
顔は見ていなかった。

「バレーをやめれば、それ以上悪化しないから」

大学の間続ける分には付き合えるレベルだし、それも無理だったとしても、その後の生活に支障が出るものじゃない。

そんなことを付け加えたと思う。思う、なんて曖昧な言い方をするのは、自分の台詞はっきり覚えていないからだ。

途絶えた返答、余りに長引く沈黙に、怪訝に思って顔を上げて。

「……白河?」

白河は立ち尽くしていた。

失望でも、まして軽蔑でもく、ただひどく愕然と。
まるで思いもしなかった方向から殴打されたような衝撃と───


「あ、いたいた」

カサリ、ビニール袋が揺れる音。
控え室を出てすぐの廊下、角から顔を覗かせたアッシュの髪に、思わず肩を揺らして振り返る。

「おつかれ、赤葦。いい試合……あれ、白河さん?」

目があったのはグレーの瞳が、きょとり、周囲を見渡し怪訝に瞬く。宮永翠。
長いまつ毛、サマーニット、視線のグレーがカラコンで、戸惑った様子でその場を見渡した彼女が遠慮がちに持ち上げて見せたのが、白河が木兎さんへ差し出していたのと同じビニール袋だと気づいたのは、その数秒後のことだった。

「えーと、これ、差し入れにって思って探してたんだけど……」

尻すぼんでいく宮永さんの言葉が途切れるより早く、背後の気配が動くのがわかった。
振り向いた先、言葉もなく、白河の背が翻る。

顔は見えなかった。会話を結ばず、まして挨拶もなしに立ち去ることなど滅多とない彼女の背が、響かないスニーカーの靴音とともに、雑踏の中に消えていく。
瞼の残像が、不思議と網膜に突き刺さる。

「…ごめん、私、なんかまずいとこに来た?」
「……いや」

気まずさを滲ませた宮永さんの声に、俺は曖昧に言葉を濁した。

そうして不意に気がついた。切り離された断絶。
白河の愕然と衝撃に滲んでいたのは、断崖にひとり取り残されたよう心もとなさ。

「…赤葦?」

宮永さんに言葉を返す余裕はなかった。心臓が騒いでいる。

「いいのか」
「……」

最後まで沈黙の第三者を貫いていた黒尾さんの、温度の読めない静かな問いが胸騒ぎに拍車をかける。

冷たい理解が血管をゆっくりと巡っていく。
何かを間違えた。それだけは直感で理解した。
くだらない意地に言葉を委ねたせいで、俺はまた何かを間違えたのだ。


220703
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 

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