レンブラント・ブルー




耳朶を打つ不規則なボールの打突音が心地良い。

サロンパスと汗の匂いが熱気と共に充満した高い天井を見上げる。網膜を焼くような光源に目を細めた。熱気という意味では大学の室内プールと同じだが、カルキと水音とは根本的に趣を異にする。それを懐かしく思うのは、細胞に名残る梟谷の体育館の記憶だろう。

目当ての人物は簡単に見つかった。長身揃いの選手たちの中にあってもあの存在感は薄れない。声の大きさと頭髪の色が目立つというのもあるけれど。

ストレートで勝ち上がった試合の終わり、休憩に引き上げてくるタイミングを見計らい、コート近くの出口を狙ったのは正解だった。木兎さんはタオルで汗を拭いながら、チームメイトと興奮気味に話しながら出てくるところだった。

「木兎さん」
「あ?あれ、白河じゃん!観にきてたんだな!」
「第二セットの18点目、めちゃくちゃキマってましたね」
「見たか!?俺もうあん時超キてたんだよ!」
「会場大盛り上がりでしたよ」
「だろだろ!」
「あー後輩ちゃんあんまおだてないでよ、第三セットで3本ドシャット食って不貞腐れてたんだから」
「うっ、持ち直したんだからいいだろー!」

通りすがりのチームメイトさんたちが笑って言い残していく。去っていく先は観客席だろうか。貴重なクールダウンの時間だ、引き止めては悪い。私は木兎さんを呼び、提げてきたビニール袋の、片方を差し出した。

「これ、差し入れに」
「えっマジで!?さっすが白河、ちょうど今購買行こうとしてたんだよな!」
「この時間だし、次一試合空くなら、食べるなら今かなって」
「おお、おにぎりか!」
「うちの大学が、よそと共同で出してるお店のなんです。下のはお惣菜」
「ええ、ほうれん草…」
「食物繊維とビタミンです」
「赤葦みたいなこと言う…」

思わず苦笑がもれた。そういう木兎さんは小学生みたいなことを言う。

「代わりにおにぎりは牛カルビとネギトロ、明太子にしました」
「美味そう! 白河のは?」
「高菜と昆布とシャケです。あ、どれかいりますか?」
「いや、俺も間食だし3つで十分!つーかそれ、白河の昼だろ?」
「ああ…いえ、お昼はもう食べてて。おやつに3つは欲張りました」
「ふうん…」

言葉を切った木兎さんが、無言のうちに私の手中のビニール袋を見つめる。
ぱち、と瞬いた琥珀色の瞳は、予備動作なく私を捕らえた。

「それ、赤葦に持ってくやつじゃねえの?」

瞬間的に予期したものの、身構えた甲斐もなく言葉に窮した。
側で聞けばなんの脈絡もない突然の会話の飛躍だ。でも私には、木兎さんがそこに辿り着く思考のプロセスを、朧げなりとも掴めてしまう。

私の胃袋のおやつには明らかに多い3つのおにぎり。高校時代、赤葦くんが好んで選んだ具のラインナップ。

赤葦に持ってくやつじゃなかったのか。
木兎さんの琥珀の瞳は、そこに「なんかあったか」の一言までも含めている。

「…そうしようと思ってたんですけど、先約があったみたいで」
「センヤク?」
「同じ大学の人が、さし入れを約束してたそうで。被るとアレかなって」

おにぎり屋の店前、会計を済ませた時だ。
一緒に観戦に来た白福さんが──高校時代の他校のマネ仲間さんと行き合い立ち話になったのを、邪魔をしたら悪いと思って私は先におにぎりを買いに行っていた──が追いついてきて、赤葦くんへの差し入れはどれにするかと尋ねた。
それならもう買った、と言いかけて、私と重なった声を上げたのは、宮永さんと一緒にいたピンクに染めた髪の女の子。

『それなら、ほら、私たちが買ってくって約束してるんだよね!ね、宮永?』

用意していた言葉を飲んだのは、彼女の言い分が真実だと信じたからじゃない── 派手な見た目だったけど、多分しれっと嘘をつけるタイプじゃないんだろう──私にあのハッタリに騙されるような、ピュアな神経の持ち合わせはない。

ただ、その瞬間の宮永さんに見た焦りと気まずさ、友人を小声で慌ててたしなめる様子に、ああやっぱり、と腑に落ちたものがあった。
だから、持ち前の察しの良さで状況を把握した白福さんが何か言う前に、適当言って引き上げてきたのだ。

そんなことを色々端折って話した。そしてこれも予期した通り、木兎さんは木兎さんだった。

「別にカブっても良くね?差し入れするの何人までとか決まってるわけじゃねーし。食べきれなきゃ持って帰りゃいいだけじゃん」
「うーん…まあ、そうなんですけど」

同じことは白福さんにも散々言われた。彼女の場合はちょっと意味合いが違うけど。

「なんというか、」

まあ別にまた今度でもいいかなって。これが最後じゃないんだし。アポ取ってないのも事実だから。
立ち去るなりマシンガンで食い下がりにきた白福さんを、のらりくらりとかわすのに使ったテイのいい言い訳を舌に乗せて、

「ちょっと、むずかしくて」

ころがり出てきたのは、なんの装飾も具体性もない感想じみた理由。

大勢の人が行き交う廊下、続く試合と応援の声。スプレー缶のジェット音、シーブリーズと汗の匂い。
木兎さんが腕を組む。片眉がキュッと上がるのもわかった。普段小学生みたいなことを平気でする人が、小さい子を叱るようなトーンで言う。

「なんだお前ら、またなんか面倒なことになってんの?」
「…、」
「おいおいどうした、マジで喧嘩しちゃったとか?」
「いえ、そういうわけじゃ」
「じゃあどうしたんだよ」

それがわかったら苦労しないんです。そんな八つ当たりが喉奥に詰まって、私は結局黙り込む。

説明がつけられなかった。日毎に一枚ずつ、薄く薄く、ベールをかけたようにわからなくなっていった彼の思考。読めない表情、ズレていく遠近感。文字通り目だけで会話ができていたのだと、見失ってから気づいた事実から目を背けられなくなった頃には、進路を違える卒業を間近に控えていた。

そうして当たり障りのない別れの言葉と、これからもよろしくの決まり文句だけが、冷たい風のように穴の空いた心臓を吹き抜けていって、


「篠崎はもういねえぞ」


トンと突くほどの軽さで、首を落とされたような衝撃。

自分がどんな顔をしたかわからない。見上げた木兎さんは淡々と、諭すでも、無論責めるでもない、ただ普段通りの表情で私を見ていた。

「…なん…」
「お前らを体育館倉庫に蹴り込むようなヤツはもういねえってこと」

頬が一気に冷たく火照った。体の芯に急沸した熱が皮膚の表で冷や汗になる。言葉もない私に、木兎さんは続ける。

「まァお前ら、たいてい顔見りゃわかるって感じだったしなー。俺はそれはそれですげえと思ってたけど、話すまでわかんないこともあるし」
「……」
「確かに赤葦にはわかりにくいとこもあるけど、聞けば答えてくれるし、嘘はつかない」

一点の疑いもない保証だった。一年先に卒業し、今は大学もチームも違える一つ下の後輩について、濁りなく言い切る確信が眩しい。

「顔を見ればわかる」。そうだった。彼はもともと多弁ではなく、私は高校で言葉を削るようになった。言葉以外の上に成り立っていた、無言の理解と共有の多く。その心地よさと表裏一体だったのは、ひどく不安定な脆さ───。

(…いや)

感傷に浸る心が冷水を浴びた心地がした。忘れた何かに気がつくような感覚。

彼は話そうとしていなかったか。
3年の秋───いや、夏にも。例えばそう、今朝見た夢の中のような、

「おっ、」
「!」

不意に誰かのケータイが鳴った。ライン通話の着信音。木兎さんがジャージのポケットからスマホを取り出し、耳に当てる。漏れ聞こえた内容に私は慌てて時計を見た。次の試合に向けた直前ミーティング。

「すみません木兎さん、引き留めてしまって」
「ダイジョーブ、まだ15分あるし。早めに電話くれたんだよ」
「でも、休憩と間食…」
「ミーティングしながら食える!コレありがとな!」

一転、からりと大きな笑顔。「まあなんだ、あんま考えすぎんなよ!」と一言残して、切り替えも速く駆けていく背中を、私はお礼と共に見送る。惰性で下げた重たい頭を、背骨を軋ませてのろのろ持ち上げた。

突き放されたという傲慢で甘ったれな感情と、それを突きつけられねばならない自分の幼さに対する忸怩。

甘えるな。お前の足で会いに行き、お前の言葉で話をしろ。
当たり前のことしか言われていないそれを、今この瞬間もできていない自分。

刺された感傷を抱えた心臓に、隙間風が吹いている。
振り払えないざわつきを押し込んで、私は白福さんの待つ応援席へと戻り始めた。












赤葦の姿はすぐに見つかった。
ベンチスタートと言っていたが、第一セットから試合に出ている。ユニフォーム姿を見るのは初めてだった。ネイビーにカナリアイエローのロゴは、“星“を冠する大学名に則っての配色らしい。色の白い赤葦にはよく似合っていた。

開戦早々動体視力の限界を試すような速度で行き交うボールを目で追っていれば、包みをくしゃくしゃ丸める音とともに、簡潔な一言が飛んできた。

「で?アレ誰」
「…アレって誰」
「屋台のイケメンと、その前にいた地味な女」
「確かに派手じゃないけど、その子は色々…恩人っていうか」
「へえ」
「ほら、前に宮永のセーリ痛に薬とゼリーくれたって電車の子」
「ああ、アレが。じゃあイケメンは?」

視線一つで吐けと言われるこのプレッシャー。この友人が、私──おそらくツートンボブもそうだが──のように外見だけでない、筋金入りのヤンキーであったことを改めて思い知る。
いや、正確には過去形にもしがたい。普段つるむ連中のうち唯一、二輪免許と未成年喫煙に加え補導経験も持つパツキンは、日頃そう見せないだけで、今でも十分現役に通じるモノを備えている。
降参代わりに両手を上げた。

「高校の同級」
「元カレか」
「死んでもない」
「んじゃその予定?」
「次言ったら殺す」
「キレんなって、冗談だわ」

宮永の好みでもなさそうだし。
あっさり言ってのけるあたりわかってて言ってんなと顔を顰める。意味ありげにコートに目を落とすのもやめてほしい。どいつもこいつも放っとけってんだ。

赤葦は──いつも通りという感じだ。見たところ高揚も興奮も伺えない、普段通りの涼しい顔。応援席を見る気配はない。高校の時もこんな感じだったんだろうか。

「…高2まで兵庫にいて、そこでトラブった相手の双子。直接なんかあったわけじゃないけど、それが原因で転校したり何なりしたし、…顔一緒だから、なんか普通に気まずいだけ」
「、ふうん」

パツキンは気のない相槌一つで言葉を切った。何かを察された気もする。と、思ってたらツートンがスイーツバイキングでのゴタゴタのあらましをまるっと説明したので、無言の理解も無に帰したわけだが。
隠す気はないし、そのうちパツキンにも話すとは言っていたが、何もこんなとこで話さんでも。
説明が終わる頃にはホイッスルが鳴り響き、第一セットが終わった。5点差で勝っている。一旦一区切りのついたコートにつられてやや弛緩した会場の気配に紛れ、ツートンが余計なことを言う。

「で、こいつまだ彼に連絡してないのよ」
「その必要がどこにあんのさ…」
「助けに来てくれたのは間違いないじゃん」
「だからそんなんじゃないっての」
「なんでそう言い切れるわけ?」
「…あのね、今日のあの調子で和やかに話せる間柄に見えるわけ?市役所の方がまだ愛想良いレベルでしょ」

そう、我ながら最もな弁明だ。訳アリと察した上でしれっと店先に行ったパツキンに「宮永も買うっつってたじゃん」と退路を断たれ、渋々近づいたおにぎりの向こう、宮治はさっきまで女性客に見せていた営業用の顔など見る影もない塩対応で接客してくれた。一緒に立ってたお店の人たちでさえ異変を察する不機嫌さだった。

何が気に入らないか知らないが、こっちだって好きこのんでやってきたわけじゃない。最後の方は気まずさも吹っ飛んで半分喧嘩腰になりかけたぐらいである。
その上赤葦にと選んだおにぎりは試合準備の始まる時間に間に合わず、未だ手元に残ったまま。それもため息の一因になっていた。

ホイッスルが鳴る。相手サーブだ。上がったレシーブに合わせ、赤葦が落下点に滑り込む。軽やかに上がるトスは相手コートへのスパイクに変わった。拾われ、再びラリー。
バレー選手の巧拙には疎いし、私がまともに知るセッターはせいぜい孤爪だけだが、素人目にも、赤葦は相当上手いように思う。いや、そもそも上手くなきゃ高校全国2位のチームにはいないか。

興味なさげに見えて黙々とボールの行方を目で追っているパツキンに乗っかり、何となく会話を締めたつもりだったが、ボールの行き来が相手コートにて潰えると、ツートンはあっさりと話題を引き戻してきた。

「そりゃ、ID伝えたのに連絡なかったら誰だっていい気しないでしょ」
「しつこいね…交換した連絡先には必ず返信しろって決まりでもあんの?」
「電車でお世話ンなった人探し当てて、大学までケーキ提げてく女のセリフじゃないねって話」
「…随分あいつの肩持つね。何、紹介しようか?」
「宮永こそ、そんな意固地になることなくない?」
「──あの顔が夢に出て、高2の後半は睡眠薬が友達だった」

苛立ちが言わなくていいことを吐き出した。振り抜いた声音がツートンの言葉を切り落とす。余計なことを言ったと自覚した時には、尖った沈黙が肌を刺していた。

ごめん。つぶやいたのはツートンの方で、私はぐっと唇を引き結ぶ。文脈に沿わない切り返しだった。やめようと決めたはずでもある言い訳だった。

「…いや。同じなのは顔だけだもんね」

バツが悪くてぼそりとこぼせば、硬い顔をしていたツートンがやや表情を和らげる。後味が悪くて、半ば投げやりに、スマホの液晶にラインを呼び出した。
手首に浮かんだマジックペンが消えないうちに登録したアイコン。まっさらなトーク欄。

勢いだけで文字を浮かべ、送信マークをタップする。電源ボタンで画面を切った。思い立ってもう一度点け、通知も切る。

ワッと観戦席が湧いた。はっと顔を上げれば、星英に点が入ったところだった。ノータッチエースという言葉が漏れ聞こえる。サーブ。

「…あれ、高坂?」
「だね──うわ、すご、また入った」

ツートンが瞠目する。普通のサーブじゃない。あれは確か…そう、ジャンプフローター。三年の春頃だったか、福永が練習してるって言ってた覚えがある(解説されて「揺れる魔球的な?」と聞いたら無言でサムズアップされた。褒められたのか馬鹿にされたのか未だにわからない)。

「高坂いいぞー!」
「ナイッサー!」

そんなことを思い出していたら、飛び交う声の合間を突き抜ける、聞き覚えのある声音の、聞いたことのないトーンと声量。

「もう一本!」

……赤葦って叫ぶんだ。あんな声で、ていうかあんな顔するんだ。

「スポーツ男子、って感じ」

視線はそのまま、感嘆したようにこぼしたツートンに、今度は黙って同意した。
胸のざわつきは誤魔化せない。それを高鳴りとは認められない自分の往生際の悪さにも、そろそろ天井が見えてきた気がした。


200510                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -