掻き乱せ、霧雲




あぶくの向こうから聞こえるような声がする。

飛び込んだ直後の潜水。水面を割った衝撃と無数の泡を1秒でも速く置き去りに、力強く繰り出すドルフィンキック。

息をつめた唇を気泡がかすめ、くぐもった水音が鼓膜を満たす。酸素を断たれた肺が充血していく。心地よい苦しさがゆっくりと首を絞めてゆき、全身を駆け巡る血流が速く、筋肉が熱く重くなる。
柔らかく妨げる不明瞭をかき分け、指先を伸ばし、目を凝らして、


「白河は、」


気づいた時には立っていた。

茜差すプールサイド。濡れても滑らない凹凸状のマットに、裸足の足裏が食い込んでいる。

グラウンドに隣接するプールは、一階に構えた部室の真上に位置している。敷地の外縁に張り巡らされた野球部のためのネット越しには、霞ががった都心の街並みがよく見えた。
梟谷の景色だ。

軒並み室内施設を有する強豪の中、私立校としては異端とも言うべき、天井の開けた室外プール。
懐かしく、それなのに掴めない。温度感のない光景だった。


「白河の“水泳“は、どこを目指してるの」


朧げな黄昏を背に、柔らかな猫っ毛の、涼やかな目元の青年が静かに言う。
白を基調に、朽葉色と黒の差し色。室内シューズを履いた彼は、梟谷のユニフォーム姿をしている。
自分がどんな姿なのかはわからなかった。ただ不意に、水の中のように、服の中で体が泳いでいる感覚がする。

「“どこ“?」
「うん」

顎下まで水が迫ってくる。舌が張り付いて口が開かない。悠然と立つ彼の声が、水音に遮られて遠くなる。

物言いたげな静かな眼差しと、息苦しさに焦りが湧いて、










「───、」

自分が寝ていたことを思い出すまでに、天井を見つめる5秒ほどが必要だった。


カーテンから漏れる朝日が明るい。スマホを確認すれば、アラームの鳴る10分前だった。
起床時としてはあるまじきテンポで刻まれる心拍数が、夢の名残を物語っている。

(いや、夢か?)

脳膜に焼き付いた既視感が囁く。思考の残滓が生み出す会話にしては、ずいぶんはっきりした輪郭だった。
いつかのどこかで実際に、彼と交わした会話の名残。プールサイドじゃない、でも多分夕暮れだった。二年ではなく、三年の、きっと夏も終わった頃。

スマホが再び震える。点灯した液晶に浮かぶ通知の、雪見だいふくのアイコン。『じゃ、当日駅前に1時ね!』。
ゆっくりとありふれたテンポに戻りつつあった心臓が、不意に全く違う方向へ捻れるのがわかった。

二度三度瞬き、ブルーライトに晒した目を窓に向ける。カーテンの隙間に、晴れ渡る初夏の朝を覗き見た。抜けるほどの蒼天。

泳ぎたい。逃げるようにそう思う。
青空に剥き出しの屋外プールの、全てを隔絶する水音の中で。









「──じゃ、うちから桜大に依頼してみるってことで」
「オッケー。教授通してのがいいよね?メールしとくわ」
「うちでも一回集まっとこうか。流石にノープランでオファーぶっ込むとかナメてっと思われる」

レジュメを脇に滑らせて、スマホのメールアプリを立ち上げる。礼節とフォーマットにうるさい教授用に作ったテンプレの本文枠に、簡潔な文面を組み立てていく。
他大との共同研究、なんて言えば大袈裟になる規模のことだが、それなりの体裁は整えないと先方にも失礼になる。

こんなもんかと誤字脱字を確認して、ふと感じた気配に目を上げる。スマホを覗き込む涼やかな瞳に思わず肩が揺れ、さっと周りを見渡してしまった。それをふ、と息だけで笑われる。
これだよ。割とマジで腹立つ反応が死ぬほどサマになるせいで、文句を言う間を逃してしまう。この赤葦という男の手に負えないところだ。

「驚きすぎじゃない?」
「いやビビるでしょ…そんな普通に人のスマホ見るヤツいる?」
「教授にメールだってのはわかってたし」
「…それ、私はいいけど、他の人にやっちゃダメだからね」
「宮永さんのはいいんだ」
「教授と大将宛のはね」

素っ気なくもウィットは利かせた返しには成功しただろうか。ちらちらとこちらを伺う数人の女子の視線を、それと悟られないよう努めて無視する。
…我ながらいかにも“女子”で自嘲ってしまう。気さくでフラットな関係に見せたいのには明らかに牽制の意図があるからだ。

「ねーみんな、打ち合わせ来週土曜でいい?夕方集まってそのまま飲みに行こうって話なんだけど」
「ちょっと待って、シフト見る」
「あーごめんサークルあるわ、夜の飲みだけ参加とかあり?」
「宮永は?」
「土曜?待って……いいよ、空いてる」
「オッケー!赤葦は?土曜は午前練って言ってたよね?」
「いや、来週は試合だから無理かな」
「えーっ、赤葦くん来ないの?」
「そういやリーグ戦っつってたっけ?夕方でも間に合わねえの?」
「うん。試合後はミーティングして、大抵はそのまま部でメシになるから」

「プレゼンの準備は参加するから勘弁して」と小さく笑う赤葦に、女子は残念がり、男子からは試合頑張れよ、という言葉がちらほら返される。話題は打ち合わせ後の飲み会の会場に移り、話の矛先が赤葦からずれたところで私は尋ねた。

「試合、赤葦も出るの?」
「ベンチスタートだけどね」
「十分すごいじゃん」
「まあ」
「ね、それあたしらも観に行けるもんなの?」

急に割り込んできたのは、後ろの席から身を乗り出してきたツートンボブの友人だった。別グループに割り当てられていたのをいつの間に戻ってきたのか。ていうか何言って。
思わず目を剥けば、「まあ見てなって」とでも言いたげな目配せをされる。ちょっとやめてよわかりやすすぎなんだよ、この男の察知能力ナメてんの?ユニ◯フばりよ?…いやユ◯セフは関係ないわ。

「一般公開はされてるけど」
「じゃ、チケット買えば誰でも入れるんだ?」
「まあそうだね」
「ふうん。じゃあさ、宮永、ちょっと応援しに行かない?あたし土曜暇なんだよね」
「は?うちのグループその日打ち合わせなんだけど」
「うちもそっちに合わせて夕方になったし一緒だよ。試合午後からなんでしょ?ちょっと覗いてから行けば間に合うって」
「よく知ってるね」
「高坂が言ってたから。なんだっけ、ピン…ピンなんとかで出るってめっちゃ張り切ってた」
「ピンチサーバー。あいつも出るよ」

高坂は赤葦と同じバレー部だ。派手な見た目の割に人見知りで、いったん懐に入れば存外ピュアというこの無自覚ギャップ二種盛りである友人とは何をきっかけに打ち解けたのか、気さくに話している姿をよく見かける。
思うに向こうはこの友人に少なからず気があるようなんだけど、とチラリ、赤葦を窺えば以心伝心、無言で頷かれる。なるほど、気付いてないのはこの友人だけらしい。

ややこしいなオイ、とツッコミかけて、図らずも“高坂の恋路を応援するため“という大義名分が転がり込んできたことに気づいた。渡りに船だけど、どこまでも打算的。…でもまあ、乗らない手もないし。

「じゃ…赤葦が良いなら行こうか。ついでに高坂も観に」
「別に俺の許可はいらないけど」
「えー、観られたら緊張するとかないの?」

いや、この男に限ってそれはないだろ。ツートンボブの問いに心中だけで勝手に答えれば、案の定赤葦はしれっとした顔で言う。

「小学校までは多少したかな」
「うわ、可愛くなーい」
「アンタ知らないでしょ。赤葦の高校、全国常連だよ。準優勝とか普通にしてる」
「えっそうなの?」
「俺が二年の時にね。すごいエースの人がいたんだ」
「宮永はなんで知ってんの?」
「うちの高校も出てたから。クラスの友達が男バレで、学校で応援も行ってたし。赤葦が出てたって知ったのは最近だけどね」

当時はバイトで全部の試合は観に行けなかったし、そもそも福永や、その延長で知り合った山本や孤爪がバレー部だったから応援してただけで、彼らを抜きにすればバレーそのものに関心はなかった。例えば福永がサッカーしてたなら、サッカー部を応援しに行ってたと思う。

そんな感じなので、梟谷や井達山も言われれば名前はわかるという程度だった。自校の対戦相手であってもチームメンバーまで記憶に残るはずがなく、もちろん双眼鏡構えて観戦するようなガチ勢でもない。

自分では何気なく口にしたことだったが、赤葦にとっては驚きだったらしい。珍しく大きく開かれた瞳で問われる。

「宮永さん、高校どこだったの」
「音駒。言ってなかった?」
「いや、それは初耳。じゃあ山本とか知ってるんだ」
「うん、孤爪とも面識ある。一番友達なのは福永だけどね」
「福永?それは…ごめん、意外すぎる」
「よく言われる」

だろうな、とは思うので頷いておく。高校の時もよく不思議がられた。
ちなみに福永が春高で対戦した相手校の一つが赤葦の母校で、かつ2人が互いに見知った中だと聞いたのはこないだのランチでのことだ。福永は私が知っているものと思って言及しなかったらしい。

「なに繋がりで?」
「席が隣で。ほらあいつ、相手が誰でもあのとぼけた調子でしょ」
「あの掴めない感じね」
「そう、あれが良くて」
「あれが良いんだ?」
「赤葦って割とマジで失礼だよね」

字面だけ見れば結構な失礼かまされてんのに、この男が言うとそう聞こえないのはなんなんだろう。バフかな。

「失礼ついでに疑問なんだけど、山本とは普通に話せるの?」
「余裕。福永にカツアゲしてんじゃないかって勘違いから喧嘩売られて、ンだてめえってやり返しての出会いだったから」
「待って色々濃すぎる」
「初期設定バグったせいで女にカテゴライズされなかったんだと思う」
「待ってっつったじゃん色々濃すぎる」
「そんな肩震わせて笑うほど?」

ちなみに孤爪と距離が縮まったのは美化委員だ。強烈に印象的だったのは学校に住み着く野良猫に異様に懐かれていたこと。常時一匹はそばをうろつき、腰を下ろせば猫サロンが形成される様は圧巻を通り越してミステリーだった。
一つ上の幼馴染も似た感じだと言っていたが、本当なら揃って人間辞めてるか前世が猫又か体臭がマタタビなんだと思う。孤爪は普通に石鹸の匂いがしてたけど。

兵庫にいた頃も東京に来てからも動物は飼えない家だったから、孤爪に寄ってくる猫と戯れるのは密かな楽しみだった。言ったかどうかはっきり覚えてないけど、今思えば私が猫と遊べるよう、孤爪はさりげなく付き合ってくれてた気がする。

そんなことも思い出して付け加えていたら、ずっと聞き手に回っていたツートンがぽつりと言った。

「高校、楽しかったんだね」
「、そうだね。みんないいやつだったよ」

繊細なヤツ。何を気にしての言葉かがわかるから、思わず苦笑混じりになる。高坂が惹かれたのが、こいつのこういうところだといい。

私たちのやりとりを赤葦は黙って聞いていた。特に何を問うでもないその沈黙に、不意になぜか、白河さんの顔が脳裏を過ぎった。
触れない親切、踏み込まない間合い。両者ともに深く尋ねない“親切“は、よく似ているようで違う手触りの気がした。







中学の時は陸上部だった。専門は走り高跳び。長距離も割と好きだった。

才能ある選手ではもちろんなかったし、地方の公立中学の部活に過ぎないけど、それなりに真剣にやって、大会にも出ていた。
室内と屋外では空気感も音の響きも全然違うし、そもそも比較するには烏滸がましい規模だが、この熱気漂う喧騒は少しだけ懐かしい。

赤葦の試合は午後2時の開始予定だった。広々した体育館にはコートが四つほど並んでいて、すでに試合を行なっている選手たちの躍動と応援の声が高い天井に反響しながら行き交っている。
うちの大学の選手たちの姿は見当たらなかった。サブアリーナですでにアップに入っているらしい。

「大学関係者にって応援席もあるよ。学生証見せたら優先して案内してもらえるってさ」
「その前にあたし昼買ってきていい?昨日バイト閉めまで入ってたから、朝食べてないんだよね」
「じゃあ健学の売店行かない?応援と実習兼ねて出店してるってサークルの同期から聞いたんだよね」
「ふうん、何売ってんの?」
「おにぎりとか。なんか今年は他大の農学部とも協力して、力入ってるんだって」
「へえ…いいね。私も買おうかな」

ツートンの提案に頷く。昼過ぎの微妙な時間だけど、この後ミーティング、のち飲み会となると何か食べておいてもいい。
あくび混じりのパツキンに連れ添い、一旦入った会場を入り口へと引き返す。アリーナの案内図を頼りに、会場の反対側に位置するエントランスへつま先を向ける。もともと館内にあるコンビニ周りに出店や出張店舗が集まっているらしく、一帯は賑わっていた。

「アレだな」
「どれ?」
「なんか旗出てるとこ」

頭一つ長身のパツキンが指差す方向には旗、もといのぼりが立っていた。見た感じ他より繁盛している。意外にも同世代の女子が多い。タピオだのクレープだのならわかるけど、おにぎりってそんな売れんのかな。

「なんか混んでんね」
「インスタ映えでもす、」

んじゃない、と言いかけた言葉にかぶさった、ゆったりと間延びする低音に、ものの見事に足が止まった。

「おおきに、どうも」

シンプルなプルオーバーに嫌味なほど様になる黒のエプロン、雑踏から頭ひとつ飛び抜けたアッシュグレー。
目深に被った黒のキャップも目眩しには及ばない。黄色い囁き声が飛び交う繁盛も当然の整った横顔と、訛りの薄められていない関西弁。

え、と声を漏らしたのはツートン。怪訝そうにこちらを見るのがパツキン。
綺麗に並んだおにぎりの上、藍染の暖簾に浮かぶ文字は「おにぎり 青星」───なるほど、青翔大と星英大。わかりやすいネーミングである。もっと早く知りたかったその情報!
時間にすればきっと数秒にも満たない膠着、どうする、と真っ白に飛びそうな思考に問うて、

「昆布とネギトロ…あと、高菜を一つずつください」
「……、」
「あ、やっぱりシャケも」
「……」
「え、待って牛カルビもある…明太子…」

大変聞き覚えのある声が、実に落ち着いたトーンで、非常に平和で燃費の悪い話をしている。

財布片手に整列したおにぎりを真剣に見つめる、短い黒髪のすっきりした横顔に、私は思わず片手で目を覆った。見覚えしかない顔である。
嘘だろここでも会うとかどんな。偶然が大渋滞、いや玉突き事故起こしにきた。いやホントに偶然か?いいかげん付き合ってんじゃないのあの二人?

「…宮永?どうし、」
「ネクスコ…いやレッカー呼ぶか」
「あんただけ帰り高速のんの?」

金髪の下の胡乱げな眼差しからものすごく真面目なレスをいただいた。いやJRで帰るっての。そういう話じゃない。

「流石に5つは…いやいけるか…?」

そんで白河さんマジでよく食べるね、そのおにぎりぱっと見た感じコンビニの1.5倍くらいありそうなんだけど正気?

「宮くんだったらどれを──…」

呆然とこっちを見ている宮についに気づいたらしい、白河さんはふとおにぎりから目を上げる。彼の視線を辿った彼女の目は当然、こちらを捕捉するわけで。

「…え、宮永さん?」
「…あー…」

友人にあったにしては煮え切らない私の態度に、こちらを見下ろしていたパツキンが黙って目を細める。繊細さとは無縁の元ヤンだが、洞察力は天下一品だ。これは後から無言の圧で吐かされる。

目を丸くする白河さんにひとまず挙げてみせた片手、なんとか作った笑みといったら。自覚はある、目も当てられないほどぎこちなかったに違いない。
それに対し、顔に出した驚きはものの数秒。宮治はその腹立たしいほど整った顔にポーカーフェイスを取り戻していた。

再びかち合った視線はすぐに、今度は向こうから逸らされる。涼しい横顔に、無性に負けた気がして、思わず眉間に皺が入った。


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