シンバルシャイン・エンプティ


通知を切っていたラインを起動し、見るからに野次馬的なアイコンを容赦なく即ブロする。ついでに同じアパートに住む渦中の片割れ(スタ爆と短文の連送だろう、37もの通知がついている)を非表示にしてやった。

そうして残った名前の中、上から三つ目に上がってきたのは、波止場に並んだポカリとマッチ。
名前の横にうっすら反映された最新のメッセージには、短い一文でこうあった。『無事?』。

「…、」

トーク画面を開き、こちらも二文字で返した。『おう』。既読はすぐついて、少し待てば返信がきた。『宮永さんも?』。さっきと同じ返事で返せば、返信はもう来なかった。

想定の域を出ない反応だ。いつもなら多分気にならなかったと思う。
にもかかわらず通話ボタンをタップしたのは、独り住まいの学生アパートの静けさと寝転んだばかりの冷たいベッドが、ささくれた感情には据わりが悪かったからだ。

8回を数えたコールとその末の応答には、隠されない戸惑いがうかがえた。

『…もしもし?』
「おん」
『…、…えーと……え、無事?』
「そう言うたやろ」
『……』

感情のまま突っ返せば、慎重な気配が呆れに似た何かに変わっていくのがなんとなくわかる。無視してこちらも無言を貫けば、向こうも“なんでも平気”をやめる気になったらしく、

『仲直りできた?』

速攻でぶっ込んでくるのがこれである。
自分から仕向けたとは言えこの切り替え。思わず閉口すれば、追い討ちをかけてくる『エッ嘘でしょあの流れでまだ?』という遠慮もクソもない一言だ。
とはいえそう仕向けたのは自分である。結局のところ、周到に気遣われるのは性に合わないのだ。
半分投げやりに言う。

「駅までの10分で済む和解なら苦労しとらんわ」
『…、一番謝らなきゃいけないの、多分きみじゃないのに?』

今度こそ本当に閉口した。天井を眺めて、息を吐く。

階下の廊下を進む足音が聞こえて、ドアが開錠されるのがわかった。足音ひとつで持ち主が一瞬でわかるのだから、双子というのは厄介だ。
左頬が鈍く痛む。

「…アンタがあの場におって、俺と話してたことは全部、羽鳥には話した」
『それはまあ、構わないけど』
「心配せんでも、アンタが究極に間が悪いだけってのは多分羽鳥もわかっとる」

白河は少しの間黙って、不意に言った。

『治くん、宮永さんと、高校の時から関わりが多かったの?』

絶妙な聞き方だ。親しかったのかとも、まして付き合っていたのかなどとも聞かない。”なんでも平気”を取っ払ってもこれなのか、と頭の片隅では思う。

でも、言葉はするりと漏れ出てきた。つかえていたものが外れるように。

「一年だけ委員会が一緒やった」

記憶の蓋が開く。眼裏に鮮やかに浮かび上がる、色素の薄い肌と髪。中学まで東京で育ったという標準語と、華のある顔立ちがパッと目を引く少女だった。

関東人らしいドライな雰囲気もあったが、関西のノリと渡り合える快活さもある。女子の間でも浮くことなく馴染んでいた。
羽鳥翠はそういう、ごく普通の同級生だった。

「特別好印象ってこともあらへんけど、わりと普通に喋っとったと思う。…それが、周りのゴタゴタで疎遠になって」

きっかけは翠の親友を、侑がロックオンしたことだ。
一年の終わり頃だった。名は相良光奈。確かに目立つその美少女の一番マズかったのは、ぐずぐずと曖昧な態度だったと治は思う。

今思えば対処に困っていただけなのかもしれない。だが、すでに他校にもファンのいた侑に特別扱いされながら、“思わせぶり”な光奈の態度は一部の女子の目についた。
侑の目がある分、派手な虐めはなかったと思う。でも表に出ないだけで、少なからぬ嫌がらせはあったはずだ。

果敢かつ無謀に、侑に直談判しに行ったのははっきりした性格の翠だった。

──自分の影響力も考えないで所構わず言い寄るの、やめてくれる。
本人にも迷惑だ。


元来プライドはエベレスト、傍若無人なきらいもあり、当時はとりわけ飛ぶ鳥を落とす勢いで人気のあった侑のことだ。歯に物着せない翠の物言いが癇に障ったのは想像に難くない。

侑は遠慮なく不機嫌を口にした。悪意はないが思慮もないそれは、光奈に手出しできない鬱憤を溜めていた女子にとって、的を変えるための格好の免罪符となる。
いわば侑の“公認”で、翠への迫害が始まった。

「…直接指図したわけやない。けしかけたろとか、そんな考えもせんかったはずや。人でなしでも、そういう性根の腐ったマネはせえへん」
『うん』
「単に、…どうでもええねん、外野が何しようが。言いたい放題言うて気ィ済んだらそれで終いで──無神経で、無責任で、なんも考えとらんかったんや」

何か起きてからでは遅いし、部活に支障が出ることもあり得る。その意味も込め苦言を呈したが、案の定片割れは無頓着だった。
侑を支持する中心的な女子達が、こぞってスクールカーストの上位を占めていたのも災いした。

事態は急速に悪化した。翠は瞬く間に学年から孤立し、あらゆる悪意の矢面に立たされた。

「…何されてもツンとして、それがどうした、みたいな顔しとった」

翠は気丈に“振る舞った“。言葉の通り、全てを跳ね除けられるほど強かだったわけじゃない。それがわかれば攻撃は激化する。

強がりの虚勢を引き剥がし、澄ました綺麗な顔をぐちゃぐちゃに歪ませたい。
限度を知らず手段を問わない悪意が行き着いたのが、迫害を主導したグループの一人、素行の悪い男らと付き合いのあった女。

「ほとんど犯罪グループみたいな連中でな。手頃な女を丸め込むか攫うかして、撮った映像を脅しに使うなり、…最悪はAV会社に流したり」
『───、』

電話の向こうが絶句する。舌先に準備した事の顛末を先回りさせた。

「羽鳥は無事やった」

“最後までされなかった“ことを無事と定義するならだが。
路地裏で車に押し込まれた翠は、連れ去りの道中で保護された。警察への第一報の速さ、それに応じた迅速な検問が功を奏した結果だった。

通報したのは相良光奈だった。
偽の約束で翠を誘き出したのも、相良光奈だった。

『……脅されて?』
「そう聞いた」

乾いた相槌に力ないため息が混ざる。

呼び出された光奈は数時間の軟禁に遭い、翠を誘き出さなければお前を犯すと脅された。圧力に屈した光奈を見くびった連中が、“用済み“の彼女をすぐに解放したのは不幸中の幸いだった。

ほとんど半狂乱で交番に飛び込んだ少女の一報により、事件は迅速に明るみになった。そこからは芋蔓式だ───よくある話の通り、親の地位や仕事を後ろ盾にした連中を除けば。

そうでなくとも種々の部活で強豪と知られる稲荷崎だ。事態は”極力穏便に”収められた。実働部隊と言うべき主犯の逮捕、その余罪云々を生贄に、ごく一部に限った生徒の退学・停学処分をもって、なし崩しに揉み消したと言ってもいい。

何もかもを暴露することもできたであろう翠はしかし、その後一度も姿を見せることなく転校した。
しばらくは籍を置いていた光奈も、三年になる前には姿を消した。


『…じゃあ、”写真”っていうのは、その時の?』
「いや…それは多分、コラ画像のことやと思う。誰や知らん、エロ本の写真を合成したやつをばら撒いとったんや」
『……どっちにしろ犯罪だ』

電話の向こうに怒気がこもる。唸るような声に、実際に裸にされたという噂もあるとは、流石に口にしなかった。真相は翠と、顔も思い出したくない加害者連中のみが知る。

治が知っていることは、何もかもが済んだあとの残り滓ばかりだ。



──そうだね…あんたは何もしなかった。



「…何にもせんうちに、まとめて敵みたいになってもうて」

それも、今思えば当然なんやけど。


自分の美人を鼻にかけず、治の容姿にも含みを見せない──治に言わせれば“顔面に興味のない“、あっさりした態度が印象的だった。

打てば響く頭の良さで、どうでもいい話を気楽にできて、余計な秋波を送ることもない。月に一、二度、委員会で集まる時には、選んで隣に座るほどには好ましく思っていた。

気になっていたんだと思う。今思えば、今言うなら。



状況が悪化するにつれ、翠は治に近づかなくなった。
否応なく侑に重なる容姿のせいか、中傷の火種を作らないためか、───あるいは何も行動しなかった治を、侑とその取り巻きの味方と解釈したのか。

自分の介入で翠の立場が好転したとは思えない。治は不干渉を選んだ当時の自分が間違っていたとは思わない。

でももしあの時、侑にぶん殴ってでも事態の孕む危険性を認識させていたら。
教師に、親でも構わない、ちゃんと大人に相談していれば。

あるいはせめて、彼女に一言───なんでもいい、大丈夫かなんてクソの役にも立たない言葉でもなんでも。


彼女を案じていることを、自分が敵じゃないことを、あの時伝えられていたら。



『今からでも遅くないと思うよ』
「綺麗事言うなや」

迷わず斬り捨て鼻で嗤う。

時は逸した。記憶は消せない。
世の中には取り返しのつかないことがあるのだ。

だが返答は矢のようだった。

『遅くない』
「へえ?」
『本当に手遅れだと思ってる人が、部外者をダシにしてバイト先まで押しかけたりするもんか』

一瞬通話を切ってやろうかと思った。
そうしなかったのは、当たりの丸い風情を投げ捨てた声音が、全く脈絡のない言葉で追いかけてきたからだ。

『高一の時、部活で孤立した』
「──あ?」
『推薦理由も聞かされないで一年秋に副将になった。そのせいで上には冷遇されて、同期には腫れ物扱いされた。仕事も割と押し付けられたし、露骨に陰口叩かれて、二年になったら関係のない下の代にまで反発された』
「…なんの、」
『一年越しに謝られた』

角を落とさず会話を譲らぬ怒涛の電話口に押し切られる。
思わず口から言葉が逃げた。

『その時は複雑だったけど、今はもう、先輩にも同期にももやもやしない。記憶がなくなるわけじゃないし、時間もかかったけど、思うことはもうない』
「……」
『その謝罪があったから、過去になったんだと思う』

宮永さんと私じゃ事情のレベルが違う。治くんが宮永さんに何を伝えて、どこに着地がしたいのかも私にはわからない。
でも、


『謝罪が遅いか無駄かどうか、決めるのはきみじゃなくて宮永さんだ』





気づくと寝転んでいたはずのベッドに腰掛けて、垂らした頭で膝を見つめていた。
上から諭すでも横から言い聞かせるでもない。静かなくせしてぶつけるような、同じ土俵の真っ向からやってくる剥き出しの主張。

分が悪い。耳に痛い。寝転がって聞くには真っ当すぎて、幼稚な反発はできなかった。
ifの話は飽きたのに。

(…こいつがもし、あん時おったら)

長く息をつく。話を逸らすようで逃げの気もしたけれど、言葉は思ったまま口に出た。

「アンタ、やっぱりいつもそうしとったらええのに」
『、…?』
「いい子ちゃんしとらんと、言いたいこと思ったまんまに言うた方がええわ。物分かりようされると、俺みたいなやつはイライラすんねん」
『…、……』

電話の向こうの頑なな気配が、不意を突かれたように崩れるのがわかる。
はたと訪れる無音の沈黙。前にこれを言った時もそうだった。となればそろそろわかってくる。

きっと蒼衣にも、言いたいことを言えていない、言えないままここまできた相手がいる。
だから、自分にかました説教がブーメランになっていることにはたと気づき、黙りこくることになっている。

追い討ちをかけなかったのは、返ってきた応答には自分にない、認める強さと素直さがあったからだ。

『…そうだね』
「…」
『私、きみに偉そうなことは言えない』
「…そうでもあらへん」

そう悄気た声出すなや。さっきの威勢どこやってん。
そんな言葉を飲んでおいたら案の定、千切るようにぽとぽとと言葉が落ちてくる。

『友達…友達ではあるんだけど、それよりもっと、同志というか』
「…」
『…喧嘩したわけでも、嫌いになったわけでもないのに、なんでなんだろうね。ちょっとずつわからなくなって、うまく話せなくなって』
「…」
『昔はもっと、結構遠慮なく話してたんだよ』
「心配せんでも現在進行形でええ性格しとるで、アンタ」
『それはそれで心外だ…』
「事実やろ」
『否定はしないけど……』

萎れた声に不満が滲んで、電話線がちょっとたわむ。

翠と話していた時と少し似ている。
蒼衣よりずっと勝気で言葉に遠慮のない彼女にも、要所要所ではたと目を引く繊細で弁えた殊勝さがあった。気負いなくフラットだが、本質は濃やかで、…前髪を握りつぶした。噛み砕くように口を結む。
こうも女々しかったか、俺。

多分1分ほど、思い思いに黙っていた。思考を共有しない沈黙は、痛みを飲むのにちょうど良く、居心地の悪いものでもなかった。
どちらからともなくじゃあとかおうとか、そんなやりとりが区切りになる。赤い通話ボタンを押し、もう一度ベッドに寝転んだ。スマホを手放し目を閉じる。

右手に残る手首の細さ、冷たさと震えを思い出した。
瞼に残るカラコンの瞳に、記憶の中の色を重ねながら。












講義室の手前で仁王立ちするハーフカラーのボブカットは、適当言って躱すにはあまりに深刻な顔をしすぎていた。

「あんたってほんと、前から思ってたけど、マジで育ちいいヤツだよね」
「……」
「…オーケーわかった、わかったからそう怖い顔しないでよ。置いてって悪かったね」
「宮永お前、私がマジでそれ言うために待ってたって思ってんなら本気で殺すよ」
「わかってる」

ちゃんと話すよ。
言えば眉間に皺を寄せられる。「別に、話したくないなら言わなくていい」。返す言葉に詰まって、肩をすくめた。

「…いや、ちょっと付き合ってよ」

苦笑混じりに言えば、友人はちょっと目を見張った。
生憎触れない優しさはお腹いっぱいだ。もうそろ誰かに聞いて欲しくなったなんて、贅沢な話とは思うけど。


適当に、と言いながらしっかりググって選び出したキャンパス近くのカフェは混んでいた。
冷房の効いた店内は満席で、やむをえずテラス席に出る。たった10分ほどの徒歩でじっとり汗を滲ませた肌には室内の冷房が魅力的だったけど、広葉樹が作る木陰のテーブル席は腰掛けると思いの外涼しかった。
ウッドデッキ調の開放的な庭にそよぐ夏風と、話し声を薄める木の葉擦れが耳に優しい。心なし市街地より湿度もマシな気がした。
アイスラテとザッハトルテを注文する。友人はピーチティーとオレンジタルト。

満席の店内から逆算して、注文を待つ間に高校での一幕を振り返る。感想も感傷も省略して、概略だけをなぞるなら原稿用紙一枚で足る話だ。ラテとティー、各々のケーキが届いて、話もそこで折り返し。

「…で、引越したのが高2の後半。生まれの東京に従兄弟がいて、とりあえずほとぼりが冷めるまでそこにって。そのあとすぐ親が離婚したから、結局兵庫には戻らなかったんだけどね」

元々の不仲に私の一件が決定打になった形だ。父親は大阪に移り、母親も早々に再婚した。残されたのは母親の旧姓と、父親から送られる生活費。

はた迷惑にも成り行きで押しつけられた女子高生に、年の離れた従兄弟は本当によくしてくれた。
引越して2ヶ月ほど、徹底的に──ほとんど病的に見た目を変えることに没頭していた私に、辛抱強く転入を説得し、音駒に話をつけてくれたのもこの従兄弟だ。

立ち直ることに必死だった。粉々になった自分の、辛うじて残った自尊心のかけらを血が出るくらい握りしめて、1秒でも早く平気になりたくて、だけど。

そのどうしようもない時でさえ、本当に独りにはならなかったことの、どれほど恵まれていたことか。

「大学もうちから通えって言ってくれたんだけどさ、私のせいで婚期が遅れたら申し訳立たないじゃん。だから奨学金もらって下宿───は?嘘でしょ泣いてんの?やめてよ私が泣かしたみたいじゃん」
「ないてない」
「どの声で言ってんだ、ぐっしゃぐしゃなんだけど顔」
「うるさいぶす」
「なにこいつ小学生?」

3000円したというウォータープルーフのマスカラは値段に恥じない働きをしたらしい。代わりにシャドーの色を移した紙ナプキンを畳んで鼻もかんで、ピーチティーを一口。友人は言葉を選ぶように口火を切った。

「あの人、双子の…後から入ってきた方の。もう一人の方、思っきしぶん殴ってた」
「ああ…うん」
「すごい音したんだよ。思いっきり振りかぶって…テーブルとかすごいことになってた。周りも凍りついてて、でもすぐ止めに入って、そしたら彼、そのままあんたのこと追っかけてったから…私も追いかけたんだけど、見つかんなくて」
「悪いね、心配かけた」
「私はどうでもいいのよ、あんたは大丈夫だったの?」

今の話じゃあの人、殴り合いはしてたけど、でも元凶の兄弟だったってことじゃん。

「……、うん、まあ、そうなんだけど」

私もずっと、そう思ってたんだけど。









思わず足を止めたのは、そっちで呼ばれたのは初めてだったからだ。


『─── 宮永!』


両手首でもまとめて囲えそうな手のひらに捕まって、引き戻す勢いのまま反転した視界。
無防備に噛み合った視線の先で、宮は───宮治は、一瞬言葉なく私を見つめた。額に汗を、面持ちに焦りを滲ませた表情が、ややあってほっとわずかにゆるむ。

泣いていないことを確認された気がした。それに安堵されたような気も。

きつく握られた手首が痛んで、多分それが顔に出た。はっと指圧が緩んで、でも囲う手は離れないまま、路傍で数秒黙り込んだ。

『…送る』

断れなかったのは多分、降ってきたのが提案とも呼べない頑なな宣言だったからというだけじゃない。
両開きのドアを押しあけて、人混みをかき分けるようにして、私を見つけた瞬間の、その顔が瞼に鮮明だったからだ。

もっと言えば、その顔を見た瞬間の、自分の感情の衝撃から抜け出せていなかったんだと思う。







「…高1の時、委員会が同じでね」

保健委員で、確か月2くらいで集まりがあった。きっかけは覚えていないけど、思い返すと集まりの度に話していたような記憶がある。

いかにも面倒そうで、大抵眠そうで、そのくせ委員会をサボる印象はない。いつだったか聞いたのは、確かそう、一つ上の先輩の目が怖いとかそんな理由。なにそれ、と笑ったのは春だったか夏だったか。

「何もされてないんだよ、そいつには。ただ顔が同じ双子ってだけ。…言い訳にしかなんないけど、そん時はほんとに、周り全部が敵に見えてたんだろうね」
「…仕方ないわよ、普通よそんなの」
「うん。でも、」


飛び込んできた顔の、ひどく切羽詰まった表情。
思考を介する間もなく掴んだ直感が蘇る。


「今はもう、違うってわかってる」


───“心配されている“。


本能的な確信の刹那、金縛りが解けた。胸を破るほど脈打っていた心臓の存在感が消し飛んで、突き刺さる視線に縛られた手足の関節に自由が戻って、
手元にはほとんど口のついていない、アイスコーヒーのグラスがあった。

不思議な感じだった。あの一瞬、まるで無敵の気分だった。自分でも驚くほど手放しに、何が来ても迎え撃てるような───例えば、窮地に陥った漫画の登場人物が、助けに来た味方を見た途端勢いを取り戻すかのように。

「じゃあやっぱりあの人、あんたのこと助けにきてくれたんだ」
「いや、別にそういうわけじゃないと思うけど」
「え?でも来てくれて安心したんでしょ」
「安、…いやそれはない、それはマジでない」
「なにいきなり頑なになってんの、もしかしてなんかあるの?」
「あるわけないだろ馬鹿、普通に駅まで送ってくれてそこで別れたわ」
「連絡先の交換は?」
「……」
「してんじゃん!」
「押し付けられただけだっての!」

穏やかなテラスの雰囲気そっちのけでああだこうだと互いに譲らず、私たちは結局溶けた氷で薄まった紅茶とラテを啜り、混雑が解消する気配のない店内を気にして急いでケーキを片付けることになった。次はもうちょっと味わって食べたい、なんてこぼしながら会計して、店先での別れ際。

「ねえ翠、お節介はわかってて言うけど、やっぱり連絡くらいはしてあげなよ」
「だから…」
「彼、マジで怒ってたよ。他人が横で見ててもビビるくらい」

あんたを助けにきたかは置いといても、あんたのために怒ってたのは確かだと思う。

言うだけ言って、言い返す間も与えず、「じゃ、あたしバイトあるから」とあっさり背を向けて去っていくボブカット。思わず恨めしげに見ていたその後ろ姿から、自然、視線がずり落ちる。

…握られた左手首の内側、マジックペンで残されたラインのID。
バイト先のレジ前でもなし、そもそもあの場にいなかったはずなのに、方法がまるで同じなのは双子特典か何かなのか。

駅前の路上、バックパックから引っ張り出されたサインペンで文字列は、日を追うごとに薄れてきている。
ため息をついて駅へ向かった。消えかかるそれに覚える焦燥を、私は誤魔化せないでいる。



211214
ここで折り返しという無計画ぶりに書き手は白目を剥いています。
令和内の完結目指して頑張ります()

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