消し飛ばせ、凍雲



「…え、翠?」

呼ばれた気がして、目を上げて。
視界に入った顔の群れを理解して、心臓が凍る音がした。




指先の温度が抜けていく。体の中心を見失う。ひりつくほどに冷えた顔から、急速に血の気が失せてゆく。
さっきまで口の中に残っていたはずのクリームの甘ったるさがわからない。止まったはずの心臓が、いつの間にか胸を突き破るほどに脈打っている。

嘘、別人ちゃう?いや、見てみいって。えっまじで?
あいつ呼ぶとかさすがにお前。誰が呼ぶねん、住所も知らんのに。


「…知り合い?」

スイーツバイキングで甘い飲み物はさすがにカロリーオーバーでしょ。
そんなことを言ってラストオーダーに頼んでいたアイスコーヒーが、友人の手の中でうっすら汗をかいている。

予定合わなかったんだよ。そう誤魔化して、ぶつくさ言うのを丸め込んで、可哀想な独り身に付き合ってよと言えば、次は絶対誘いなよね、なんて怒りながら二つ返事で待ち合わせてくれて。
来るのは二回目だというその経験値を生かしてあれが美味しかったこれは微妙、なんて色とりどりのスイーツを指差しては随分可愛らしいケーキだのマカロンだのを選んでいた友人の、下半分をピンクに染めたパンクなツートンボブの中で、怪訝が表情が私を伺うのがいやにくっきり視界に映る。

口の中が渇いて、言葉どころか声も出ない。友人の表情が変わるのが見えた。悟らせてしまう顔をしているとわかっているのに、体は強張って動かない。

考えろ。断線寸前の思考をつないで、残り滓のような冷静を握りしめる。大丈夫、想定しなかったわけじゃない。まだ最悪の事態じゃない。
さあ、知らないな。そうやって笑う?にっこり笑って「人違いです」。いっそ皮肉ったっていい、久しぶり、だなんて不敵に、


「なんやここ、なんの集まり?」

想定できる最悪のシナリオだった。

「会場この先って聞いてんけど」
「あっ、宮ちょっと」
「…あれ?」

宮永サンやん。

それがその男の視線だと、鳥肌が立つほど識別できたのは何故なのか。
近づいてくる足音に身体が凍った。絶叫する心臓が破れそうなほどなのに、役たたずの喉は潰れたまま動きもしない。

「…え?」
「めっちゃ偶然やん、なんでここに?」
「ねえ、宮くん、その子って…」
「なん?自分らも知り合いか?」
「いや…え、侑、お前まじで言うてる?」

半笑いの男の表情が崩れる。異様な空気に竦む女。次から次に入ってくる二足歩行の澱みが濁る。目から、声から、この場から逃げられない。逃げ場がない。

服も髪色も化粧も違う。制服はない。同じなのは顔と声だけだ。
それだけあれば十分だ。

それはこっちも、向こうも同じだ。


2年の一学期に。4組の。え、あの時の?全然ちゃうやん。大学デビュー?まああんな画像出てもうたらな。え、あれほんまやったんや。ほんまほんま。エロ本のコラ画像やろ?出会い系にばら撒いたってヤツ。それだけやのうて、


「AVに撮られたとかって」




漣立つ囁き、腫れ物と好奇の目。増幅する騒めきは届いたはずだ。

芒色の金髪の下、垂れ目と通った鼻梁、薄い唇の甘い顔から、人好きのする愛想の良い笑みが、ゆっくり滑り落ちていく。

誰かが言う。言わなくてももう悟られただろうに。


「そいつ、羽鳥やろ…?」


合皮の座席の臭いを嗅いだ気がした。


大音量のヒップホップ、染み着いたタバコと生臭い呼気。下卑た嗤いと体を這う手。

足元がわからない。揺れている。
ボックスカーの座席のように。


「…は?そんなわけ…」

せり上がる嘔吐感で目の前が眩んだ。「行こう宮永」。友人が席を立って、



不意にホテルの重厚な扉の蝶番が乱暴に軋む音がした。
退路を腐らすような人溜まりの向こう、人混みを押しのけて飛び込んでくる、周囲から一つ抜けた鈍色。


視線は一瞬で繋がった。まるで糸で結んだように。

高級ホテルのささやかな非日常を楽しむ客たちが平和に行き交う二、三十メートルを、貫くほどに狂いなく。


目前の男と寸分違わず同じ造りの顔に浮かんだ、寸分たりとも重ならない焦燥が網膜に灼き付いて、


「─────、」


刹那、何かが弾け飛んだ。

思考か怯懦か戦慄か、ショートした白熱で消し飛ぶように。











ぱしゃん。

散った音は軽く、煌めいた氷は美しく────翻った薄茶色は、見る間にシャツを染めていく。

文字通り、水を打ったような静寂だった。豪奢な扉を出入りする客達の明るい囁きが、凍りついた一帯を虚しく通り抜けていく。

カツン、涼やかな音が響く。中身も氷も空になった華奢なグラスがテーブルに戻された。屈んだ身が起こされて、垂れた髪はゆっくり払われる。

ゴールド調のシャドーの下、同系色のカラコンを入れた瞳が持ち上がる。傾げた小首から斜交いに、今しがた顔面から被ったコーヒーを滴らせた青年を捕捉した。

透けるほど白い横顔の中、シアーレッドのリップが薄く笑んだ。嫣然と開いた唇、覗いた白い歯が、痛烈な軽やかさで告げる。


「───大目に見てよ」

飲めるだけマシでしょ?


誰も何も言わなかった。
ワインレッドのネイルの指先でハンドバッグを取り上げて、凍りつく友人も残したまま、翠は侑を通り過ぎて歩き出す。
そろそろと後退った人垣の真ん中を、向けられるどの視線にも応じることなく。

伸ばした背に迷いはなく、前を向いた視線にブレはなかった。飛び込んだそのままに立ち尽くす治の鼻先を、香水かシャンプーか、すれ違いざまの微かな風圧で残り香だけが掠めていく。

彼女の背を追った同級生らの視線がおのず、渦中の青年と同じ顔をした双子の存在を捕捉する。ざわめきが戻ってくる。ようやく異変に気が付いたホテルスタッフの怪訝な顔。

治と侑の目が合った。いまだ混乱の渦中、事態は半分も呑み込めていないはずだ。一瞬口を開きかけた侑は、しかし一拍、言葉を呑んだ。困惑と察知。いい判断だ。煮える頭が呟いた。

道は翠が残している。凍りついた空気を踏みしめて、割れた人垣をゆっくり抜けた。


「おい、ツム」
「…なんや、サム、お前なに」


キレとんねんとか、知っとんねんとか。続いたならきっとそんな問いだ。

感謝せえ。


「歯ァ食いしばれ」


それを口にする前に、一発で済ましたる。











どん、がしゃん、ぱりん。

スイーツバイキングの会場はどっちですか。
大理石の白い床、豪奢なシャンデリアのロビーまで届いた同時多発的な騒音に、舌先まで出かかった言葉を飲み込んだのはロビーに立つホテルスタッフを捕まえたところだった。

「あっちだね」

スナと呼ばれた青年の冷静な指摘に一瞬驚く。察しだけでなく耳もいい人らしい。彼が向いた先はロビー奥、フロントの脇の緩やかな螺旋階段の上方。

赤い絨毯の敷かれたそこへ足を向けるか迷って、踏みとどまってよかったと思ったのはその直後だ。
階上から迷いなく降りてくるヒールと、アッシュグレーのロングヘア。

「ちょっ、とすみません」
「?」

白いシャツの後ろに引っ込んだのは反射だった。治くんと同窓であの親しさ、ぱっと見は細身だが恐らくこの人もバレー選手だ。バランスの良い長身に見合う肩幅はそう狭くない。

怪訝そうなスナさんを無視してその背に忍んだものの、余計な心配は杞憂に終わった。踵を鳴らして降りてきた宮永さんは、躊躇いなくロビーを横切ってエントランスへ抜けていく。
表情は見えなかった。足取りはしっかりしていた。…泣いてないだろうか。これも余計な心配か。

「今の、羽鳥?」
「…多分そうです」
「多分?」
「私が知ってる彼女の名字は、羽鳥じゃなくて宮永なので」
「……、アンタ、見つかるとマズイ人なの?」
「いえ、まずいというか…」

『グルだったの』。
強張った猜疑の表情がよぎって気が重くなる。今回ばかりは全くの偶然と言えないだけに後ろめたい。中途半端な余所者なのに絶望的なこの間の悪さ、そろそろどうにかならないだろうか。
静かに応答を求める眼差しに、観念して言葉を返す。

「…通りすがりの部外者なんですけど、居合わせる場が毎回悪くて」
「今のこれは自主的に飛び込んできた感じだけど」
「そ、…いやそうなんですけど」

平坦な切り返しで図星をつかれる。淡々として理性的。他人事かと思う構えに伴う油断ない観察眼と洞察力。
やりづらいタイプのはずなのに、何とない気安さを覚えたわけを理解する。そうか、この人、赤葦くんにちょっと似てるんだ。思えば色白の細面も、センター分けの黒髪も。

「あ」
「、」

これもスナさんの耳の方が早かった。やや荒れた足音で駆け下りてきたのは、公園から追ってきた銀髪の彼のもの。
やはり何かあったらしい。こちらに気づく様子もなく一直線にエントランスへ向かっていく彼の、険しい横顔にふと違和感。…口元に赤。

「うわ」
「血…!」
「高校の体育館じゃないんだけどね、ここ」

呆れたように呟くスナさんの落ち着きにちょっと引いた。感心を超えて疑念が湧くレベルである。もしかしてこの人マジの部外者だったりする?治くんと親しげに話してたし、元チームメイトかと思ったんだけど。
赤葦くんならもうちょっと人間味のある反応をする気がする──無意識に思って首を振った。

「双子の殴り合いなんて日常茶飯事だったから。ハタチにもなって公共の場でってのはどうかと思うけど」
「…それは…なんというか」

どうも顔に出たらしい。如才ない解説だけど冷静に納得するにはアグレッシブすぎる。
治くんは行ってしまった。侑くんが降りてくる気配はない。会場の一悶着は階下のフロントにも伝わったらしく、スタッフさん達の動きが俄に忙しなくなっている。

…十中八九、先に手を出したのは治くんだろう。その彼さえ頬を腫らしていたとなれば、先制を食った侑くんが無傷だとは思えない。
いささか迷い、結局縦に抱えていたスポーツバックを背負い直して、常備の湿布を引っ張り出した。ティッシュと一緒にスナさんへ差し出す。

「必要なら渡してもらえますか」
「え、自分で行けばいいじゃん」

冗談言ってんのかなこの人。どう考えたって修羅場の跡地だぞ。

「私が行ったらヘイト買いそうで」
「…アンタ、ホントにあの双子とどういう関係?」
「そろそろこっちが聞きたいというか…」

じわじわ好奇心を押し出してくるのやめてほしい。いいかげん解説が欲しいのは私の方である。

「羽鳥のことは聞いてないの」
「…断片的にしか。それも成り行きで、直接何かを聞いたことはありません」
「具体的には?」
「……高校時代、宮永さんが、侑くんと周りの人たちと揉めて…最後はどうも、犯罪まがいだったというか、警察沙汰になったとは」
「…ホントに断片だね」

そんな生易しい話じゃなかったよ。

体の芯がすっと冷えた。その言葉の意味するところにも、落ち着いた声にまるで感じられない温度にも。

「逆に、それだけしか知らないでよく地雷踏み抜かなかったね」
「もう踏み抜いてますよ、一度と言わず」
「踏み荒らしはしなかったわけだ」
「……当たり前でしょう。人の事情ですよ」
「まあそうだけど」

…掴みづらい人だ。もっと言えば、落ち着いた佇まいの向こう、掴みかけた芯の思わぬ冷たさに身が竦む感覚。赤葦くんとの差異をはっきり知覚する。同じ静かな声音でも、彼の声には血の通った感情の──それが慈しみでも怒りでも──手触りがいつもある。

目を瞑って感情をリセットする。わかってる、今しがたそこで会ったばかりの人だ。情動を読み取れるほど知りもしない相手に向かって、冷たいとかAIじみてるなんて随分な失礼だろう。

(ただ、ちょっと似てたから)

思って、その理不尽な言い訳に、ゆっくり胃が沈んでいく。
似た人に面影を追うほどに、遠のいている彼の存在に。

頭を振って、下がりそうになった手の中の湿布とティッシュを、スナさんに無理やり押し付けた。

「やっぱり帰ります。勢いで来たけど、結局部外者がいても仕方ないんで」
「…、アンタ名前は?差出人不明じゃ困るじゃん」
「名前出したところで覚えてないと思いますよ」
「本音は?」
「…ホントにヘイト買いそうなんですって」

わかってて聞いてるなこの人。
ついさっき治くんにも八つ当たりされたところだ。彼よりやりづらそうな侑くんのヘイトを買うのは是非とも避けたい。

思うに治くんの無関心は基本的に実害がないが、侑くんの気まぐれそうな印象には台風の目になり得る危うさを感じた。乱闘が事実なら機嫌は急降下、熱帯低気圧と化している可能性もある。
そうでなくとも中途半端に一枚噛んだ人間が、このタイミングでしゃしゃり出るのは明らかに悪手だ。余計な水蒸気を供給して台風に格上げなんて御免である。

そんなことを極力オブラートに包んでこぼせば、スナさんはちょっと目を見張る。それからどこか愉快げに口角を上げた。

「なるほどね」
「…はあ」
「いいよ。頼まれてあげる」

彼はあっさり背を向けると、螺旋階段の方へ爪先を向けた。そうして足早に行き来するスタッフの合間をするする上っていく。
…これは本当に無駄骨だったようだ。冷静に考えて、結局介入するなら当然気心知れた関係者の方がいい。最初からスナさん一人送り出しておけば十分だった気がする。

徒労に思わずため息が漏れる。帰るか、と視線を逸らしかけて、不意に螺旋階段の内側、降りてきた女性──若い女の子がスナさんと鉢合わせるのが見えた。
たたらを踏んだ女の子が、バランスを崩して足を踏み外す。あ、と言うまでもなく伸びた右腕が、ミニスカートの細い腰回りを掬った。

「おお」

体幹が良い。腕力も相当だ。右足を次の段にかけた体勢から、華奢な女の子とはいえ人一人を腕一本で支えている。
驚き固まる彼女をゆっくり立たせて一言、スナさんは階上へ姿を消す。取り残された女の子は、ガールズバンドのボーカルみたいな半分ピンクの髪の下、みるみる真っ赤に染まった頬を押さえた。

「…おお…」

色男って罪深い。
パッと目を引く派手な容姿に反し、可愛らしい反応とやや危なっかしい足取りで階段を降り切る姿にほっこりする。

多分赤葦くんも、あの程度のことはさらっとやってのけるに違いない。体格も遜色ないし視野も広い。高校の頃から無気力そうに見せて周りをよく見ている人だった。それに心惹かれる人も、…。

「…かわいい人だったなあ」

誤魔化すように呟いた。今しがたのボブの彼女も───飲み会の帰り、彼が自ら背を貸していた宮永さんも。宮永さんに関して言えば、かわいいと言うよりきれいな人だけど。

(泣いていないといい)

居酒屋のカウンターの向こうで、スタバのテーブルの向こうで見たような、撃ち抜かれた後のガラスみたいなひび割れた顔をしていないといい。
そうでないならせめて誰か、手を引いて歩いてくれる誰かがいれば。

だって、同じ泣いて帰るにしたって、それがあるかないかじゃ雲泥の差だ。
前をゆく背中が、手を引く手が、ねぎらいの言葉があることが、明日の自分をどれほど救うだろう。

私は身をもって知っている。
教えてくれたのは赤葦くんだった。

宮永さんにとっても、そうなるんだろうか。


ほっこりしていたはずの胸に、急に隙間風が吹いた気がした。空っぽの手首をぎゅっと握って、そっとホテルを後にする。

日はとっぷり暮れていた。薄雲が一番星を霞ませている。
運動公園に置き去りの自転車を拾うべく、走ってきた道をゆっくり引き返した。



211027
ツートンボブの恋路も書いてみたい。ギャル@純情系×爽やか@腹黒系とかゴリゴリに少女漫画すぎて一才書ける気しませんが。

……番外編なら…番外編ならワンチャン…

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