セレスタイト・トワイライト


一週間ぶりに開けたアパート階下のポストには、うんざりするほどのチラシや封筒が押し込まれていた。

うっわ、と漏らしつつ、なにが混ざっているかわからない。片割れのように大雑把かまして重要書類も一緒に捨てて、あとで大騒ぎするのはごめんだ。面倒ながら中身を捌いて、余計なチラシをエントランス備え付けのゴミ箱に投げ込んでいく。

そうしてより分けていった最後の方、機械的に動かしていた手が止まった。同窓会のお知らせ。宛先を見るに元は実家に送られていたのを、母親が転送してくれていた。

「…6組?」

三年の自分のクラスじゃない、と思いかけて、詳細を読んで理解した。開催地が地元兵庫でなく都内のホテルになっている。主に上京組を対象とした有志による同窓会のようだ。クラス単位ではなく学年単位での同窓会なのもそのせいなのだろう。

幹事に連なった名にはうっすら覚えがあった。確か女バスの主要メンバーと、サッカー部の副主将。思い出せばいかにもこういう企画が好きそうなタイプだった。

「お、それ俺んとこにも来てたな」
「ツム、行くんか」
「別にどっちでもええけど、葛西から直接連絡きて、対参加してーって言われたしな。覚えとるやろ、Eカップの女バレのリベロ」
「お前のクソみたいな覚え方とは違うけどな」
「紳士ぶんなムッツリ」
「死ね色情魔」
「そんな言う!?なんやねんお前、最近当たりキツないか」

不満げな声を無視してハガキを握りつぶす。配達ピザのチラシと一緒にゴミ箱に投げ込んで、そのままエントランスを出た。8時にして高く上がった太陽が、朝日と呼ぶには暴力的な光量で照りつけてくる。

「なんやサム、行かへんのか。別にこういうの嫌いちゃうやろ」
「気分ちゃう」
「…ふーん?」

キャップを目深に被り直す。追いついてきた片割れはそれ以上突っ込むことなく、さっさと別の話題について喋り始めた。
引きがいいのは8割の無関心と、2割の察知からだ。こっちの反応に興味を失ったのもあるが、不機嫌も察しての話題転換。思いやりとか気遣いじゃない、ほとんど本能に近い対応。

腐っても双子だ。文字通り生まれた時から、正確には生まれる前からずっと一緒だった。好きとか嫌いとか、そんな次元じゃ測れない半身。腹の立つことが無数にあっても、真から憎めるかと言われたらきっと無理だ。


──窓際で風に揺れた細い髪と、陽光に透けた薄茶の瞳。

直接手を下したわけでも、裏で糸を引いたわけでもない。
ただあまりに思慮に欠け、無関心が過ぎ、巡り合わせが最悪だった。

一匹の蝶の羽ばたきが嵐を生むように、中心から離れた外縁で巻き起こされた凶行。


「……」

割り切れないのはそのせいだ。
もうずっと燻ったまま、納め方もやり場もないのは。












(…やっぱりこの女、見た目と中身が妙にズレとんねんな)

都郊外、某運動公園の一角。
宮治はほとんど無に近い呆れ顔で、改めて実感した。

通りがかる若い女たちの華やぐ視線を浚う甘い垂れ目に、見る人が見れば明白に半分死んだ光が浮かぶ。その矛先には、ハーパンにシャツのラフな格好で、彼の到着からカウントしてもすでに7回目になる懸垂を繰り返す女の姿があった。


『ちょっと話しておきたいことがあるんだ』

食堂のセルフコーナーで行き合ったのは、おそらく今回は偶然じゃない。
水を注ぐ治の横へさりげなくやってきた蒼衣は、彼を見るでもなく茶を淹れながら、独り言のようにそう言った。

言うまでもなく、蒼衣が個人的な用件で治に話しかけたことはほとんどない。治は一瞬動きを止め、黙ってスマホを取り出した。無言のふるふるで追加されたアイコンは、夏の海を背景に、波止場に並んだポカリとマッチ。
思えばそれなりの接点にも関わらず、連絡先を交換する機会はこの時が初めてだった。映画の一件はノーカンである。そも、大学生にあるまじき発想の欠如だが、ラインを交換する思考がなかった。無頓着なのは治だけでなく蒼衣も同様である。

そも、あの時は一般教養の講義終わり、シネマサイトを確認していた蒼衣のスマホがたまたま治の目に入り、なんとなく会話になって、流れで時間と場所を決めて現地集合しただけだ。別に仲良しこよし行ったんじゃない。パンフレットを買ったのだってマイナー映画で盛り上がるツボが悉く同じなもんだから、ちょっとテンションが上がっただけだ。そう、深夜テンションみたいなものである。
閑話休題。

ともあれ簡潔なやりとりを経て決まったのは、日曜、治のバイトと蒼衣の部活の合同練習が終わる夕刻、二人の帰路の動線上に位置する公園での待ち合わせだった。

なんとも色気のない蒼衣の提案に治も特に異論なかった。カフェで茶を飲むには半端な時間だし、サシで食事に行く仲でもない(これこそ前回のはノーカンだ)。
夏だけあって夕方でも明るいし、そこそこ人目がある公共の場だ。そう警戒せずとも取って食いやしない、と思う反面、余計な噂の回避、妙な気がないことを示すこちらへの配慮とも取れるか…と、冷静に分析して。

見事11回(推定)まで続いた懸垂を見れば、その深読みもアホらしいというものである。

「…15がっ…遠い…」
「うっわ15もする気とか…」
「えっ宮くん?いつからいたの」

芝生に大の字で寝転んだ姿勢から腹筋だけで起きるなり、整えた息で「声かけてくれればいいのに」。あのガチ勢の懸垂をどう邪魔しろと。ていうか15て。1日合同練習しとったんちゃうんか。

「リレーとかそんなんが多い日で、あんまりがっつり泳げなかったから」
「さよか…」
「宮くんはバイト終わりだったね。ごめんねわざわざ」
「…いや」

簡単なストレッチ、汗を拭い、シーブリーズを振り一息つく。手近なベンチに腰掛けてそれを眺めていた治は、蒼衣が再び芝生に腰を落ち着けたタイミングで、デイパックから取り出したコーヒーを名前へ投げた。
片手で掴んだ冷たいそれに、礼を言う蒼衣は少し驚いた様子だった。結露したプラカップのカフェオレ。彼女が一般教養の講義中によく飲んでいるメーカーを、治は記憶に留めていた。

飲み物を傾ける静寂を、遠くで子供たちのはしゃぐ声と黄昏の近い蝉時雨が埋めていく。

「先週、宮永さんがうちの部に来て」
「、」
「飲み会の帰り、私がその場にいたのを聞いたみたいで、わざわざそのお礼を言いに。でも、治くんが一緒だったのは知らなかったみたいで」
「…」
「隠すのも変だから、きみもそこにいたって正直に彼女に話した」

言葉を切った蒼衣はふと足を伸ばし、さっきひと段落つけたはずのストレッチを再開する。治はそれを眺めながら、漫然と思考が滑るのを感じた。
蒼衣は時折、治を苗字と名前で呼び分ける。そのニュアンスの違いが、今になってゆっくりと浮かび上がってくる錯覚。

「あの場に居合わせたのは本当に偶然で、きみが宮永さんとのことを私にも、多分他の誰にも言いふらしたりしてないってことも。それから、」

蒼衣は再び言葉を切った。前屈し、長く息を吐いて体を戻す。
淡々とした声音は、かすかな緊張を押して一息に言い切った。

「私には治くんが居酒屋でのことを、宮永さんにすまなく思ってるように見えたってことも」
「…」

異論はない。同時に、余計なことを、と言いたい気持ちがないと言えば嘘になる。
だが治はすでに白河蒼衣が、良くも悪くも弁えるべきを弁える人間であることに当たりをつけている。
そしてその予想は違わなかった。

「私は事情の全体像がわからないし、あれこれ聞く気も特にないから、私の主観を喋ってきたの。
だから、もし訂正が必要なら、彼女に直接言い直してほしい」

(…思った通りや)

治は今度こそはっきりと、眉間に皺が寄るのを感じた。
真っ当な距離感、ごもっともの大正解だ。何も間違っちゃいない100点満点の最適解。
気に入らないのは自分がガキだからだ。そして、それがわかるから余計に不満なのだ。

その不満は思ったまま、ほとんど脈絡なく口に出た。


「──お前、ほんまにイヤなヤツやな」


途端、ぴしり。
治の視界の端で蒼衣が動きを止めた。そうして短い黒髪を乗せたその細い首が、ゆっくりと治の方へ捻られる。

「…あのさ、流石に怒っていい?」
「、」

明確に冷えた非難の眼差しに、治は思わず目を瞬いた。あれ、そこ食いつくん?

「きみの心情を勝手に代弁するような真似したのは謝る。余計なお世話だったね。ただこれでも全方面に最大限気を遣ってきたつもりだし、そもそも最初に部外者の私をダシにして巻き込んだのはきみの方だろ」

そして怒涛の反駁である。治は怒るどころかまじまじと、垂れ目を大きくして蒼衣を見つめた。

「…なんや、アンタ、そこそこ迷惑がっとったんか」
「えっ何その『意外です』みたいな顔、それ当事者がする顔なの?別に迷惑とかじゃないけど、普通に神経使うだろ。なんなら擦り減るくらいなんだけど」
「そんならそう言えばええのに。聖人顔でしれっと最適解出してきよるから、だんだんコイツなんやねんて思って」
「奇遇だな、今ちょうど私もきみに対してそう思ったところだよ。ついでに私の擦り減った神経の削りカスを買い取ってほしい」
「コーヒー奢ったったやん」
「私の神経118円なの?セールだったら109円とかになるんだけど?」

撤回する、彼女と直談判はやめた方がいい。きみみたいな傍若無人、今以上に拗れて終わりだ。

存外ばっさり、遠慮なく言い放つと、蒼衣は噛み付くように憤然とストローをくわえた。およそ品のない音を立ててカフェオレを吸い上げる横顔は、これまで見てきたどれとも打って変わって子供じみている。

なんやこの女。こんな顔もできたんか。
遠慮なく言い捨てられたのもよそに、治はだんだん可笑しくなってきた。腹の底が愉快になって、肩が震えて喉が鳴る。最後にはつい吹き出したせいで、蒼衣は完全に臍を曲げたようだった。
そのまま荷物をまとめて帰らんばかりの蒼衣を、治は謝罪と一緒に引き留める。

「すまん、すまんて。感謝しとる」
「そんなに素直にお礼が言えるならすぐにでも仲直りできそうだね。部外者は大人しく退場するよ、当事者でごゆっくり」
「悪かったって。アンタがあんまり物分かりのええ顔して丁度ええことばっかり言うから、全部見透かされとるみたいでムカついたんや」
「言い直したところで言ってる内容割と人でなしの自覚ある?やってることメンタルヤクザだよ?」
「(メンタルヤクザとは)…それも謝る。俺がガキやった」
「…」

悪いと思っているのは本当だ。冷静になって振り返れば、この同輩にしてきた扱いには随分なものがある(それこそ双子の片割れと同列扱いの“人でなし”の不名誉も返上しかねる振る舞いである)。
治の謝意はその声音の微妙な色から汲み取れたらしい。蒼衣はまだ憮然とした色を残した表情ながら、ひとまず謝罪を呑むことにしたようだった。
担ぎ上げようとしていたエナメルを脇に置き直すのを見て、治は肩の力を抜いて言う。

「白河サン、アンタ、普段からそうしとったらええのに」
「…?」
「いっつも『なんでも平気です』みたいな顔しとるけど、それ、自分損するやん」

虚を突かれたように、蒼衣は目を丸くして治を見つめた。
その様子に治も目を瞬く。意外なほどの反応だった。

そして考える。もしかすると、思っていたよりパーソナルスペースが広いタイプなのかもしれない。考えてみればこの人当たり、察しの良さはその裏返しとも取れる。裏返しと呼ぶには非常に高度だが──いや、むしろ鉄壁と言うべきか。
当たりの優しい不干渉、やわらかな防衛反応。だが、その壁は厚く高い。

「…損」
「おん」
「…逆じゃなくて?」
「うん?」
「なんでも平気な顔してた方が、得じゃないかって」
「…。まあ、場合によってはそうやろうけど」

例えばコートの上なんかがそうだ。全部顔に出る選手もいるが、往々にして負の感情は特に表に出さない方がいい。それは勝敗のかかった試合だけに限らず、バイトの接客中とか、面倒なナンパとか、そういう場面にも言えることだ。
逆に言えば、

「ふつうの人間関係にまで徹底しとったら疲れるやん」
「…」
「他人に関わりたくないってんならそれでええと思うけど、アンタ、別にそういうタイプにも見えへんし。素がわかった方がおもろいでってだけ」
「……」

考え込むように黙った蒼衣を横目に、治はしばらくして視線を前に戻した。
誰だって何がしかがある。尋ねないのはお互い様だ。だから、少しだけ間を空けた。

蓋をして記憶の底に押し込んだ経緯は、この女の目にはどう映り、その口は何を語るのか。
知りたいような気がして、だが沈黙を破ったのは、鈍い打突音と視界の端で風を切る球体だった。

「すみません!」

球体がバレーボールとわかったのは視界に入ってコンマ1秒、走ってきたのが中学生ほどの学生たちだと分かったのは、芝生に腰掛けていた蒼衣を飛び越えた治が、オーバーで高く上げたそれを片手で捉えた時だった。

スパイクかサーブの練習をホームランしたんだろう、慌てた様子で駆けてきた少年らが、呆気に取られた顔をする。人ひとり飛び越えてとは思えない完璧なポジショニング、足腰の安定感、球の勢いを完全にいなして柔らかく上げる指と腕。素人目にも手練れとわかる身のこなしに、少年たちの瞳が見る間に輝いていく。

治はキャップを深く被り直した。気ィつけや、と一言返せば、ボールを受け取る礼と共に矢継ぎ早の質問が飛んでくる。

「あの、もしかしてプロとか」
「まさか、プロに怒られるわ」
「じゃあ大学リーグで?」

中学生にしてなかなか詳しい。キャップの下で治は笑う。
蒼衣はそこに、過去とバレーと少年らへの、懐かしむような慈しみを見た気がした。

「高校までや。春高はええとこまで行ったけどな」
「すげえ!」

あまり長く顔を晒しては双子の存在を思い出される可能性もある。だが、休日返上で練習する心意気と表面の擦り切れたボールを見れば、治も無碍に扱う気にはならなかった。

軽く質問に答えてやれば、あっという間にちょっとした青空バレー教室が開講される。軽くフォームを見てやって、腕の角度、手首の使い方、簡単な手本。
ものの10分はすぐ過ぎた。曲がりなりにも連れがいる。蒼衣は何を言うでもなかったが、治はその視線が終始自分に注がれているのに気づいていた。

名残惜しそうな少年らを見送って、治は蒼衣に意識を向けた。不満でも好感でもない、だがぼんやり眺めているだけと取るには不透明の質量をそなえた視線。
治の無言で眼差しに、引き出されるように蒼衣が問うた。


「治くんは、なんでバレーを辞めたの?」


治は一つ瞬いた。それがスイッチを切ったように、蝉時雨が不意に途絶える。
気づけば斜陽は遠のいて、明度を落とした東の空が淡い紫に沈み始めていた。

それは蒼衣の、恐らく治が初めて聞く、思考を介さない心の呟きだった。
蒼衣は会話に慎重だ。付き合いが浅い治にもわかる。彼女は常に思考のフィルターで濾過された言葉だけを提示してきた。
その蒼衣が初めて晒した無防備の矛先が、何ゆえ自分の競技人生の進退へ向いたのか。

怪訝さは顔に出たはずだ。だが蒼衣はじっと返事を待っている。
間を計るように首裏に手を伸ばせば、食材を扱い包丁を握ることに慣れた指先に、捉えたばかりのボールの余韻が蘇った。

音もなく舞い降りる夕刻の薄闇が、互いの表情を遠くさせる。治はゆっくり言葉を手繰った。

「…バレーも好きやけど、何して一生食うていきたいかって考えたら、バレーよりめしやなって」
「…」
「人間、自分の一番好きなことで食うていけんのが一番やろ」

考えて、でも出てきたのは結局、片割れの侑にしたのと大差ない説明だった。何も難しいことじゃない。少なくとも治にとっては矛盾も複雑さもない、ごくシンプルな結論だ。

多分、望めばバレーでも食べていけただろう。治にはその才能と実績があったし、引退を明らかにした後でさえオファーは数多くやってきた。

でも横で、本気でバレーで生きていこうとしている片割れを、一番近くで見ていればわかることがある。
侑は酷く拗ねて食い下がったが、治の決意は揺るがなかった。


蒼衣は随分長いこと黙っていた。問うだけ問うて返事もよこさず平気でこれだけ黙っていられるあたり、やはりこの女、人にとやかく言えないほどには図太い神経をしていると思う。
とはいえコーヒー1杯じゃ賄えない借りがあるのも事実だ。その沈黙が彼にさらなる言葉を求めるものでないことも分かったから、治も黙って夕風に吹かれていた。

斜陽が潰えて夕雲に茜差す。不意に蒼衣が口をきいた。

「治くん」
「ん?」
「ありがとう」

夜風に溶けるようでいて、ひらがなを刻むような五文字だった。幼げで老生した、不思議と耳に残る響き。

真意を問う間なく、蒼衣はさっさと身支度を整え始めた。飲み干したカップにストローを押し込み、見渡した先に見つけたゴミ箱に投げ入れる。ナイスコントロール。

「ごちそうさま」

感傷のない声音だった。あっさりした表情へ、瞬き二つと頷き一つ。治もまた、ベンチに置いていたバックパックを肩に背負った。

何を言うでもなく並んで出口への小道を進む。そういえば先月見つけた美味いラーメン屋があったのは、確かここから程近い裏通りだったか。
すり減らさせた精神の削りカスを買い取るのに、890円の醤油ラーメンは安上がりだろうか。

サシでメシに行くほどでもない、なんて思っていたのをまたもや棚上げして、治はそんなことを考える。
木立の向こうに通りの街灯がちらついて、行き交う車の走行音がはっきり耳に届いた。なんか食うて帰るか。そんな言葉が自然と舌先に乗って、その時だった。

「あれ、治?」
「…角名?」

聞き覚えのある声に首を捻って、捉えた姿に目を丸くした。
オーバーサイズの白Tシャツとゆったりした黒のパンツ、シルバーチェーンのネックレス。シンプルなコーディネートが引き立てる艶のある目元の狐目が、センター分けの黒髪の下、わずかに瞠目して治を映す。
共に関東圏へ進学しながらも、バレーを続ける侑ほど頻繁には会っていない同輩、角名倫太郎は、驚いたように言いかけた。

「なんだ、行かないって言ってたんじゃ…、」

涼やかな瞳が不意に、治の半歩後ろにいた蒼衣を捉える。言葉を仕舞って怪訝そうな顔をした角名へ、蒼衣は一瞬治を伺い、それから軽く会釈した。
途端、はっきりわかるほど、部外者の気配が線引かれる。治は場違いながら感嘆した。改めて意識して見ると、この女の空気の扱いはちょっとした一芸か才能だ。

対する角名も空気には聡い。居合わせただけの他人に徹する蒼衣の気配を正しく汲み取り、早々に会話の枠から外すと治の方へ向き直った。

「久しぶりじゃん」
「角名こそ珍しいな、こっちに出てくんの」
「その口ぶりだと、ここにいたのはマジでたまたまなんだ」
「何が?」
「同窓会、今日の7時からだろ。ハガキ来なかった?」

この近くの、なんだっけ。ちょっといいホテルでやるってやつ。
そう付け加えられて思い当たった。先週初め、ポストに投函されていたアレだ。日程もろくに確認せずにゴミ箱に放り込んだものだから、すっかり記憶から失せていた。

「あれ今日やったか。近くなん?」
「そう。治は行かないって侑が言ってたのに、ここで会うからびっくりした」
「いや、全くの偶然や」
「みたいだね」
「角名は行くんやな」
「まあね。治はこの後用事でもあんの?」
「んー…いや、」
「──あの」

そういう気分やなかった。そんなことを適当に言おうとして、遮られたのは予想外だった。

治は思わず半歩後ろを振り向いた。存在感が戻されている。空気に徹するとしていたはずの蒼衣が、治ではなく角名を真っ直ぐ見上げていた。
一瞬瞠目した角名は、目を細めるだけの、ともすれば不快とも取れそうな反応を寄越す。だが蒼衣は全く動じなかった。

「そのホテル、ロイヤル・パール…とか、そんな感じの名前ですか?」

角名は治をチラリと伺う。だが治は目だけでそれに応えた。蒼衣が無意味に会話に割り込まない人間であることを彼はすでに知っている。
促すような治の様子に、角名はジーンズのポケットに手をやると、取り出したハガキに目を落として言った。

「”ホテルロイヤルパール・ヴィシェ”。系列店ってやつだね」
「……、治くん」

単調な角名の返答に、数秒ほど黙した蒼衣は不意に治を見上げて言った。

「私の記憶違いか、杞憂ならそれでいいんだけど」
「…なんや」
「先週彼女と会った後、私、スイーツバイキングに誘われたんだ」
「…?」
「友達からもらったチケットで、期限が近くなってたらしいの。ちょっといいホテルのやつで、もらったのをダメにしたくないし、予定が合うならどうかって」

でも私、その時にはきみと会う約束をしてたから。

「そしたら宮永さん、他を当たってみるから気にしないでって」


蒼衣の口調が僅かに早まるのがわかった。
至極冷静な声音が見せた隠しきれなかった綻びに、治はゆっくり表情を変える。

蒼衣は治との約束を理由に翠の誘いを断った。
その約束とは、まさに今日のことだ。


「チケットの期限、確か今週末だった」

治には決定打だった。次の瞬間蒼衣が見たのは、身を翻して走り出す治の広い背中。

「待っ…行ってないかもしれない!もし行ってもバイキングは昼間だ、時間も違う!」

咄嗟に叫ぶも返事はなかった。話に置いてけぼりの角名と、追いかけ損ねた蒼衣を残し、引退して一年以上経つとは思えぬスピードで、治は通りの向こうへ遠ざかっていく。

「…追いかけた方が良さそう?」

この場で仔細を聞くでもなく、血相を変えた二人を見てそう判ぜられる角名の油断ない察しの良さに、蒼衣は一瞬口をつぐんだ。
その低温の眼差しを見つめ返し、…ともすれば緊急事態だ。腹を括って口にする。

「スナさん、“羽鳥”さんってわかりますか」
「!」

角名が表情を一変させた。それで十分な返事だった。
自転車を取りに行く時間も惜しい。「とりあえず行こう」と先行する角名を追う形で、蒼衣は重たいエナメルを背負い直して走り出した。


210915
2年生組をたくさん出したい。

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