解き放て、夏雲

「…あ、お久しぶりです、白河です」
『何』
「いや、先輩元気にされてるかなって」
『…。暇なヤツ』
「…へへへ」
『…』
「宮城ももう暑いですか?」
『東京よかマシ』
「あ、記録会見ました。入賞おめでとうございます」
『どーも』
「もしかして、強化合宿に招集されたり?」
『補欠枠でね。面倒だから蹴ったけど』
「面倒ってまた…」
『白河は』
「自分ですか?」
『水泳、どうなの』
「…うーん、ぼちぼちですかね」
『…』
「光琉先輩」
『何』
「……いえ、やっぱりなんでもないです」
『…』
「すみませんいきなり。ちょっと…懐かしくなっちゃって。電話を」
『見当違いかもしんないけど』
「、はい」
『あんたの“競泳”の進退だなんだを“今更”考え始めたってんなら、高校の引き継ぎの人選理由から市原に問い合わせな」
「!」
『腐っても元主将だからね。卒業しようが何だろうが、説明責任はあいつにある』
「……腐ってもって。すぐまたそういうこと言う」
『それ以外の要件なら話まとめてから電話しな。事前に連絡も』
「…はい」
『…』
「…へへへ」
『気持ち悪いヤツ』
「うっ酷い」
『……白河』
「?」

『あたしは別に、あんたが無能だと思って推さなかったんじゃない』

ぶつっ。ツー、ツー、ツー。

「……わかってますよ」

わかってるから、わからないんです、先輩。











「久しぶり、ひつまぶし」
「…それギャグとして成立してんの?」

しかも頼んでるの親子丼だし。
とぼけた顔が瞬き一つ、いそいそ引いてくれる椅子に礼を言って腰掛ける。カウンター、一つ飛ばした席をすすめてくれる些細な気遣いの距離感が、なんだか不思議と沁みて黙った。

高二半ばからの同輩で、多分唯一と言っていい男友達───福永招平には、当然みたいな顔をして、サラッとこういうことができる。

「私も親子丼にしようかな」

差し出された手書きのメニュー表を覗き込み、結局福永の頼んだのと同じものに落ち着く。注文を待つ間、ゆっくりと店内を見回した。

指定されたのはザ・下町の定食屋、という感じの店だった。年季の入った内装にはやや雑然とした気安さがある。いわゆる昭和の風情というやつか。
板張りの壁には新旧様々な色紙が並んでいる。…どうやらここはお笑い芸人の隠れた名店にあたるらしい。どうりで福永が選ぶわけだ。

メニューが全体に安価なのは、駆け出しの若手のためでもあるのかもしれない。やってきた親子丼もそういう雰囲気のボリュームだ。
胃袋と要相談。思っていれば箸をつける前に、福永の視線が飛んでくる。

「いい?」

頷き一つに感謝し、蓮華ですくって彼のどんぶりへ運ぶ。4分の1ほど任せれば、完食の見通しが立った。…美味しい。これは人気も出るわけだ。

「福永、最近どう」

黙って親指を立てられた。

「山本は元気?」

再び親指。これは半分挨拶みたいなものだ。山本が元気なのは年中行事だから。

「孤爪は生きてる?」
「なんとか」

こっちには言葉が返ってきた。思わず苦笑し、夏には特に弱かった彼の、机に潰れたプリン頭を思い出した。

「そういや彼、動画投稿してるんだっけ」
「ゲーム実況」
「うわ向いてそう」
「収益出て、バイト辞めた」
「え、もうそんな?天職じゃん」

福永を通して知り合った二人とは、卒業してから一度も会っていない。今も親交のある福永経由で、その動向を聞くばかりだ。
特別親しかったわけじゃないけど、二人も(多分正確には山本が、だろうけど)私のことを話題にすることがあるようで、なんとなく途切れない宙ぶらりんの縁が記憶に優しい。

孤爪、バイトは何してたの?…プログラミングぅ?うわ、さすが…へえ、先輩の紹介で。頭いいとは思ってたけどすごいね。
山本は彼女できた?…相変わらずか。あいつねえ、普通に話せば普通にモテるのにね。え?だっていいやつじゃん。

返事は頷きか相槌か、単語単位の応答のみ。声だけ聞いてりゃ私の独り相撲だけど、この対応でもって相手を気まずくさせないのが福永招平という男だ。

別段整った容姿じゃないが、漫画に出てくるみたいな顔はどこか目を引き記憶に残る。基本のベースが無表情なのに、どういうわけか表情豊か。
東京広し美形は多し、でもこの矛盾を一つの顔の上で成り立たせる人間はなかなか稀有な気がする。

本人は芸人志望だけど、個人的には俳優なんかのが向いてそうに思う。こう、特殊な脇役とかで光る感じの。

「…アリだな。演技できる芸人枠」
「ならない」
「即答すぎない?いいじゃん、演技派芸人」

二足の草鞋履きゃよくね?
やだ。
なんでよ。

しょうもなくて軽いやりとりが続く。肩を揺すって笑ったら、福永も気配だけで笑うのがわかった。表情が変わらないのに笑ってるのがわかるって今更だけどなんなんだろう。この感想も昔から変わらない。


「福永、あのさ」

だから、ちょっと会いたくなった。
こっちがどんな顔してようが、いつも変わらないとぼけた顔に。

「私、変わったと思ってたんだけどね」


高二の二学期末。

引っ越してきて数ヶ月して、半ば嫌々編入した都内の都立高だった。
すでに雰囲気の出来上がった教室で、晒される好奇の視線を剣呑に払い除け、不機嫌な自己紹介もそこそこに指定された壁際の席。その反対隣にいたのが福永だった。

「色々あって、音駒にきて…最初はピリピリしてたけど、福永と、みんなのおかげでずいぶん丸くなってさ。もう大丈夫だって思ってたんだけど」
「…」

我ながら相当荒れてたと思う。顔も雰囲気も酷かったはずだ。
にも関わらず編入最初に言葉を交わしたのが、隣の席の男子だったんだから、今思えばおかしな話だ。

でも、このとぼけた顔で隣に腰掛け、こっちのギスギスした態度も意に介さず、必要な時には平然と話しかけてくる彼のスタンスがなければ。
その後の一年、あんなにしっかり音駒に馴染んで、笑って卒業するなんてできなかったと思う。

「……高校のとき揉めた連中が、大学進学でこっちに出てきてて」
「!」
「最近わかったんだ。一回生ン時なんか何もなかったし、噂にも聞かなかったのに。…偶然って性格悪いよね。一回再会したら、頼んでもないのに何回も会うんだよ。マジで偶然だから誰にも文句言えないし」
「…、」
「その度に思い知らされるんだよ、私、全然変わってないなって。尻尾巻いて逃げるしかないんだ。怖くて、……」
「…」
「…そう、怖くて」

息を継いだ。針の小山を呑んだみたいだった。声の芯がぶれそうになる。明るく話したいのに、うまくいかない。

「……事情を知ってる人の一人が、当事者じゃないんだけどね、関係者に近いヤツ。そいつと、なんでかやたら接触があってさ」
「…」
「私、何かされること前提に考えての。無自覚でだよ。なんていうか……病気だよね。冷静なつもりで全然まともじゃなかった。トラウマとかってこういう…被害妄想とか、考え方とか、思い込みで反応することに出るんだなって。よくあるほら、悪夢に見るとかそんな漫画みたいな話じゃなくて、もっと根深い、人格的なとこに」
「…」
「だってよく考えたら私、そいつには別に何されたってこともないんだよ。昔だってただ見てただけ。それもそいつだけじゃないもんね、誰も巻き添え食って狙われたくなんてないし、私だって部外者だったらそうしてた」
「…」
「それに、もし今私をどうこうするつもりでも、それならそうでとっくにやれてるはずなんだ。言い振らすにしても強請るにしても簡単なんだから」
「…」
「…そりゃ…今でも、まだ機会を狙ってるだけじゃないかって思うけど、でも…本当にそうじゃなかったら、私マジで病気だなって。すごい人間不信じゃん。被害妄想もいいとこだよ」
「…」
「…なんか…ねえ福永、私さ、ここまでとは思わないじゃん。あんまりに…私、酷いなって。ちっとも」

箸を置く音がした。

「人間、そんな簡単に変われない」

肩が揺れた。
気づけば首は重く垂れて、視線は箸置きの上を彷徨っていた。

「起きたこともなかったことにはできない」
「…」
「でも、高二の時と今の宮永は全然違う」
「…」
「強くなった」

言い切られる。

「これからもなれる」

きっぱりと。



あとふたくちほどだった親子丼のどんぶりを、福永の方に押しやった。
食べかけで申し訳なかったけど、もう喉を通る気がしなかった。

福永はなんの躊躇いもなく、私の食べ残しを片付けてくれる。
その傍ら、じっと湯呑みを睨みつけて黙り込んでいた私の前に、長い腕が猫の手のように伸びてきた。

招くように丸めた手がポトリ、湯呑みの横に何かを落としていく。

「……。」

白い歯を見せる少年の、赤いパッケージのビスケット菓子。
有名すぎるキャッチフレーズは、

「おいしくて、強くなる」
「……っふ」

今日一番のサムズアップとイキイキした無表情。
ちくしょう吹いた。なんてモノボケ。

思い切り声をあげて笑った。そうすれば目の端が濡れていたって笑ったせいだと誤魔化せる。
お笑い好きに馴染みのあるこのお店の店員さん達に、後々福永が女を泣かせたなんて質問攻めに遭うのは避けてやりたかった。










「白河以外。あとは誰でも」


開口一番言い放たれた不遜で躊躇ない一言は、多少の緊張感を漂わせていた部室全体を凍りつかせた。

咄嗟に声は出なかった。色素の薄い茶色の瞳はこちらに目もくれず、円を作って座った部員の方を見つめて動かなかった。

反射的な、あるいは恐々と、後輩、同輩、先輩皆の視線が向けられるのがわかった。
自分が今どんな顔をしているか、判然としなかった。

「…それは、なんで?」

衝撃の余韻を飲み下したような声だった。
努めて冷静に問うた市原先輩に対し、取って返した応答はやはり躊躇なかった。


「逆に聞くけど、あんたらこいつが幹部向きだから副将してると思うわけ?」


先輩らしく素っ気ない、先輩らしくなく煽りも皮肉もない調子だった。

でもだからこそ、淡々と温度のないその声音に、薄い刃のような嘲りと、煮詰めた憤怒に似た何かを感じ取ったのは私だけではなかったはずだ。


だから尚更、何も言えなかった。

自動的に、ほとんど決定事項のように、このまま主将になるだろうと、なんの疑いなく考えていた自分に気づいて、胃が沈むような気がしてもいた。









「今になって聞きにくるってあんたほんと、…ほんっと実は変な子よね」
『たまに言われます』
「もうちょっと頻繁に言われなさい。今なら治るかもしんないから」

電話越しの後輩が吐息だけで笑った気配がした。
話すのは卒業以来だった。


白河蒼衣。梟谷水泳部にて一つ下の後輩で、元副将で、元主将。
突然の連絡が来たのは一週間前だ。今時家族とのやりとり程度にしか使わない、電話番号のショートメッセージからだった。

「お忙しいところ失礼します」から始まったショートと呼べない長文には、簡潔に言えば「話がしたいからどこかで会えないか、電話でもいい」という旨と、変更されたメールアドレスが書かれていた。
ラインのIDじゃないのは高校時代、部の連絡網がメールだった名残なのかもしれない。あの頃はガラケーが主流で、出始めたばかりのスマホを持っている人はまだ少なかった。

何を聞きたいのか。就活のあれこれ?そんな返信を作っておきながら、不思議とある種の予感はしていた。
それでも、高校時代の引き継ぎの経緯を、まさか本当に今になって聞いてくるとは思わなかったけど。

「言い訳みたいになるけど、今も昔も隠そうなんてつもり一切なかったのよ」
『わかってます』
「…。白河こそ、今更なんで聞こうなんて思ったわけ?」
『うーん…』
「…」
『…え、なんででしょう?』
「ねえちょっとマジで言ってる?未だにマジでそんなふわふわしてんの?」

だとすれば引き継ぎ後の私たちのモヤモヤを今からでいいから返済してほしい。利子つけて。

『いや、なんていうか…あの時も思い当たらなかったわけじゃないんです。よく考えたら私に主将は無理だって納得したというか』
「はあ?そんなわけ…」
『私、途中からみんなと関わるのやめたじゃないですか』

あっさり言ってのけられて、思わず言葉に詰まってしまった。

『大人になったフリして、本当はラクしたんです。あれじゃ主将なんか務まらない』
「違うわ」

顔が見えない電話でよかった。ぴしゃり、切るように遮った声に動揺は乗せずに済んだと思う。
でも、盛大なブーメランを喰らった気分に変わりはなかった。

「そもそもそれ、私に言うの、すっごい皮肉ってわかってる?」

わかって言ってるならまだいい、ささやかな復讐だ。だがこの後輩の場合、これがマジの本音だったりするから突っ込まざるを得ないのだ。

『先輩はちゃんと主将されてたじゃないですか。私とも関わってくださいました』
「マジでやめて。そんなフォロー真に受けられるほど馬鹿だと思われてんならそれこそ心外よ」
『…、』

沈黙する電話の向こうへ顔を顰めた。どうやら納得いかないらしい。…思い返せばこの後輩、存外頑固だった気がしないでもない。
だがこれ以上掘り下げたところで生産性がないのは否定できない。嘆息して切り替えた。

「…そうね、確かに、私たち三年の中にはそういう意見で、あんたを主将にして“大丈夫だろうか“って声もあったわ。それはこの言い方の通り、あんたを主将にする“前提“で話してたのよ。でも、篠崎のはそういう話じゃない」
『…、』
「あんなだったけどあいつ、もしかするとあんたが思う以上に、あんたのこと可愛がってたんだから」

白河のあの、一歩どころか十歩は引いた態度が私たちの世代のせいだということは、その頃には私たちも暗黙のうちに認めていた。そしてそれを最初から遠慮なく、はっきり指摘していたのは他でもない篠崎だ。
その篠崎が、白河の態度だけを理由に、主将はおろかできるなら副将さえ辞めさせろと言うはずがない。

じゃあなんで。
そんな疑問が、もしかすると、に変わったのは、卒業して、競泳を辞めて、OBとして見に行った、白河の代の最後のインターハイ。



「篠崎は、多分あんたに、“水泳“をさせてやりたかったんじゃないかしら」

部活じゃなく、──競泳でもなく、“水泳“を。











速く。もっと速く。

蒼衣が口にした水泳への拘りで、市原の記憶にあるのはそれだけだ。タイムを競う競技として何も不思議じゃない、ありきたりで平凡な目標だった。
だから気づかなかった。練習に打ち込むひたむきな没頭に、数字に対する執着が付随しないという矛盾に。

(あんた本当は、大会も表彰も、タイムさえどうでもよかったものね)

そしてそれに誰も気づかなかった。市原も他の部員も、当の本人さえ。


市原香織はブラックアウトしたスマートフォンの画面をじっと見つめた。指紋の残るそこに、就活メイクを施した自分の顔が映り込んでいた。

競泳を続けるか否か。
大学進学にあたって、蒼衣の前にはきっと、そんな選択肢は存在しなかったのだろう。
何の疑問も葛藤もなく続けることが前提だった。道はあくまで地続きで、足を止める余地も必要もなかった。

プロを目指せる選手であれば、そうやって進み続けることも許されたかもしれない。
でも蒼衣はそういう選手じゃない。それだけの才能がないという話じゃなく──いや、実際はそれも現実だが──もっと本質的な部分で違うのだ。
どう言えばいいのか。そう、たとえば、


「…“そう泳ぐようには造られてない“」


数分前に切れた通話、伝えなかった結論を口にする。市原の独り言は夕涼みの風に流れて、歩道橋下の喧騒に溶けていく。

高校時代の引き継ぎの顛末を、なぜ今になって聞こうと思ったのか、蒼衣は市原のその問いに、結局はっきり答えなかった。
誤魔化したようには思わない。むしろ、恐らく蒼衣自身が、その理由を掴めていないようだった。

でも何となく、市原にはそれが掴めるような気がした。優劣ゆえのことじゃない。一年早く生まれれば、学生時代の諸々を一年早く経験する。


学生時代には区切りがある。何かが始まり、何かが終わる。

大学は部活の終点だ。


「…悪いわね」

私、あんたが未だに自覚していないあんたの疑問の鍵になることを、もしかしたら言えたのかもしれない。あんたが今何に悩んでて、どんな道標が欲しいのか、逐一聞いてやることだってできた。それであんたの競泳人生が、不可逆的な転換点に立たされることになるとしても。

でも、言い訳がましいけど。あんたに散々貧乏くじ引かせて、卒業しても手を差し伸べない、嫌な先輩だって自分でも思うけど。
そればっかりは自分で見つけて、自分で決着つけた方がいいと思うのよ、私。

だってそうでしょう、あんたが私より先に、篠崎に連絡しないはずがないもの。その上で私に電話してきたってことは、篠崎はあんたに、答えになるようなことを言わなかったってことよ。

悔しいけど、だとすれば、答えまで導かないのがあんたに対する正解だわ。結局は篠崎の方があんたをよく知ってるんだから。


「…、」

電話越しの声が蘇る。落ち着いたフリばかり得意になって、不安も迷いも包み隠せる便利で面倒くさい声。
そうさせたのはきっと、梟谷での三年間だ。

眼下を駆け抜けるトラックの振動で、肘をついた歩道橋が小刻みに震える。ため息を一つついて、ブラックアウトした画面を起こした。メールアプリを立ち上げる。

『落ち着いたら、ご飯でもどう』

打ち込んで、少し考えて、『奢るから』と付け加えた。
返信は帰りの列車の中でやってきた。『内定祝い準備します』。

「……馬鹿ね、気が早いのよ」

満員電車で苦笑した。就活始まったとこって言ったでしょ、全く。


210807

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