掴み取れ、綿雲




「盛られたァ!?」
「うるっさいな声でっかいんだよ」
「なんでもっと早く言わないのよ病院は!?」
「あんたって知ってたけどやっぱ常識人だよね」
「しれっとしてんじゃないわよそれ犯罪よ!?病院は!?」
「下手人のツラは押さえてガンくれといたから、当分ヘタには動かないだろ。頭がカラじゃなきゃ二度目はねえってわかってるだろうし」
「江戸の岡っ引かよ余計なとこでツッコませないで!病院は!?」
「語尾病院になってんぞ。…行ってないよ、めんどいし」
「はあ!?」
「ああいうのは一晩も寝りゃ抜けるんだよ」
「ホントにヤバい薬だったらどうしてたのよ!」
「…わかった、わかったよ悪かったって。大ごとにしたくなかったの」

フォークを握り締めたツートンボブが、ビビットカラーのティントを乗せた唇をギュッと引き結んだ。まだまだ言い足りなさそうだが、こちらの言いたいことは伝わったらしい。パンクでロックなナリの友人だが、やっぱり本質は根が優しくて育ちが良い。

例の飲み会の後、最寄りの駅で私を引き取ってくれたのはこの友人だ。赤葦の連絡を受けたパツキンの友人が、自分が行けない代わりにと連絡を回し、バイトの残業上がりに出向いてくれたという。挙句自宅に連れ帰って一晩泊めてくれたのだから、事情を説明しないわけにはいかない。そうでなくとも、明らかに何かあったろうと察されてはいたのだけれど。

ツートン曰く彼女の自宅に着いてすぐ、私は自分でトイレに向かったらしい。薬のほとんどはその時に体外に排出されたんだろう。目覚めは最悪だったし記憶もほぼ飛んでるけど、数日経った今に至るまで体に異常はない。幸い普通の眠剤だったようだ。

連絡を寄越してくれた赤葦に尋ねれば、彼の見立ても同じだったらしい。「病院に行くべきだったんだろうけど、俺も動揺してたみたいで」と謝られたが、そこは何となく後付けの理由のような気もした。…日頃からのあの対応力だ、土壇場で“動揺”する柄とは思えない。

「…言われてみればここ最近、結城サンちょっと変だったわ。なんかビクビクしてるっていうか、妙に1人でいることが多いっていうか」
「事が事だからね…人間不信にもなる」
「下手人は教えてないの?」
「はっきりとは。でもまあ、言わなくても当たりはつけてそうだった」

結城さんからはあの後お礼の連絡が来た。赤葦から説明は受けたらしく、私がグルに思われるという誤解は生じていなかったが、相当ショックを受けたのは間違いない。遠目で見るに目立って孤立した様子はないが、ここ一週間、ふと見える怯えた様子が抜けないのは気がかりだった。

「それにしても赤葦クン、よく見てたわよね」
「ああ…私が殺気振りまいてたらしいからね。『ドラッグGメン向いてんじゃない?』って」
「確かに翠ってわかりやすいとこあるけど、同じテーブルにいたわけじゃないんでしょ?」
「角度的に視界に入ったんじゃない?」
「ふーーん?」
「…何」
「べっつにい?」

ティントの唇とカラコンの瞳がニヤニヤするのに顔を歪める。その付け睫引きちぎってやろうか。脅し付けたら「いちいち脅しが凶悪なのよ!」と仰け反られた。

「でもマジな話、その気のない女の子にそこまで良くしないと思うけどね」
「薬盛られたってわかりゃ動くだろ、人道的に」
「赤葦クンはユニ○フか何かなの?」
「…。当たらずとも遠からず…?」

こっちは真剣だってのに、ツートンはドン引きした顔をした。その付け爪剥がしてやろうか。口にすればテーブルに残していた両手も引っ込められた。猫かと。
だって赤葦よ?あの無造作紳士、その程度のことなら何の他意なくやりかねない。
すっかり身を引いたツートンは、カフェモカのストローを咥えながら不満げに言った。

「前から思ってたけど、そんな頑なに否定することある?いいじゃん彼、結構お似合いじゃん」
「だから、そういうんじゃないっての」
「嫌いってんならわかるけどさあ」
「嫌いなわけないけど、……マジでなんの他意もなかったってわかったら、バカみたいじゃん」

思わず漏らして、慌てて口を噤んだ。でも、ツートンボブの彼女は驚いた顔をすれど、今度は笑ったりしなかった。

「翠」
「やめて」
「翠ってさ、」
「言うな。そういうの柄じゃないんだよ」
「人を好きになるのに柄とかないでしょ」

こんな時だけ揶揄わないで、困った子を見るような顔で笑うのが憎い。だからこいつは育ちが良いんだ。唇を引き結んで、代わりに思い切り顔をしかめた。
パツキンや人間拡声器の友人なら、ここでこれ以上ないほどイジリ倒してきたはずだ。それはそれでその頭髪バリカンで剃り上げてやろうかって思うけど、そっちの方がやりやすい。

とはいえ幸い、照れ隠しとは呼びたくはない誤魔化しを口にする必要はなかった。「そういえば、」と目を輝かせたツートンが、カバンをごそごそし始めたからだ。

「ねえこれ、ちょうどよかった。貰い物なんだけどさ、私使わないから行って来な」
「…スイーツバイキング?」
「翠あんたすぐお礼とか言ってたっかいタルト買ったりすんだから、たまにはこういうのでお金浮かしなよ」

財布から取り出され、テーブルに押しやられたのは長方形のチケットが二枚。エンボス調の紙質には、刻印された金の王冠のロゴと、筆記体の文字列が並んでいる。全国チェーンの有名ホテルだ。確か、レストランのディナーコースで数万が飛ぶような。

「…ちょっと、これめちゃくちゃ高いヤツじゃない?こんなんサラッともらえないって。あんたが使いなよ」
「いいって。どうせ赤葦にも借りがあるとかってなんかする気なんでしょ?」
「いや…あんたこそこういうの好きじゃん」
「んー、まあそうだけど…ちょっと一回行ったことあるから」

歯切れの悪い口調に眉を顰めた。無言で問えば、肩をすくめて誤魔化される。

「…曰く付き?」
「違う違う」
「処分しなきゃなんない理由があんの?」
「失礼ね宮永、あたしを何だと思ってんの?貰い物よ貰い物、こういうのにちょっと縁があるからっておまけ程度にもらっただけ、知り合いから」
「…ふうん。まあ、ほんとに構わないってんならいいけど」

さっきは深く突っ込まないでもらった側だ。こう言い切られてなお追及するのは憚られる。
ありがたくもらっとくよ。そう言えば、「ちゃんと誘うのよお」とニヤニヤし始めたので、テーブルの下の足を膝下で思い切り挟んで締め上げてやった。たいしてありもしない脚力でやってんだ、ヒールの踵で踏まなかっただけありがたいと思え。









チケットの存在を思い出したのは、その翌日、いつかと同じA棟前で無造作な猫っ毛と行き合った時だった。

よ、と反射で上げた手に返されたのは軽い頷き一つ。開口一番、「調子は?」と聞かれたのは社交辞令でなく文字通りの意味だろう。「絶好調だよ、夏バテ気味って以外は」と笑えば、また一つ、今度は小さな笑みと共に頷かれた。

梅雨前線を押し除けて照りつけにやってくる六月の陽光は、久々の晴天をありがたがるにも強烈で暴力的だった。室内スポーツ選手ゆえだろう、赤葦が眩しげに目元にかざした腕の白さに、つま先は自然とキャンパス内の街路沿いの木陰に向いた。

「もうこれ何回目かわかんないけど、この前はありがと。今回のはマジで助かった」
「いや、俺は偶然行き合ったみたいなもんだから」
「詰めが甘いんだよね、もっと警戒すべきだった」
「あれは警戒のしようがないと思うよ」
「…あー…あのあと赤葦、駅まで連れてってくれたって聞いたんだけど」
「そうだね」
「……いや、マジ…マジでごめん」
「それも、宮永さんに落ち度はないだろ」
「……」

確かにそれはそうだけど。諸悪の根源は別にあるけど。
思わず目元に手をやった。不可抗力の沈黙に陥れば、どうでもいいことが頭を回り始める。最後に体重計乗ったのいつだっけ?あの時着てた服ってどんな。ていうか化粧、服についたりしてない?

「また色々余計なこと考えてるだろ」
「よけ、…ッいじゃないわよ死活問題なんだから!」
「ただ、宮永さん、もっと食べた方がいいと思う」
「た…ああそう…それはどうも…!」

喉の奥で笑われる。顔に上った熱のせいで噛み付くだけの威勢も失せた。
あっでもファンデは?グロスなんかちゃんと洗わないと落ちなくなる、

「化粧もついてないから大丈夫」
「!?」
「今のは口に出てた」
「嘘だろもう…」

ここまでくると赤面どころじゃない。事故じみた自分のバカさ加減に呆れ返るので精一杯だ。
思い出したように一斉に鳴き始めた蝉の声と、梅雨の晴れ間の凶悪な暑さが憎い。隣の男の喉を通り過ぎ、耳触りの良い声になってこぼされた笑みに晒されながらでは尚更だ。

「駅まで行く途中、コンビニに寄ったんだけど。それも覚えてない?」
「えっ、マジで?…ごめん全然覚えてないわ…言われてみたらなんか夢見てたような気はするんだけど」
「ああ…うん、多分それかな」
「…待って、私なんか変なこと言ってない?なんか喋ってた気がする、うわ何口走ってた?」
「いや、気分どうかとか、それくらいのやりとりしかしてないよ。その応答も怪しかったし、覚えてないならかなり強い薬だったのかなって」

やっぱりすぐ病院に行くべきだったな。

赤葦は言いながら、カバンの中から水のボトルを取り出した。言外に謝られていると遅れて理解する。「いや、まあ結局はよく寝ただけで済んだし」、なんてフォローにもならないフォローを言いつつ、顔を上げて、口を噤んだ。

ボトルのキャップを捻る腕。買ったばかりなんだろう、結露したそれを開封して仰いだ喉は白く、それでいて逞しい。
筋を伝う汗の玉、喉仏が上下するより早く目を逸らしたのは正解だった。ようやく下ろした熱が呆気なく戻ってくる。…覚えとけツートン、お前のせいだぞ。

脳内でニヤつくピンクボブに一蹴りかまして、思考を逃がそうと回らした記憶が、はたと思い出したのは財布の中身。

「…そうだ、あのさ」
「?」

言いながら財布を引っ張り出し、出してから言葉を準備していない口に気がついて手を止める。すでに降ってきている怪訝な眼差しに、考えなしに喋り出したことを猛烈に後悔した。なんて言えばいい?

脳内のピンクボブが呆れ顔をする。顔がうるさい。でも、彼女なら多分どう言うか、そのイメージで語彙が動いた。

「赤葦、甘いもの平気?」
「…甘いもの?」
「貰い物の貰い物で、…それでお礼ってか、迷惑料ってのもアレなんだけど。嫌いじゃなければどう?」

つまみ出したチケットを見せる。斜めに見上げた涼やかな瞳が、二枚の紙の文字を追うのがわかった。
真っ黒よりも少し薄い瞳を縁取る、短く束になった睫毛が一つ瞬く。

釣られるように瞬いてしまった、その一瞬で、捉え損ねた何かがあった。

「そういうことなら、俺より適任の人がいるよ」
「…へ?」
「白河 さん」

不意に蝉時雨が鳴り止んだ。煩いほどのBGMを失った映画のように、突然足元が心細くなった気がした。

落ち着いた声の中に、取ってつけられたような敬称が浮いて聞こえた。動きを止めた私の脳裏をよぎったのは、見慣れたバイト先のカウンターの一席、置物じみた静けさで音も気配も殺した姿。
その静寂を被ったように、木立の蝉が凪いでいる。

「駅までの道でたまたま会ったんだけど、宮永さんを心配して、コンビニまで付き添ってたから。覚えてないと思うけど、宮永さんがコンビニで話したのも白河さんだよ」

飲み会でのことは何も言ってないけど、ただ潰れたわけじゃないってのも顔色で察してたと思う。結構心配してたから、

「それ、ちょうどいいんじゃないかな」

それ、が指したのが私の手の中のチケットであることは、涼しい視線の一瞥からもすぐわかった。
思い出したように鳴き出した蝉が、大合唱を再開した。

背中を汗の玉が伝う。酷く蒸し暑いはずなのに、体の熱がどこかからすうっと引いていくような気がして、熱い外気を深く吸い込んだ。

「…そっか、それは…うわ、ほんとに覚えてないや。私マジで変なこと言ってなかった?」
「どうかな…ちょっと会話が噛み合わない感じはあったけど、それも白河さんの方が覚えてると思うよ」
「そう…じゃあ、そうだね。その聞き取りも含めて誘ってみようかな」
「うん」

いいと思うよ。

普段通りの声だ。そっけなくも、朗らかでもない、淡々とした平温の応答。

頷きに押されるようにして、チケットを財布に差し戻した。引っ張ったチャックの向こうに逆戻りしたそれを、カバンの奥に押し込み直す。
口を噤めば沈黙に乗っ取られるような気がして、手首を返して時計を見た。

「うわ、もう昼休み30分しかないじゃん。私次も講義なんだよね。赤葦は?」
「俺は空きコマ。金2のレポート片付けようと思って」
「いいね。じゃ、そろそろ行くよ」

手を上げれば、ひらり、同じように返される。背を向けて木陰を一歩踏み出せば、焼け付くような日差しの下に容赦なく逆戻りした。

食堂へ向かう道のりを、努めて軽い歩調で進む。手持ち無沙汰の惰性で手にしたスマホの、ロック画面を解除してひと撫で、少し考えてラインを呼び出した。

ポカリスエットのアイコン。業務連絡かと思うような、トーク画面の堅い文。白河蒼衣の名前を見つめる。
あの居酒屋の一件からやりとりは途絶えたままだ。私の記憶にないコンビニでの邂逅を匂わせるような連絡もない。

らしいな、と思う。そう思えるほど知り合って日が長いわけでもないけれど。
でも、たとえ顔を突き合わせても、こっちが切り出さない限り何も聞かないのだろう。

善良なのか、無関心なだけか。いずれにせよ、説明責任はこちらにある。

「…借りが大きいな」

ひとりごちてちょっと笑った。
落ちるほど大きな穴が空いたわけじゃない。そう思った時点で無視できていない小さな穴を埋めるように、メッセージを打ち込んだ。



210613

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