ヒートヘイズ・ロジカル

「結城さん、それ、引き受けようか」
「うん、…ん?」
「それ。その梅酒」

もう結構酔ってるだろ。

座卓の向かい、コーラルピンクのシャドーを入れた、垂れ目がちの大きな瞳に声をかける。噛んで含めるように言えば、きっちり上を向いたマスカラの下、色素の薄い瞳がとろりと眠たげに瞬いた。

ようやく意味を飲めたかどうか、こっくり頷きグラスを押し出す様は、学科でも可愛いと評判の容姿も相まって随分幼く映る。そのおぼつかない手つきが近くの皿を押しやってひっくり返す前に、まだ並々と中身を残したグラスを取り上げた。

うん、ごめんね、と危なっかしく揺れる頭でふにゃふにゃ応じる彼女を、同席する数名が声を立てて笑った。酒の席の明るい笑い声だ。やや尖る矛先に言い聞かせ、合わせて口角を上げて見せつつ、しかしやっぱり内心では毒づいた。
こんななるまで飲ませてんじゃねえぞ。帰りどうさせる気だ、お前ら。


夏休み前に学科で飲みたい。
誰ともなく発案されたそれを取りまとめて実現させた幹部役は、学科で特別目立つ類でないものの、存外ソツのないタイプのようだった。畳の広間に座卓と座布団を並べた座敷は席の移動が簡単で、貸切ゆえに少々騒いでも迷惑にならない。会費の徴収は飲み始める前、シラフのうちに完了している。
それだけならままあることだが、何よりは最初の席の配置が絶妙だった。何らかの接点のあるメンツが集う采配のおかげで、話題に乗り損ねて飲食に徹するハメになる人間がほぼ見当たらない。

2度目の席替えで同席した時に労いとともに尋ねてみると、「運動部で下っ端をしていると大体こうなる」と爽やかに返された。そんなもんだろうか、と思って思い出したのは白と灰のジャージの水泳部。
…あの一団もいい酒飲みだった。特に、未成年と弱い奴に飲ませない方針が。

ふとよぎった落ち着いた瞳に沈みかけた思考は、次の瞬間弾けた声で強制的に引き戻された。

「あーっ、結城ちゃんダメじゃぁん、もう限界じゃない?」
「やだかわいー!」
「笹塚おっまえ、役得かよ!そこ代われ!」
「んん、ごめ…あの…」

ぐらり、あの危うい頭がついに体幹ごと傾いたんだろう。薄い茶色の綺麗な髪が、細い首ごと隣に座した男の肩口にかしいでいる。さっきまでの小動物を眺めるのに近い雰囲気が薄れ、囃し立てる声に好奇と下世話な期待が滲むのが見えた。やに下がる男の顔に思わず顔を顰めそうになり、預かったグラスを持ち上げて誤魔化した。

グラスの反対側の淵にはローズピンクの口紅が残っている。量からしてほとんど口のついていないそれに口をつけた。度数は高い。でも、この程度なら問題なさそうだ。

思って不意に、視線を感じて目を上げた。斜め向かいに腰掛ける同期の女子だ。関わりはほとんどない──名前と顔を一致させるより早く、噛み合った視線が勢いよくそらされた。
……気のせいか、まるで伺い見ていたような。

「いーよいーよ、ていうかちょっと寝とく?帰りには起こすしさ」
「うぅん…あの…」

向かいの会話に意識を戻す。しぱしぱ。上下するマスカラのまつ毛の、結城さんの茶色の瞳が揺れている。眠気を懸命に払うように、…それだけか?
不意に奇妙な感覚が頭の片隅を引っ掻いた。つかみどころのない違和感。

男にもたれる彼女の腕が、座布団、いや、床を探るように動いている。
グラスを置いた。テーブルに手をつき腰を浮かす。一瞬の酩酊感がすぐに収まるのを確認し、さも気楽に絡みにいくような足取りを意識して、座卓の向こうへ回り込んだ。

「結城さん?」

別のテーブルで笑い声が弾ける。騒がしいそれに紛れて呼びかけ、もたれかかっていた男からようやっと身を離したところの彼女を覗き込んだ。
テーブルの下の華奢な手を取る。握ろうという意思は感じる。だが、指先に力を感じない。

「えっ、宮永さん?」と彼女越しに声をかけてくる男は完全に黙殺した。
大きな瞳が重たげに瞬く。飲み会で落ちまいとするだけの、平和で可愛らしい抵抗じゃない。
とろけた瞳にちらついたのは、眠気に押し潰されそうな混乱と恐慌。


直感が確信に変わった。
鋭利に逆立った敵意を飲みこむには、2秒ほど時間が必要だった。


「……、えっトイレ?なに、早く言いなよそんなこと」

こっち見て何か言いたそうにしてっからどうしたかと思ったらさあ、…あっごめんもしかして恥ずかしかったとか?うわごめん、私そういうキャラじゃないから普通に言っちゃったわ。お詫びについてくから一緒にどう?

けらけら笑って細腕を引っ張る。華奢な体は簡単にかしいだ。とたん、「いや、ちょっと寝かせてやった方が…」と言いすがってきた男を瞬きせずに数秒見下ろす。
突然黙って見つめたせいだろう、男はちょっとたじろいだ。気まずそうにはしたが、後ろ暗そうな様子はない。多少の下心こそあったようだがこれはシロだろう。…ならやはり。

シフォンのワンピースの肩を抱き、ほとんど無理やり立ち上がらせる。彼女の体がわずかにこわばるのを感じた。本能で警戒できるだけの意識が残っているなら上々だ。

ふざけた調子で言え。テンションはミドルハイ、そこそこの酔っ払いを意識しろ。

「宮永ー、結城サン攫いまーっす」
「えっ嘘だろ、そこがお持ち帰りすんの?」
「うわ、ヤンキーが姫を拉致ってくぞ!」
「王子サマー!お客様の中に王子サマはおられませんかー!」
「いや勝てねえよ、ぜってえ魔女より強えじゃん!」
「ああ?誰が魔女だオラ、カブ頭のカカシにすんぞそこ」
「よりによってハウルかよ!」
「ぎゃっははははは!」

酔っ払いを味方につければ後は早い。思わぬ飛び火でぶち上がった白熱のジブリ談義で謎の盛り上がりを見せ始める座敷を、これ幸いと可能な限り足早に横切っていく。
最中、密やかに送られる視線には気付いていた。結局じろり、腹立ちに任せて睨み下したのは出入り口を潜る寸前。

女はさっと顔を背けた。低く舌を打つ。何したかったか知んないし知りたくもないがツラは押さえた。覚えといてやる、震えて眠れ。

どろりと渦巻く呪詛を腹に、しかし今は小脇に支える彼女が優先だ。もうほとんど自力で歩けていない。

「…結城さんわかる?頑張って、一回店出て──いや、トイレで休もう。荷物取ってくるから」

女子トイレは確か一階下のフロア、エレベーター脇にあったはずだ。この状態で階段は厳しい。ちっとも登ってこないエレベーターに焦れる。苛立ちに任せて舌を打って、

瞬間、後ろから、吐息だけで吹くように笑われた。

「!」
「本当に日常茶飯事なんだね」

振り向いて目を見張る。ゆったりした生成りのシャツに、細身のジーンズとスニーカー。口元には笑みの余韻があるが、猫っ毛の下の双眸は油断ない凪を帯びている。

こういう場に来るのが珍しい分来ているのは知っていた。でも問題はなぜここに。
驚きながら、跳ねた心臓の意味合いがそれだけじゃないのは気づいていた。

「……赤葦?」
「宮永さん、ドラッグGメンとか向いてるんじゃない?そういう職があるかは知らないけど」

言われた意味を理解する頃にはやってきたエレベーターに乗り込み、なし崩しに結城さんを預かられていた。気づけば手元には荷物が二人分。私のリュックと、結城さんのものと思しきショルダーバック。

だぶつく思考を回すより早く、動き出す箱の下降で三半規管が捻じ曲がる。込み上げる酩酊感に思わずぐらりとしながら、力づくで踏みとどまった。一体いつから。ついでになんで。

「あれだけ殺気ダダ漏れじゃあね。撒けるのは酔っ払い程度だろ」
「……、鉈持ってたら斬り殺してたからね」
「そこで鉈チョイスなの笑える」
「無表情で言うことか…」

せめてちょっとは笑えと言いたいが、抱えた結城さんの脈拍と呼吸を確かめる手と目はよどみない。
知らず、口を噤んだ。今や完全に瞼を下ろした結城さんからの応答は絶えている。
ややあって赤葦が言った。

「大丈夫、多分寝てるだけ」

思わず長く息を吐いた。いや、経緯からして寝てる“だけ”なわけがないのはわかってる。それでも落ち着き払った声の見立てに、全身の力がどっと抜けるのを隠せなかった。

今になって回り始める酔いに、凄まじい安堵が入り混じる。彼がいるなら大丈夫だ。思って、足元がぐらついた。止まったエレベーターから半ば転がり出る。急に酔いが来たらしい。

「っとと…ごめん、ちょっとびっくりして…」

壁に手をついて笑ってみせた。そんなに切羽詰まってたつもりはないんだけど、思うより緊張してたのかもしれない。嫌に視界が回る。唐突な酩酊に目を瞬いて、

「……あれ、」
「…やっぱり」

静かで、それでいて険しさのある声はずいぶん近くから聞こえた。腕への圧迫感。掴まれている、立っている。…立っている?
瞼が異様に重い。歓楽街のネオンがやけにチカチカする。座らされた、どこかのソファだ。
目の前がやけに暗い。

なんでこんなにぼんやりするんだろう。

「───」

最後にわかったのは手首に回る長い指と、やはりひんやりと落ち着いて、それでいて鋭さを帯びた声だった。













「「え」」

ハモったのは4人中2人だった。2対2で対峙した2組の、並んで立った片側だけ。

その揃ってハモった1組目の男女の手には、これまた揃いのビニールの手提げがあった。A4サイズの濃紺の袋には、今しがた出て来たところの映画館のロゴが一つ。中身は恐らくパンフレットだろう。
頭ひとつ抜ける長身とセットされたアッシュの短髪、人目を引く甘い顔立ちをした男の手には、真新しいチュロスが一本。反して、切りっぱなしの黒髪と薄化粧が無造作な女の手には、館内で飲みきれなかったらしきプラコップのジュースが握られている。

かたやもう1組の男女は並んで歩いてもいなかった。細身の締まった長身に猫っ毛の黒髪、涼やかな目元と肌の白さが映える男の胸前には、やや重たげなバックパックが二つ。そのうち白のリュックの持ち主であろう女は彼の背に負ぶわれ、その肩口に垂らした髪の下、目覚める気配のない寝顔を覗かせている。華やかな化粧を施した顔は見栄えする造形をしているが、白い頬は血色に欠け、文字通り“死んだように”眠っていた。


「「「……」」」


4人は、正確にはそのうち意識のある3人は、片方は今しがた出てきたところの、もう片方は駅までの道のりで通りかかっただけの映画館の前で、しばし十数秒ほどは、各々の姿を言葉なく見つめ合った。

棒立ちになった4名がついに動き出したのは、レイトショーにやってきた客たちが迷惑そうに2組の間を通り抜け、果てには映画館のスタッフがやってきて、「お客様、他のお客様の出入りに障りますので…」と遠慮がちに声をかけてきた時だった。







「え、じゃあ、飲み会で?」
「…同期の女子が駅まで迎えに来れるって連絡くれたから、そこで落ち合うことになってる」

諸々の事情を割愛して非常に簡略化された説明に、やはり──予想と違わずと言うのが不服だが──蒼衣はあれこれ深掘りしなかった。

元来隠さないでいい時は素直に顔に出る性格だ。赤葦の経験則から言って、今の蒼衣のもっぱらの関心は、彼の背中で眠る翠の容態に向けられていた。


『…それ、宮永さん?具合悪いの?』

赤葦の肩口に垂れた髪の色か、はたまた胸元に下げたリュックに見覚えがあったのか。
映画館前での謎の邂逅と謎の膠着状態の突破口となったのは、これもやはりというか蒼衣だった。駆け寄ってくるのに迷いはなく、翠の顔を覗き見て表情を締めるのも早かった。

二人にどの程度の交流があるのか赤葦は知らないが、少なくとも蒼衣は翠のことを、飲み会で潰れるようなタイプでないと推測できるほどには知っているらしい。実際、眠る彼女の顔色が、幸せな酔っ払いのものではないと見て取れたのもあるだろうが。

…病院に連れて行こうか、赤葦は正直ギリギリまで迷った。
やめたのは、呼吸や心拍、発汗などに目立つ異常がなかったからだけじゃない。翠はおそらく、それを望まないと思ったからだ。
これまでの性格を見るに、結果的にどう判断するとしても、まずはつけるべき話をつけてから動きたいタイプだ。


「体調悪かったのかな…宮永さん、あんまり丈夫じゃなさそうだし」
「そうなの?」
「いや、普段はどうかわかんないけど」

最初に会った時も、うちの部に来た時も顔色よくなかったから。

独り言のように言う蒼衣だが、赤葦の目に映る学内での翠に病弱というイメージはない。恐らくはタイミングの問題だろう。
もっと言うと、今回の原因は体調不良なんて可愛げのある話じゃない──少なくともまだ、この場でそれを明かすつもりはないが。

理由は多々あるが、その最たるものはこの場にいるもう一人。一体どういう接点なのか──どういう“関係”なのかという表現は敢えて避けた──蒼衣と並んで映画館を出てきた、高校バレー界を鳴らせた宮ツインズの片割れ、宮治の存在である。

赤葦と、正確には彼が背負った翠と並んで歩む蒼衣の、半歩後ろをついて来る彼は、ここに来るまでむっつりと黙り込んだままである。この彼が、何を言うでも睨むでもないが、とかくピリピリとした不穏な気配を向けてくるのだ。

全くの初対面ではない。互いに全国で名を馳せた強豪校の同世代、練習試合や公式大会で顔を合わせたことはある。逆に言えば、不仲になるほどの関わりもない。
にもかかわらぬこの敵意。正直不快である。可能性に過ぎないが、十分考えられる理由を、何となく察せるだけ余計に。

赤葦は平然を装いながら、敢えて突っ込む気にも、下手に出る気にも全くならなかった。色々聞きたいのはこっちも同じだ。例えば、…いや、いい。

腹立たしいことに、だが結局、それを問いただす資格も肩書きも自分には存在しないのだ。他の誰のせいでもなく、自分のせいで。


薄暗い感情が喉元まで充満してくるような、そんな苛立ちはしかし、不意にポケットから鳴り響いたラインの通知音で中断された。
取り出したいが、両手は背中で支える翠のために塞がっている。

「ポケット?」
「、ああ」

ためらいのない動きだった。蒼衣は赤葦のジーンズのポケットからスマホを引き抜き、それを彼に差し出した。が、両手の空かない彼を見て、何か言おうとする。それを遮り、赤葦は言った。

「0920」
「、」

驚いたように蒼衣が瞬く。赤葦は努めて無表情を決め込んだ。…0920、9月20日。木兎の誕生日をパスコードにしているなんて、本人に知られたら何を言われるか。

…かくいう蒼衣もまた敬愛する先輩(言うまでもなく無気力ヤンキー)の誕生日をパスコードにしていることを知り、赤葦が別の意味で頭を抱えたくなるのはもう少し先のことである。勘違いしないで欲しい、自分の動機は蒼衣の方向性のおかしいファン精神と同類じゃない。自分の誕生日だと防犯性に問題があるから手近な他人の誕生日を借りただけだ。断じてそうなのだ。
閑話休題。

心得た様子で何も言わず、言われた番号で画面のロックを解除した蒼衣は、ラインの通知画面を見せてきた。思った通り、迎えを頼んだ翠の友人からだ。目で促すと器用に液晶を見ないまま、蒼衣はトーク画面へタップする。
吹き出しの内容を把握し、赤葦は小さく息をついた。余計な予感ほどよく当たるのだ。

「…『わかった、駅前で待つ』って返して」

蒼衣はまたも瞬いて、それから画面を見下ろした。やりとりから事情を把握したのだろう、言われた通りに返信し、スマホを赤葦のポケットに戻す。
それから体を半分振り向かせ、後ろを歩く宮にも言った。

「お迎えの人、バイトの残業で30分ほど遅くなるみたい」
「……」

頷く程度の反応があったのか、なくとも気にならないのか。蒼衣はあっさり体を前に戻し、自分のスマホで駅近のコンビニを検索し始めた。
できれば店前にテラス席があるところ。30分背負いっぱなしでは赤葦も大変だろう。翠が目覚めた時に渡せるよう、水か何か買っておきたい。

そうして行き着いた緑のネオンの全国チェーンのコンビニ前で、蒼衣は赤葦が翠を下ろし、テラス席の長椅子に横たわらせるのを手伝った。頭の下には彼女のリュックを枕代わりに敷き、やや露出の気になるトップスのために、自分のカーディガンを脱いでかける。

…代わりにあらわになったノースリーブと剥き出しの肩は、当人にとってさほど気にならないらしい。「なんか買ってくる」と財布片手に自動ドアをくぐって行った蒼衣に、赤葦は思わず眉間を揉んだ。ついでに追いかけてため息も漏れる。

そんな自分に、今度は隠さずたっぷり視線を注いできた宮治へ、赤葦は思考を切り替えた。ほとんど初めて、はっきりと視線を返す。横たわる翠のそばに腰掛けた赤葦と、彼女を挟んだ向こう側、ポケットに手を突っ込んで立ったままの宮の斜めの視線が交錯する。
赤葦は0.5秒ほど思案した。

「何の映画?」
「…」

軽いジャブだ。問うた赤葦に、宮はちらり、手元のビニールの手提げに目を落とした。
返ってきたタイトルは意外というか、ハリウッド洋画のアクションもの。それも続編。微妙な顔をしたのが伝わったのだろう、宮はそっけなく付け加えた。

「前のを観た奴が周りにおらんかったんや」
「…ふうん」

ということは、たまたま話題になって意気投合したというところか。赤葦は駐車場先の道路へと視線を投げる。なるほど理解した。別にそれぞれで観にいけば良かったとも思うけど。

興味なさげに見せて棘を仕込んだ赤葦の物言いに、侑ほど目敏くはない治とて気づかないわけがない。今度こそはっきりと険を孕んで睨み下してきた治に、赤葦もまた取ってつけていただけのよそ行きの無表情を投げ捨てた。
かち合った視線に音が立つとすれば、火花を散らすというよりも擦れ合う刃か鍔迫り合い。

「そっちは?」
「高校からの付き合いかな」
「…ほお。そら奇遇やなあ」
「…?」

唸るように宮が吐く。低く鋭く、恫喝とは言わないにしろ、尋問めいた短い威嚇。美形が凄むと恐ろしい。治の上背と眼力が上乗せなら尚更である。

対して平然と牽制をかけた赤葦は、涼しい瞳を微かに細めた。“奇遇”とはつまり、思わぬ偶然ということだ。ここで使うとすれば、予期せぬ偶然の一致を指して言う可能性が高い。
つまり、治“も”蒼衣と、高校時代になんらかの関わりがあったということか。

瞬間的に記憶をさらう。蒼衣に関西圏に住む親族や知人がいたという話は覚えがない。
冷えた苛立ちを纏った治が、不意に何かを言おうとする。その様子に、赤葦の定例の0.5秒思考が止まりかけて、


「宮永さん?」
「「!」」
「よかった、目が覚めて。気分はどう?」

完全なる不意打ちである。ひょっこり、レジ袋を下げて戻ってきた蒼衣の声に、男子二人は仲良く飛び上がった。
多少驚く素振りはあったが、蒼衣の優先事項はブレず、翠の前に膝をつく。緩慢な瞬きが見えたと思ったのは気のせいでなく、今し方目覚めたと見える瞼が重たげに持ち上がっていた。
焦点の危ういぼんやりした眼差しが、蒼衣の顔の上を彷徨つく。何かを探るように手が動き、輪郭のはっきりしない声が言った。

「…ゆうきさんは?」

蒼衣は一瞬きょとんとした。次いで、ほとんど反射的に赤葦を見上げる。
ひと繋ぎの思考を介したように、彼はそのあとを引き受けた。

「結城さんなら大丈夫だよ」
「…」
「家の人の迎えが来てくれて、もう帰ってる」
「…、」

結城の迎えの決め手になったのは、ダメ元で確認した彼女のスマホのロック画面だ。そこから呼び出せる緊急通報の連絡先に、彼女が実家と両親の電話番号を入れていたのは幸いだった。
そんな経緯を、今の寝ぼけ眼の翠に伝えて、果たしてどこまで理解できるか。その間、実に如才なく翠の脈拍を確かめている蒼衣を見ながら、思考する赤葦が言葉を切った時。

「しゃしんは?」

朧げな声音が譫言のように言った。彼には覚えのない問いだった。
だが、単なる寝言でないことはわかった。その問いを真正面から受けた蒼衣が、忽ち表情を凍らせたからだ。
併せて気づく。どういうわけか、宮治もまた、打たれたように硬直している。

「…大丈夫、心配ないよ」

殊にゆっくりと蒼衣が言った。重くなく、上滑りするほど軽くもない口調だ。
動揺を悟らせず、冷静を引き戻そうとするとき、蒼衣はこういう話し方をする。それを知るのは赤葦だけだ。

「ユウキさんにも、宮永さんにも。誰も何もしてないよ」
「…うそよ」
「本当だよ」

なおもさまよう翠の手を、蒼衣がやんわりつかまえた。もう片手で翠の目元に垂れるアッシュの髪を掬い上げる。
差し込んだコンビニの白い明るさから、カラコンの瞳が眩しげに背いた。判然としない瞳が、光から逃れるように蒼衣を捉える。
そうして数秒、不意に言った。


「ミナ」


混乱、怯懦、不安。
そのどれどもつかない脆い声。

今度こそ、蒼衣にも赤葦にも覚えのない名前だった。だがやはり赤葦にはすぐわかったし、今度は蒼衣も何かを察した。
ただ一人、治だけはその名を知っている。

触れる空気すら身を切るかのように微動だにせず立ち尽くす彼の、呼吸も殺す静寂の中。

翠を見下ろす整った顔が、刺されたように割れていた。

「…ミナ」
「…」
「へいき?」
「……平気だよ」
「…ほんとに?」
「本当に」

つと黙り込んだ翠のことを、蒼衣は辛抱強く待った。随分緩慢に瞬いたのち、蒼衣が演じた誰かに向けて、翠は「そう」とも「うん」ともつかない返事を寄越した。それきり、再び微睡の浅瀬へ、うとうとと瞼を落としてゆく。

蒸し暑い夏の夜の、生ぬるい風が吹き抜ける。徐に微かで鈍い音を聞き、蒼衣はそっと目を滑らせた。
膝をついたままの蒼衣から、立ち尽くす治の表情は伺えない。
ただ、音がするほど握り締められた拳の軋みが、彼の心に吹き荒れる雨嵐を物語っている。

蒼衣は手元に目を落とした。力なく残された白く華奢な翠の手が、何だかひどく遣る瀬無かった。


210520
やたら長くなってきた。

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