請い希え、白雲




聴覚が拾ったのは高い位置から弾けたと思しき水音と笑い声、上方で遠ざかる複数の足音だった。


校舎裏に位置するゴミ捨て場は、建物の外壁に張り付くように存在していた。焼却炉の真上には2階から順にトイレの窓が並んでいる。

それを覚えていたから足が止まり、浮かんだ姿があったから行き先を変えずにはいられなかった。

風が強い日だった。吹き荒ぶそれがなければ、コンクリートに滴る水音さえ聞こえたんじゃないかと思う。

距離は思った以上になかった。彼女は微動だにせず立ち尽くしていた。重たいはずの黒いゴミ袋を右手に、焼却炉の前、窓の真下で。


染めたのでない自然な茶髪が、冷たい雫を散らして重く揺れている。俯かない横顔を、薄く汚れた水が伝い落ちていく。
凍えるような横顔だった。薄く張った氷が、今にも砕けそうな。

心臓を握り潰された気がして、刹那、本能じみた鋭さで、見慣れた制服のスカートが翻った。

瞳孔まで透けるような色素の薄い双眸。振りかざされる尖った警戒、防衛反応に隠せない恐怖。
雨濡れで手負いの野良猫に似た敵意と不信が、覚悟もなく踏み入った心臓を容赦なく針の筵にする。

濡れて尖った細い髪が、強張った頬に張り付いている。いつだったか目に焼きついた、少しの微風にも舞う柔らかさは見る影もない。


口を開いた。

何を言うか、一言だって考えずにそうしたのは、その時から同じだった。


「翠…!」


半分泣いた声が声帯を殺した。風に千切れる転がるような足音。
はっとした彼女の視線が首ごと翻って、遠心力に乗った髪から飛沫が飛んだ。


「…ミナ」
「ごめん、ごめんな…!」
「ちょっと、次体育でしょ?遅れるよ」
「そんなん今どうでもええ!こんな、うちのせいで翠が」
「ミナのせいじゃないって」

これくらいどうってことないよ。


言葉を崩して泣き出した友人が、俺に気づかないようにするためだろう。
庇うように向けられた背の、しゃんと伸びた頑なさに、形にもならない何かを呑んで、ただ踵を返すほかなかった。


標準語を強く残した言葉尻。宥める声の明るさ、濡れたブレザーの肩を払う戯けた仕草。

今ならわかる。
あの脆い頑なさ、中途半端な堅牢さが仇になった。


奴等が粉々に叩き割りたいと思ったのは、あの澄ましきれない無表情、隠しきれない虚勢だった。




だから、あんなことにまでなった。







X X X





「あ、ねえ、アカーシ」
「、…?」

恐らく限界まで脱色して、目一杯に色を入れたと見えるストレートの金髪、元々きつめの顔立ちであろうところに、がっつり入れたアイラインとアイシャドウ。

肩を露出したシャツ、白のダメージスキニーは体の稜線を隠さない。足元には、どうしてそれで歩けるのか男には理解不能と言える細いヒールのサンダル(いや、女子は確かあれを“ミュール”と呼ぶ。何が違うのかはわからない)がある。
にもかかわらず、受ける第一印象は“ケバい”というより“強い”。多分、元の容姿と当人の雰囲気による。

女子にしては高身長の、しかし俺から見れば下方にある顔を見下ろして、短く「何?」と尋ねる。
見下ろされるのが気に入らないとばかりに顰めた眉で数秒黙し、学年指折りのギャルないしヤンキーと名高い彼女は、つい、と周りを一瞥して声を落とした。

「あんたさ、宮永からなんか聞いてる?」
「何かって、何を?」
「なんでも。最近よく話してんじゃん」

短い言葉と気怠げな両眼には、こちらの表情を一つも取り落とさない抜け目のなさがある。思い当たることもなくはなかったが、ポーカーフェイスは苦手じゃない。
どう転ぶかわからない分、沈黙で補足を要求すれば、金髪の同輩はいっそ舌打ちしそうな顔をする。
その察しの良い、しかし素直な反応に一瞬苦笑しそうになって、

「しらばっくれてんなら言ってやるが、ナリほどいい加減なヤツじゃねえんだよ。その気もねえのに半端なことしてみろ、殺すぞてめえ」
「……」

続いたドスの効いた脅しに流石に苦笑が霧散した。
音駒の山本や烏野の田中なんかの良心的なソフトヤンキー(命名は黒尾さんだ)に耐性はあるが、本職を相手取るノウハウは持ってない。
とはいえ、雰囲気に気圧されて返すべき返答を取り落とすほど気が小さくも、言われた意味を察せないほど鈍感でもないのは幸いだった。

気を取り直し、言葉を選ぶ。
できればこれを、当人に直接言わなくていいようにしたいと思う。


「そういう意味なら、心配しなくていいよ」


先週末、バイト終わり、着信に気づいた時には通知から2時間ほど経っていた。

かけ直す代わりに、メッセージを返した。どうかしたかと尋ねたこちらに、彼女は簡潔な謝罪と、押し間違えたという旨を送ってきた。
それ以上のやり取りはない。

「……、」

カラコンだろう、オリーブがかった瞳がかすかに細まる。目を合わせたままの数秒。今度こそはっきり舌打ちされた。

「あっそ」

意図はおそらく正しく伝わった。
翻る金髪を見送り、俺は小さく息をついた。






X X X






自宅から電車で45分、大学からは20分。普通電車しか止まらないローカル駅の、ややくたびれた駅ビルの裏に張り付くような年季の入った5階建てのビルの4階。
そこに、私の勤める“予備校“は存在する。

やや薄暗いエントランスを潜って階段を上がり、廊下奥で光のもれるガラス戸へと歩みを進める。時計を見れば、自宅を経由しなかったおかげで、定時より1時間ほど早く到着していた。
今日は現代文の担当だ。軽食をとりながら予習して、余った時間でレポートの資料を読み進めよう。思いながら重たい戸を押し開ければ、挽きたての豆の香ばしい匂いが鼻腔を満たした。ちょっと笑う。

月謝は破格なのに、時給はそこそこ良い。講師ブースには私物と思しきミルとコーヒー豆と茶菓子が常駐。

勤めておいてなんだけど、つかみどころのない塾だと思う。
予備校というよりは学習塾という雰囲気もさながら、どこか、切り取られたような空気感が。


講師ブースに入れば案の定、挽きたてのコーヒーを満たしたポットが出迎えてくれる。冷房が効いているので、夏でもホットだ。冷蔵庫の牛乳を注いでありがたく頂戴する。いつも思うけど、カフェかと思う美味しさだ。

供給主は古参の女性講師だという。伝聞調なのは、私とは授業の入れ違いが多いのか、まだご本人に会ったことがないからだ。
このコーヒー、アルバイトへの福利厚生であるだけでなく、自習室に詰める生徒たちの机にもしばしば出張する。名目は自習特権。

「先生、お時間ありますか?」
「うん?いいよ、英作かな」
「いえ、小論文なんですけど…」
「小論か…私、一般試験勢だけど、それでもいい?」
「はい、ざっと見るだけで十分です」

遠慮がちにカウンターを覗き込んできたのは、ひと月前ほどに入塾した男の子だった。声音にはここらじゃ珍しい西の訛りがある。すっきりした顔立ちとお洒落なブレザーの制服というルックスから出てくる関西弁が、関東育ちにはなんとも不思議だ。もちろん悪い意味じゃなくて。
親御さんのルーツが関西なのか、スポーツ留学生なのか。聞いたことはないけど、多分後者だと思う。実際彼はサッカーで推薦を目指している。

授業終わりには返すと約束し、講師スペースに引っ込む。簡単な添削ならすぐできそうだ。今日の間食はおにぎりなので、パンみたいにくずが落ちる心配もなかった。

「おつかれさまでーす。早いね…うわ小論?」
「、おつかれさまです。はい、高3の子の」
「頼られてるねえ」
「他に先生がいなかっただけですよ」
「だとしても生徒は講師を選ぶよ」

ブースに入ってきたのは数学担当の先輩講師だ。偶然にも同じ梟谷を卒業し、同じ青翔大に通う先輩でもある。その上光琉先輩と懇意だったそうで、世間の狭さに驚いた(何より光琉先輩を友達と呼べる同級生がいたことに驚いた)(ついでに二人の接点が一年次の進学科クラスだったと聞き、さらにおったまげた)。

「題材はどんな?」
「大学教育の意義について、です。オーソドックスな部類ですね」
「ふうん…じゃあAO志望?」
「スポーツ推薦だそうです」
「ああ、なるほど」

納得したように、先生はコーヒーを淹れにゆく。
ぱりっとしたパンツスーツがよく似合う彼女は文系ながら、「文系だからこそよ」と数学を教えている。この予備校の元生徒で、例のコーヒーの先生の教え子なんだそうだ。このあたりも予備校というより、地元のローカル塾っぽい話だ。

「でもちょうどいいね、白河先生もスポーツ推薦なんでしょ?」
「まさか、一般ですよ。私レベルで推薦なんかもらえません」
「あっそうなの?ごめんてっきり、梟谷の水泳部って全国区だし、今も水泳続けてるって聞いたから」
「…や、一応って程度ですよ」

言葉が出遅れる。瞼の裏を過ったのはアッシュグレーの前髪の下、似た色のカラーコンタクトを入れた二つの瞳。
水泳部の追いコンを、宮永さんの勤める居酒屋で開いた時だ。企業所属の選手を目指すのかと、何の含みなく問われて、あの時も言葉がつっかえた。

私の離席を見計らい、素人が余計なことを聞いたとわざわざ謝ってくれた宮永さんの綺麗な顔立ちが、カウンターの向こうで凍えてひび割れた、泣き出す寸前の嘲笑に入れ替わる。

胃が重くなる。あれから連絡はとれていない。
彼女はどうしているだろう。居酒屋には出勤できているだろうか。

「…白河先生?」
「、すみません」

髪を払い、思考に降り積もる思索も払った。怪訝な顔をした先生を仰ぎ、話を転じる。

「先生は担当されてないですか?この辺じゃちょっと珍しいんですけど、関西弁の男の子」
「…関西弁?」
「?はい」

ぱちぱち。こちらをじっと見た先輩が、マグを片手に二度ほど瞬く。何かを思い出そうというよりは、確かめるような。怪訝に思っていれば、その視線がついっと流れる。ブースの入り口、カウンターを超えた視線が向かったのは、ガラス戸の出入り口だろうか。

誰か来たんだろうか。真似して覗いてみるも、蛍光灯の反射するドアが開いた形跡も、足音の気配もない。
怪訝に思って見上げた彼女は不意に呟く。

「……今年は関西か…」
「?」
「いや、なんでもないよ」

なんでもないと言うわりには疲労漂う微笑みである。地方出身の生徒さんに関して複雑な思い出があるんだろうか。
深く突っ込まず相槌を打てば、会話は自然と途切れた。おにぎりを食べ進めながら、小論に目を落とす。

実業団でも企業所属でもなく、大学に進学してスポーツを続ける意義への客観的な視点。結びには個人としての意見と意欲。
基本の構成はよくおさえている。意見に極端な偏りもない。ただ、そのせいか幾ぶん理由が浅いだろうか。体裁は整っているけど、模範解答の域を出ない。もう少し個性を出してもいい気がする。

「……、」

不意に、ものの瞬きほどの一瞬だ。
進学、推薦、原稿用紙。身に馴染んだ懐かしい校舎の窓辺、渡り廊下とプールの階段。
凝縮された追憶が、心臓を丸ごと透過した気がして、思わず原稿用紙から目を上げる。それでも今度は、記憶の再生から逃れられなかった。


白河は、大学でも水泳続けるの。


思考が沈んでいく。記憶の海は塩辛い。浅瀬ばかりが生温く、底に向かうほど冷えていく。

うんとか、そのつもりだとか、今思えばほとんど何も考えず答えていたと思う。ズレは多分そこからだ。
その“思考の差“が、それに気づかなかった私の鈍さが、越えられない競技の特性の違いが、置かれた立場の類似性を上回り始めたのは、きっとあの頃からだ。

赤葦くんも、バレー続けるんじゃないの?

秋口だった。私はすでに部を引退していて、彼は来る春高に向け、チームのブラッシュアップに取り組まねばならない時期だった。
試験期間だったか、オフだったか。背負った鞄が重かった。私たちは制服姿で、郊外の図書館かどこかで自習した、その帰り道だったはずだ。

考えなしの私の問いかけに、彼はずいぶん長いこと黙っていた。
風はなかった。駅まではまだ距離があって、並んで歩いた河川敷には、薄く張った雲越しのぼやけた夕陽が差していた。

…今のチームが不服だとか、頼りないとか、そんなふうには少しも思わないんだけど。

どこか遠くを、目の前の道の先でも沈みゆく夕日でもない。
染まり始めた東の夕闇の境目を滑るように、薄墨色の彼の瞳は、明後日の方向を見つめていた。
あの先には何があったんだろう。


俺のバレーは──、


「………」

その後の言葉を、私は覚えていない。向かい側から走ってきた自転車に、二人してぶつかりそうになって、そこで会話が途切れてしまったからだ。
話を戻すことはできなかったと思う。彼がその一瞬で言葉を仕舞い込んでしまったのは分かったし、深追いしたところで、それを掬い取ることができたとは思えない。

古びたラジオが放送局の電波を拾えなくなるように、ツマミを回しても回しても、チャンネルに合わせられなくなるように。

私が持っていたアンテナがズレ始めたのは───取り巻く全てと隔絶された閉塞にあってさえ、彼とだけは合わせられた周波数を捉えられなくなりつつあったのは、きっとあの頃からだった。












「──先生ちょっと良いですか」
「はい?どうされました?コーヒーおかわり?」
「先ほど二杯目をいただきました、ありがとうございます。それよか先月入った白河先生なんですけど」
「ああ、チラシ見て応募された先生ですよね。何かありました?生徒さんと合わないとか?」
「いや、その辺はノープロです。なんなら今日、小論の添削お願いされてましたから、高3の男の子に」
「それは重畳。信任厚い証拠じゃないですか」
「ええ本当に。ちなみにその生徒さん、関西弁を話すらしくて」
「あら珍しい。ご両親のルーツですかね?」
「……。」
「やだなあそんな怖い顔しないでくださいよう」
「今回ばかりは誤魔化されませんよ。白河先生に何かあったら私の首が飛ぶんで」
「白河先生のバックには財閥か893でもいるんです???」
「いえ、過激派の先輩が一人」
「モンペですらなかったミステリー」
「良いですか、万一にも彼女があのタイムマシーンとどこでもドアのハイブリッドゲートのせいで三年前の大阪なんかに迷い込もうもんなら、」
「残念、彼は兵庫の子です。ちゃんと今年を生きてます」
「やっぱり把握してんじゃないですか!」
「そうカッカしないでくださいよ、牛乳ちゃんと入れました?」
「カルシウムなら足りてます!」
「これは勘ですけど、白河先生、彼の高校に言及したり、気にする素振りはなかったでしょう」
「…、ええ、少なくとも今日の会話では」
「それならおそらく問題ないですよ」
「どういう理屈ですか」
「理屈というよか、経験則ですね。覚えてます?丸一年ほとんど毎週英作の添削を頼んでいた英語講師の名前を、君は受験寸前まで知らなかった。それ以前の問題として、“知らないことに気づいてもいなかった“」
「……、」
「君の場合は、宮城の彼の存在がありましたからね。いずれどこかから違和感を拾うのは時間の問題だろうと予期していました。でも白河先生とその高3の彼には、講師と生徒である以上のつながりはない。“綻び“に引っかからない限りは大丈夫でしょう」
「………」
「ご安心いただけます?」
「……今日、白河先生と話してて」
「はい」
「関西弁ってとこに反応しちゃったんですよね」
「ほう」
「それ、“綻び“になったりしませんかね」
「彼女が深追いしなければ」
「………」






『篠崎ごめん。いつしかやらかすかもしれん』
『は?何の話』
『白河さん』
『死ぬ気で阻止しろ』
『死んでもって言わないあたり優しいよね』
『訂正する。死んでもなんとかしな』
『(´・ω・`)』


210430
通りすがるdoor;

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