叩き折れ、滝雲
行き場なく動かした足は、飛び込んだロッカールームで行き止まりだった。
仕事がある。戻らないと。バイト先で何してるんだ。
わかっているのに立ち尽くしたまま、脚も手も震えが止まらない。耳元に届くほどの拍動が肋骨を殴る。息を吐くだけで視界が霞んだ。
膝が折れる。壁を背に膝を抱えた。震えがやまない。視界の涙にマスカラが滲んで、ただ呆然とそれを見つめた。
髪を染めた。ピアスを開けた。メイクを研究して、トレンドのファッションを追いかけた。
話し方を変えた。人からの目が変わった。自分も変わった気になっていた。
たとえ何を蒸し返されても、皮肉に笑ってそれがどうしたと切り返せると思っていた。
実際はどうだ。
虚勢すら満足に保てず、半べそかいて逃げ出して、薄暗いロッカールームで震えている。
何一つ変わってない。
惨めな無様な私のまま、何も。
前掛けの下でバイブが鳴った。ふと現実に返るように、惰性でのろのろスマホを取り出す。液晶が照って通知が浮かんだ。学科のグループライン。
トークルームが開いて、取り留めない会話を追った。左のアイコンに目が止まる。スニーカーの写真。
赤葦京治。
「───っ」
ほとんど衝動的に指が動いた。
眠たげに見えて凪いだ瞳と、存外意地悪く笑う顔が過った瞬間、形のある思考が溶けた。
呼び出し音が鳴る。4コール。祈るように待つ。6コール。液晶を掲げるように頭が垂れた。
耳に馴染む、落ち着いた低音が聞きたかった。
9コール。
「───……馬鹿か」
赤い終了ボタンを押した。
唇が歪む。静寂が耳に痛い。
脱力した瞼が視界をゼロにして、ついでに惨めに膝を濡らした。
よかったじゃないか、醜態を晒さず済んだ。踏み躙られて惨めにフェードアウトする。そういう立ち位置だ。それがお似合いだ。
歯を食いしばる。心が折れる。それを認めたらそれこそ無様に泣きじゃくる未来しか見えなくて、ただじっと耐えて、全部が収まるのを待った。それくらいはできるはずだった。
仕事に戻ろう。そうすればきっと、帰る頃にはもう少し冷静になれる。
言い聞かせるように、掻き集めた気力で立ち上がった時、ロッカールームの扉がノックされた。遠慮がちに顔を出したのは、ずいぶん心配そうにした先輩スタッフ。
「翠ちゃん?カウンターにいた女の子のお客さん、自分のせいで翠ちゃんを動揺させたって頭下げにきてたんだけど」
事情聞いても翠ちゃんを叱らないでやってくれって一点張りで、大将ももう、今日は宮永は帰すからって。
「あの男の子、知り合い?大丈夫…?」
薄暗い部屋だ。でも、泣きっ面に気づくには十分な採光がある。聞きづらそうに尋ねる先輩に、二度三度瞬いて、頭の隅でぼんやり思った。
普通はそうだ、こうやって尋ねる。
緩慢に上下したまつ毛が濡れて鬱陶しい。そこで気がついた。指の震えが止まっている。冷や汗が滲んだほどの心音も、平常まで戻ってきている。
ゆっくり押し出した声は、思った以上に落ち着いていた。
「…すみません、ご迷惑おかけしました。大将にも…後で電話で謝ります」
出会って少し、大学も違って、個人的なことはほとんど何も知らない。こっちだって何も話してない。
それでも、厨房の入り口までやってきて、あの妙に肝の据わった押しの強さで頭を下げる白河さんの姿が、すんなり想像できることに思わず自然、口角が緩く上がった。
ヒーローは来ない。でもそれが普通だ。嘆くほどの不幸じゃない。
今も、いつだったか人生で最悪だと思える時でさえ、本当の本当に独りだったことはなかった。それだけで十分に恵まれている。
負け犬に贅沢は言えない。
「平気です」
アイラインは滲んだ。マスカラも多分無事じゃない。
でもまだメイクは落とせない。
いつも通りに笑えたはずだ。
それくらいはできるはずなのだ。
相当強いと踏んでいた青年が実際のところ壮絶に酔いを回していたと気付いたのは、会計を済ませて席を立った時だ。
「っちょ、うわ…!」
店を出るなり大きく傾く体躯を辛うじて引き戻す。今度は前のめりになるのを反射で滑り込み、肩から背負うように転倒を阻んだ。
嘘だろ素面だったじゃん、と内心言いかけて、考えれば空けたのは芋と日本酒をロックで6杯。
あの居酒屋のグラスはなかなか大きく氷は少ない。一杯あたりの満足度を思い出して頭を抱えた。間違いなくオーバーキルだ(自分が同じだけの梅やら何やらを飲んだのはカウントしない)(度数が違うのだ、度数が)。
「宮くん一回どっかで休もう、歩けないだろ無理、って…!」
だめだ筋肉の重量に負ける。
歯を食いしばり加重に耐える。意識まで危ういわけじゃない。歩こうという意思は感じる。ただ正直言って、まともに歩けないなら大人しくどこかに座って欲しいのが本音だった。
どうにか耐えて、何とか道端に場所を移す。街路樹を背もたれに、花壇を椅子にして彼を預け、そばの自販機で水を買った。キャップを回して握らせる。
「飲んで」
俯いた前髪の下に覗く頬は酒気で赤く、だが指先は不自然に冷たい。足元の危うさからしても間違いなく酔ってはいる。
でも多分、思考は明瞭だ。
「飲んで。そのままじゃタクシーも呼、」
言い終わらないうちに、彼は突如体をくの字に折った。反射で体を引っ張ったのは酒飲みの多い部で培った経験値による直感、すぐ右に排水溝があったからだ。見事な嘔吐。
道ゆく人の好奇と哀れみの視線が、彼の背とそれを摩る私の背を無遠慮に刺す。やだあ、と避けていく2、3連なるヒールの足元を黙って下目で見送った。
眉根が寄るのが自分でわかる。…この顔の造形だ、彼が素面で歩いていれば黄色い声で囃すに違いない。
胃の中を粗方空にしたんだろう、ぐったり木にもたれる彼に、改めて水を差し出した。一口二口、ようやく飲む。
「……は…だっさ、」
逆立った自嘲が街中の喧騒に沈む。
多分、聞かせるつもりのない独白だった。だからだろうか、険のある声が追い払いにやってくる。
「…構わんでええ。先帰れや」
「君がまともに歩けるようになったらね」
「…」
「ちょ、ああもう!」
その喧嘩買ったとばかりに立ち上がろうとする危なっかしい動きに目を剥いた。どういう負けん気なんだそれは。ちょっと意趣返ししただけじゃないか。
こっちは拒否権ほぼゼロで同行されて黙ってダシにされた挙句、とんでもないスリップ多重事故に巻き込まれたあと嘔吐処理まで買って出た身だぞ。ソフトな皮肉の一つくらい許されてもいいだろう。
そんな真っ当な不満はしかし、ふらふらになって立ち上がる長身の、荒れた横顔を目にした途端まるっと消し飛んだ。
「なんにも聞かないよ」
踏み出そうとしていたスニーカーが止まる。降ってくる刃のような視線。
薄く脆い。刃毀れしたそれに、怯む理由もなかった。
「…そんな状態で、倒れて頭でも打ったらどうするの」
仲良しこよしお喋りしようってんじゃない。足が一本増えたと思えばいいんだ。
睨み下す双眸が揺れた。立ち上がりがてら掴んだ腕の筋肉から、頑なな力みが失せるのがわかった。
だらりと垂れたそれを無言の了承と解釈し、持ち上げて肩に回す。タッパは足りない。でも、酔い潰れた長身どもをタクシー乗り場まで運ぶのもやはり、部の飲み会で慣れたことだ。黙って二足歩行に徹してくれるだけ、酔うとうるさい先輩方より楽でいい。
夏の夜の飲み屋街は騒がしく蒸し暑い。それを抜いても、彼のシャツはじっとりと濡れていた。
よその家の洗剤と他人の汗の匂い。不快には思わなかった。ただ、冷房の効いたカウンター席で、涼しい顔をして見えた彼がいつからシャツの背中を湿らせていたのかと、のろのろとした歩みの合間で思った。
タクシー乗り場はなぜだか無駄に混んでいた。飲みの団体客と行き当たったのかもしれない。
きっと15分も待てば乗れる。でも、嘔吐直後の徒歩10分は、その15分を列に立って並ぶ体力を彼から根こそぎ刈り取ったらしい。
いよいよふらつく彼を半分背負うようにして、見回した先、見つけたのは終電も済んだのか人気の絶えたバス乗り場。
覗き見た時刻表の行き先は思った通り、都心を外れた田舎町へ伸びていた。終電は一時間前の一本。
「……高校が一緒で」
譫言かと思う声がしたのは、ガラリとしたバス停のベンチに雪崩れるように背を預けた少し後だ。
「名前、宮永やのうて、羽鳥やった」
「…」
「……片割れと揉めて、取り巻きにやられて」
最後は警察沙汰で。
「転校して、…」
声は潰えた。ヘッドライトが足元を撫でていく。生ぬるい風が吹いて、タクシー乗り場の列から、膨張して弾けた賑やかな笑い声が届いた。
空気を震わすだけのそれを遠くに、断片だけの言葉をなぞる。
手札は少ない。でも、静寂が彼を切り刻むのがわかるから、欠片ばかりを手繰って繋いだ。
「宮くんが、……“治くん“が直接、宮永さんに何かしたなら」
「…」
「それは謝るべきだし、そうできる。でも、そうじゃなくてただ」
言葉が絡む。舌をほどいた。
「ただ、何か話がしたかったなら」
「…」
「そう言えばいいと思う」
宮永さんならきっと、きいてくれる。
面識の浅い私の主観でしかない。でも、ウィダーと水一本の恩義のために、部活まで探し当てて洋菓子を持ってくるような人だ。具合が悪いと偽ってバックヤードに逃げもできるのを、カウンターを何度も横切って注文を取り続けていた。
都会らしいクールな印象の向こうに、繊細な脆さを見たのはきっと気のせいじゃない。隠しきれなかったであろうそれを、当人が忌避しているのも伺える。
でも、器用じゃない真面目さと、素っ気なく見せる誠実さは、出会った時から一貫している。
アスファルトが溜め込んだ熱を吸って、吹く風が生ぬるく湿る。中身の軽い紙袋が揺れた。
つぶやくような声が、その乾いた音に混じって届く。
「……あんたも、すまんかった」
「…いえ」
ロータリーをぐるりと回ったタクシーのヘッドライトに目を上げて、はたとドライバーと視線があった。
なんとなく意思が通じたんだろう、乗り場に行き着くまでに、バス停に佇む私と彼の前に停車してくれる。彼を向けば、幾分顔色を取り戻したようだった。
「あんた、家どっちや」
「定期があるから電車で帰る」
「…」
「塾講師のバイトなの。この時間なら早いくらいだ」
物言いたげにした彼に告げ、空いたドアに乗るよう促す。若干警戒気味のドライバーには、一応一通り吐いたことを告げ、念のためエチケット袋を受け取った。
袋を彼に押し付け、後部座席に乗せる。億劫そうにするのを無視して、シートベルトをしっかり締めてやった。
「じゃ」
一歩引けば、自動ドアが閉まる。発進するタクシーの赤く照るテールランプを見送った。眩しい赤に目を細め、一息ついて、
その向こう、夜に溶けるように浮く、涼やかな薄墨色を見る。
「────」
視線が外れるまで息が途絶えた。
外れた視線で心音が飛んだ。
ロータリーの一角、記憶の中のそれと違うジャージ姿の一団が、彼を交えて繁華街の向こうへ流れていく。
耳元で嫌に大きく鳴る心音に殴られながら、裂けた心臓に触れないよう、詰めた息をゆっくり逃がした。
体の芯を、冷たいものが滑り落ちていく錯覚。数秒きつく目を瞑った。まなじりはクリアだ。強張った肩の力を抜く。
煌々と照る駅の明かりへつま先を向けた。ポケットの定期を確認する。帰りの列車は数分後に来るようだった。
冷静を装う頭に反し、足取りはふわついている。
嗅覚が記憶を嗅いだ。体育館のワックスと冬風。見上げた乏しい表情から、汲み上げる鮮やかな情動。
日かずを重ねて研いできたその勘も、言わずと通じた感覚も、もう埃をかぶって役立たないかもしれない。そんな怯懦を、遠目の僅かな邂逅であったことを理由に誤魔化し続けている。
そうやってずっと、自分に言い訳をしている。
解決すべき確執などないのだ、少しのきっかけがあれば、元通りに戻るはずだと。
わかっている。
その“いつか”がいつまでもやってくる気配がないことに、私はずっと目を背けている。
200204