盗み聞きしてみる


「あ」
「、…あ」

思わずこぼれた初めの一音は彼女を見つけた彼のもので、応じて返された一音は彼に見つけられた彼女によるものだった。

職員室への呼び出しを受け、一足遅れて部室へ向かう道すがら、校舎を出てすぐ岩泉の視界に飛び込んできたのは見覚えのある小柄な背中だった。肩までの黒髪と落ち着いた面立ち、そして腕には学校指定のジャージの上着。彼をふり向き足を止め、やや緊張気味に小さく笑みを浮かべたのは、去年のクラスメートであり、今年は部の悪質な迷惑行為に巻き込んでしまった女子生徒だった。

「岩泉、今から部活?」
「、おう。城崎は…」
「ジャージを返しに」
「松川か?」
「うん、まあ」

そういえば今日、女子は外で陸上だったか。体育の授業を思い返し、岩泉は納得する。最近は日中でも肌寒くなってきている。城崎がジャージを忘れたとすればそれを知った松川が放っておくとは思えない。
しかし部内有数の上背を誇る松川だ、どう見ても女子の平均身長そのものたるゆづるにそのジャージはさぞ丈が余ったことだろう。ちなみにここで彼ジャーなどのお約束映像をちらとも想像しないのが岩泉が男前たる所以である(及川に言わせれば単なる朴念仁以下略)。

「教室にいなかったから、もう部室かなと思って」
「基本俺らチャイム鳴ったらすぐ教室出てっからな」
「あーやっぱり?」

なんとなく一緒に部室へ向かって踏み出した歩幅はなかなか合わない。女子ってこんな足ちっせぇのか、なんて苦労しつつも、もっとぎこちなくなるかと思った会話が意外とスムーズに運ぶことに岩泉は内心安堵した。ゆづるが平均的な女子に比べてさっぱりしたタイプであることはそれとなく知っているが、やはり差し向けた仕打ちが仕打ちだ。あれ以降気軽に話しかけるには躊躇があったのは否めない。

しかし実を言うと松川を除いて、ゆづるがあの一件以降ここまで気軽に言葉を交わせるのは元クラスメートである岩泉が唯一(花巻とは知り合い未満、及川以下余名は依然圏外)なのだが、当然岩泉がそれを知る由もない。

「本当は洗濯して返したかったんだけど、明日は一限から体育だから」
「構やしねーだろ、着たら一緒だ」
「男の子のそういう無頓着なところって良いよね」
「良いのか?」
「うん、性別の壁を越えたくなる」
「なんかわかんねーけど止めとけ留まってろ」

ウォール松川が来い。一瞬真顔で思った岩泉の内心を知ってか知らずか、ゆづるは吹き出しころころ笑った。
この容姿・雰囲気共に落ち着いた、けれどそれ以外に取り立てて特徴のないように思える女子生徒が持つ、目立たずとも稀有な特質を見抜いたのも、バレー部では岩泉が一番初めだ。

恐らく本人にはさしたる自覚のない、しかし純度の高い他人に対する誠実さ。人に対して驚くほど真っ直ぐな彼女が、その姿勢ゆえに手酷く傷つけられることとなったのを、岩泉はずっと心苦しく思っていた。

「城崎」
「うん?」
「悪かった」
「…、」

足を止め頭を下げた岩泉に、ゆづるは丸くした目をゆっくり弧にして困ったように笑う。律儀な人だ。事情を聞けば松川はもちろん、その友人らはほとんど巻き添えを食らっただけというのに、彼は当然のようにその背へ責任の一端を背負ってきたらしい。

「ポッキーのマジック」
「、は?」
「あれ、岩泉でしょ」

なんの脈絡のない単語の連続に、彼女が見上げる位置まで頭を戻した岩泉が呆けた顔をする。促すように歩き出したゆづるに倣って惰性で足を踏み出した岩泉が、部活終わりに皆でコンビニへ駆け込んだ一件を思い出したのは数秒後のことだった。
及川に苦言を呈され、花巻に呆れ顔をされながらもそのまま袋に押し込んだ赤い箱。極太のマジックペンで豪快に綴ったぶっきらぼうで素直な「ごめんな」の四文字。

はっとして彼女を見下ろした岩泉に、ゆづるは柔らかな笑みと共に静かに告げた。

「大事に食べるよ、ぜんぶ」

そしてすでに1キロ太った。
エ。

打って変わった真顔できりりと述べられた増量報告と、星の彼方までぶん投げられたシリアスに、岩泉が全力で噴き出したのは言うまでもない。





「部室まで行くか?なんなら渡しとくぞ、それ」

和やかに辿り着いた部室練、岩泉が申し出たのは最もなことだった。お菓子の一件があったとはいえ、部室には罰ゲームに率先して参加していた愉快犯共もいるはず。顔を合わせるのは本意ではなかろう。そうでなくとも皆して練習着へ着替えている最中のはず。

ゆづるもそれは同意らしく、やや難しい顔をする。しかしやはり直接礼を言いたいようで、「いや、戸口まで行くよ」と告げた。岩泉は頷き、彼女に先立ち戸口まで向かった。そしてドアノブに掛けた手を、しかしすんでのところでフリーズさせる。原因は飛び込んできた幼馴染の声による間の悪すぎる台詞である。

「実際まっつん最近どうなの?ほら彼女、城崎さんと」

あのクソ後でマジ覚えてろよ。
最近仕込んだ新しい決め技を仕掛けてやると心に決める岩泉の横で、当然同じように会話を聞いたゆづるもまたフリーズする。ドア越しの盗み聞きに良い思い出は一つもない。むしろこの状況に始まり話の流れに至るまでドンピシャでトラウマ級である。

しかし岩泉がさっと窓を覗いたそこには二年の一部しかおらず、問題の連中はすでに体育館に向かっていることがわかった。無論そうでなければ及川がその話題に触れるとは思わないし、声音からしても心配の色が濃いのは間違いない。それはゆづるにも伝わることで、やや強張った顔ながらも頷いて見せた彼女に岩泉は一先ず安堵した。

「どうって…別にあんな波乱はもう起きてないけど」
「起きてたら大問題だよ!」
「いや一部はお前が巻き起こしてたけどネ」
「マッキーは傷を抉りに来ないでクダサイ!」

「…傷ってなんの?」と見上げた彼女に、岩泉は「アイツがお前に余計なこと言ったヤツ」と返す。あれは未だに及川にとっては罪悪感の種なのである。しかしゆづるは思い出したように「ああ校門の…」と頷くにとどまった。ここまでわずか3秒の出来事である。

「まあでもみんな結構心配してっからな。聞くに聞けねーけど学校で一緒にいるのもあんま見ねーし、実際大丈夫なんかなって」

まあアホ共がいっから学校じゃ目立ちたくねーってのはあるだろうけど。

花巻らしい軌道修正の仕方だ。彼はこうやって相手を説き伏せ会話に応じさせるのが上手い。あの寡黙で無表情な少女を恋人にするだけある、と言えば彼女に失礼な話だが。

そうそれだよ、大丈夫なん?と続く口々の追求に、ゆづるは驚き半分、思わずぽつりとこぼした。

「なんか、すごい心配されてるんだね」
「まあ…経緯が経緯だからな」
「…ごめん…」
「いや、城崎が謝ることじゃねーだろ」

肩を落として項垂れるゆづるに岩泉はちょっと慌ててフォローを入れる。むしろ責任は全面的にこちらにあるというのが彼の認識である。
だが実際その後の交際の雲行きは如何なものなのだろう。それは岩泉にとっても気になる点だ。松川には帰り道なりなんなりで聞けるが、もう片方の当事者、ゆづる本人となればそうはいかない(なんせ彼女には番犬もとい元ヤンの友人がついている)。

これはいい機会だろう。岩泉は結論付け、ドア越しに聞えないよう潜めた声で尋ねた。

「…けど、マジで何ともないのか?」
「え、何も。本当に何もないよ」
「アホ共に絡まれたりとか、」
「むしろ遠巻きにされてる気がする」
「…それもそれだな」
「…それもそれでしょ」

原因は言わずもがな、番犬もとい元ヤンの以下略。

「ていうか俺的にはまっつんがちゃんと彼女に好きってアピール出来てんのかが心配!」
「えっ、けど松川さんってこう、すごいスマートそうじゃないですか?」
「基本的にはなー渡。けどあの子に対してはマジ別格」
「マッキーそれブーメランだから。お前こそカノジョに対して別人だから」
「だあってろバカ俺の話はどうでもいいんだよ」
「あ、花巻さんの彼女ってあのめっちゃ可愛い人ですよね?ふわふわ髪の、」
「やーはーばくん?」
「えっ違いますそういうんじゃないっすよ!」

岩泉とゆづるは黙って目を合わせる。そして何とも言えず前を向き直した。楽しそうで何よりである。

「で、話戻すけど!どうなの、ちゃんと両想いで噛み合ってるわけ?」

ぱん、と一つ手を叩いた及川によって四散していた話の方向が、再び一つの矢印となって松川の元へ戻ってくる。皆一瞬黙り込んだ。まさに「噛み合っていなかった」両想いが突如瓦解し、一瞬で破綻した記憶はまだ生々しい。

しばしの沈黙。ドア越しでも室内でも、耳を立てる皆に走る一抹の緊張感。
数秒の衣擦れの音を挟んで、松川の声がゆっくり紡いだ。

「…好かれてないって思うことはまあ、もうないけど」

あの子の親友が聞いたら間違いなくキレられそうだな、と独り言のように呟かれたそれに、身に覚えのないゆづるは首を傾げる。だが何のことかと岩泉に尋ねるより早く、いつも通りに平淡な声が彼女の思考をフリーズさせた。

「やっぱたぶん、まだ俺のが二倍は好き」

一瞬完全な沈黙が一同を包み込んだ。ドア越しでも室内でもである。

ばったんがたがた、ずるずるぺたん。

部室内にて各々が手にしていたであろう練習着やらシャツやらが投げ捨てられ、膝やら拳やらが床を打ち、やや遅れて壁に預けられていた少女の背中が滑り、座り込む音が同時多発的に響いた。そして声になったりならなかったりの種々様々なる呻き声。

「くっそ惚れた…全俺が泣いた…っ」
「すげぇ砂吐く惚気のはずなのに爆発しろと言えない謎」
「何だよもうショージョマンガかよ!」
「俺ちょっとハッピーエンド探す旅に出る」
「聞かせてぇ…!今の超絶聞かせてぇ…!」

花巻の渾身の切望に、「…聞いたよな」なんて岩泉が見下ろせば、ゆづるは声なく無言を要求した。ジャージごと膝を抱えた耳は真っ赤である。しかしそれも束の間、そして頬を染める熱ごと振り切るように猛然と立ちあがった彼女は、抱えていたジャージを岩泉に押し付けた。

「岩泉、これ、渡しておいて」
「お、おう」
「あと絶対、お願いだから私がここにいたって、」
「言わねぇよ」
「絶対にだよ、絶対言わないで」
「わーったから」

普段の落ち着きも何も放り出したゆづるによる矢継ぎ早の要求に一瞬気圧されたものの、すぐに彼女をいなしにかかった岩泉は思わず苦笑した。真っ赤になった顔を隠すように俯く黒髪を見下ろす眼差しは、手のかかる妹に向けた兄のようなそれで、分け隔てなく許されたやさしさにゆづるはぎゅっと目を瞑る。

きちんと畳んであったろうに、この数分でいささかくたびれた様子のジャージを受け取り、岩泉は彼女を死角になる位置に押し込む。そのまま今度こそドアノブに手をかけた彼を、しかしすんでのところで再び止めたのはゆづるの方だった。

「いや待って、…ただあれだ」
「ん?」
「……二倍っての、撤回しといて」
「…は?」
「私が半分しか好きじゃないって、それ、絶対嘘だから」

きりり。染まった頬の赤みを残したまま、それでもしっかり言い切ったゆづるは、踵を返すと脱兎のごとく部室練を去ってゆく。あ、おい、とかけた声もむなしく見送るに徹した岩泉は、くすぐったい思いをごまかすように、顔をしかめて首裏を掻いた。
つまり結論から言って、どうやら自分たちの――無論松川も含んでのことだが――心配は杞憂に終わったらしい。

しかしそれにしてもだ。

「そういうことは自分で言ってやれ、阿呆」

さて、畳まれたジャージを顔面に押し付けてさっきの台詞を再生してやれば、スマートに見えて実際スマートで、しかし文字通り彼女限定でスマートさも余裕も自信もないチームメイトは、果たしてどんな顔をしてくれるのやら。

なんなら後で城崎に送りつけてやってもいい。ニヤリ、唇を吊り上げた岩泉はカメラを起動したスマホ片手に、勢いよくドアを開け放った。


160101
この後赤面松川さんの写真が彼女の元へ(強制的に)送られ、二人同時に撃沈します。
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