short | ナノ


▼ Girls, be courageous.

若い女性にとって、ラッシュ時の満員電車に乗るのは時にリスキーである。

乗る車両はいつも決まっている。ホームへの階段を上がって右へ三つ目の乗車位置。やや人が少なく、しかも降りる駅では階段に近くなる好ポジション。それは何も彼女、名字名前だけが発見することではなく、同じ時間帯に乗り合わせる顔ぶれは全員と言わずともぽつぽつと揃ってくる。社会人であろうまだ年若いその女性も、名前の記憶にうっすら残る乗客の一人であった。

いつも通りの光景に異変を感じたのは、乗車から15分ほど経った頃だ。
文庫本に落としていた視線の端っこが、ベージュのパンプスの細い脚の不自然な動きに引っかかった。すい、と視線を上げれば斜め向かい、人込みの隙間に押し込まれるようにして立つ小柄な女性に、名前は見覚えがあった。帰りは会わないが、朝にはよく見かける。落ち着いた服装に派手さはないが、控えめな化粧の飾る面立ちが綺麗で何となく記憶に残っていた。

その女性の様子がおかしい。名前は気づかれない程度に視線を走らせた。俯きがちな表情ははっきり見えないが、ちらと見えた口元は強張っている。白い手は何かを堪えるようにバックの取っ手を握りしめていた。何より定まらない足元のパンプスはふらついているというより、むしろどうにかして立ち位置を変えようとしているように見える。

電車が減速する。まだ降りる駅ではない。名前は下車する乗客のために文庫本を仕舞いながら、女性を見失わないようパンプスの爪先に目を凝らした。彼女もここでは降りないらしい。降りる人々の流れに乗じ、ベージュのパンプスがやや右へ移動する。その時気づく。その背後、まるで後をつけるように動いた革靴が、彼女の背後にぴたりとついた。

パンプスの女性の肩が揺れる。だが遅かった。乗り込む乗客の波がパンプスと革靴の位置を固定する。女性の顔が強張った。ぎゅっと瞑られる目。間違いない。確信すると同時に心臓がどくりと、緊迫に大きく波を打った。

足元へ引いてゆく血の気を、拍動を大きくする心臓でもって懸命に吸い上げる。どうする。温度を失くしてゆく脳味噌を叱咤した。―――どうする?問う時点で存在する選択肢に瞳が燃えた。では何か、見捨てるつもりか。

燃える炎の勢いのまま、ローファーの間に置いていた鞄を掴み上げて肩にかける。迷惑そうにする周りの乗客にも今ばかりは構っていられない。そうして一歩を踏み出した瞬間、静かな車内によく通る声が唐突に響いた。


「スンマセン、次で一緒に降りてもらえますか」


ぴたり。声はない。だがまるで一石を投じられた水面のように、満員電車の車内の空気が無言のうちに凍り付き、無言のうちにざわめいた。パンプスの女性が目を大きくして横を見る。彼女からは人影になって見えないそこから伸びる腕。

気兼ねなく無造作に、淡々と放られた低音は若い男のもの。見えたのは何かを掴む大きな手。その袖口を彼女は凝視する。あれは青城の、名前の身に着けるそれと同じデザインのブレザーではないか。

「な…にを、」
「いや、わかってますよね」

一見愛想がないだけで平淡にとれる声音に、射竦めるような冷たい軽蔑が含まれているのは気のせいではあるまい。生ぬるく淀んだ車内の空気が、ぴりり、剣呑な電気を帯びる。

それとももしかして。続けた青年の声音は次の瞬間一気に低まり、隠した牙を剥き出しに男の喉笛に突き付けた。

「ここで言った方がいいっすか?」
「っ…!」

アナウンスが鳴り響く。ざわざわり、意味深な一言が示す意味は明白。あれだけすし詰め状態だった車内のどこにそんなスペースがあったのか、じりりと後退した周囲の乗客により、ドアから入って斜め右に人の捌けた空白が生まれる。その中心に残されたのは果たして、先ほどのパンプスの彼女と、その背後にいた革靴の男、そして逃げんとするその腕――女性の腰元にある――を掴んでぴくりとも動かない長い腕。

やはりそうだ。周囲を見渡し焦る男を前に、落ち着きながらも油断ない緊迫感を保って佇む青年。その身を包む青城の制服に、名前は眼を大きくする。
青年本人に見覚えはない。見上げる長身は180前後、恐らくは同級生。つんつんした黒髪の下、睨み下ろす剣呑な視線がスーツ姿の男を威嚇している。

「何をっ…離せ!私は何も、」
「言い訳は駅員の前でしろよ。こっちは―――」

敬語の片鱗を投げ捨てた声を半ばで遮るアナウンス。停車する列車。まずい。感じたのは名前だけでなく彼も同じだっただろう。男は青年がさっとドアに視線を走らせた一瞬のスキをついた。
不意を打って振りぬかれるビジネスバック。青年の反応は早かった。腹を狙ったカバンを弾いたのは空いていた片腕か。しかし男を取り押さえていた手は振り払われ、彼はバランスを崩す。ドアに向かって逃げんとパンプスの女性を突き飛ばした男に、名前は反射的にドア横から飛び出した。

突如行く手を阻んだ名前の姿に目を、男のみならず青年もまた一瞬驚き動きを止める。だがそれに気づくわけもなく、名前は真っ向から男を睨み上げた。道を塞ぐその姿に男は一瞬怯んだようだが、所詮は上背も肩幅も劣る女子高生。加えて男に躊躇っていられる余裕はない。

男の目が何かの企みに閃くのが見えた。伸ばされる腕、突き飛ばされるかと身構えた名前はしかし、次の瞬間無遠慮な手に右胸を鷲掴みにされ凍り付いた。

戦闘意識を根こそぎ刈り取る姑息な真似。咄嗟に頭が真っ白になる自分へ、男が下卑た笑みを浮かべたのを名前は見逃さなかった。
こいつ。力の抜けてゆく脚に歯噛みする。しかし男が名前の壁を突破することは叶わなかった。

男の背後に見えた、雷光閃く鋭い眼。

「うがッ…!」

男が目の前から消失した。名前にはそう見えた。瞬くほどの一瞬、気づけば男は床に叩きつけられていた。

足元で声もなく呻く男と、そのスーツを掴んで覆いかぶさる黒髪の青年の姿を呆然と見下ろす。ばくばくと鳴り響く心臓が止まらない。何がどうなったのか名前にはほとんどわからなかった。わかったのは青年が男をふり向かせ、ぐっと距離を縮めた刹那、男の体が直下へ落下したこと。
ばちり、ぶつかり合う視線。鋭利に砥がれた眼光に息を呑んだのは無意識だった。

「岩ちゃん平気!?」
「何ともねぇよ」

唸るような応答。視線が途切れ、名前は細く息を吐いた。聴覚が騒然とする車内の喧騒を拾い始める。伸びた男の呻きが聞こえた。背中から落ちた男には受け身を取る間もなかったはずだ。

肩を掴んで力任せに振り向かせ、鞭のようにしならせた脚でスーツの足首を刈り取り、体勢を崩した相手の体重に乗せて一気に床へ叩き落とす。見事な大外刈りを決められ、身動きの取れない男を見下ろす青年―――幼馴染に呼ばれた愛称もとい、名を岩泉一は、流石にもう逃げられないだろうと男を解放し立ち上がった。

「岩泉」
「おう、頼む松川。花巻」
「問題ねーべ、ちゃんと撮れてる」
「及川」
「うん、大丈夫。怪我はないよ」

綺麗にセットされた茶髪の青年の応答に目を向ければ、その大きな手が突き飛ばされたパンプスの女性を助け起こすのが見えた。怪我はなく無事らしい。
騒然とする車内を出てホームに降りて行った一際背の高い青年―――松川一静は、ちらり、名前の様子を伺いながらも足早にその隣をすり抜けてゆく。おおよそ駅員を呼びに行ったのだろう。スマホを片手に佇む別の青年、名前は知らないがその名を花巻貴大は、犯行現場を捉えた映像に目を落として頷いた。

緊張からの解放と脱力に、ふらり、名前は思わず片膝をついた。勢いだけで耐えきった胸に残る感触が、リバウンドのように戻ってくる。繰り返される嫌な拍動に歯噛みする名前に、気づいた岩泉は一歩踏み出し身をかがめた。

「大丈夫か」
「っ……はい、」

眉間に刻まれた皺が懸念と心配を物語っている。揺らがぬ視線と共に差し出された大きな手を前に、名前は力の入らない脚を叱咤した。

突き指を繰り返し、ややいびつに節くれ立った長い指に、対照的な細指が重ねられる。大きな手は迷うことなく残りの距離を詰め、名前の手をしっかり握った。そうして目下の華奢な肩に負担の掛からぬよう、手首から肘を持ち上げるように腕を引く。

想像以上に力強い手にあっさり体重を引き上げられた名前は、ほとんど使わずすんだ膝が足首を見失いそうになるのを堪え、岩泉の右手に縋ったまま靴底でなんとか地面をつかむ。足元の覚束ない彼女がようやく自立できたのを見計らい、岩泉は手を離した。

「すみません」
「いや」

謝罪とも礼とも言えない一言をなんとか音にはしたものの、強張った表情筋は笑みを作るには至らない。庇うように胸へ行く手を抑えられず、右胸の下、あばらを掴み爪を立てる名前を見て、岩泉は言葉に迷うそぶりを見せた。だが名前はそれを遮って「私よりあの人を」とパンプスの女性へ視線を投げる。今は別の女性客がついてくれているようだが、事情聴取にまでは同伴できないだろう。

本来自分も関係者として多少の聴取に参加すべきなのかもしれない。だが込み上げてくる吐き気は無視できそうにない。名前はせり上がる胃液を飲み下すように唾を呑んだ。血の気が引いてゆく―――まずい。悪化する吐き気に歯止めをかけられない。

駅員が駆け込んできた。ホームの人込みにざわめきが伝染してゆくのがわかる。名前は歯を食いしばった。胃の腑が捩れて戻らない。座り込みたい。どこでも良いから休みたい。たまらずきつく目を瞑った瞬間、二の腕を強く掴まれて飛び上がった。自身の体が傾いていたことに気づいた時には、肩から押し込まれるように座席に座らされていた。

「倒れるぞ、座ってろ」

肩を易々包んでいた大きなてのひらが離れていく。素っ気ない声音だったが、座席に押し込む手つきには無骨なりの慎重さがあった。背中に座席の柔さを感じて、ふっと肺から息が抜けた。抱えたカバンに首を垂れる。手足が震え、冷や汗が滲み、追いかけるように涙がこぼれた。

頭上の気配が揺れる。さっきの無造作な手つきが一転、ひどくそろそろと肩に触れた。撫でるでも叩くでもない、そうっと添えられただけの優しさは、関係者として駅員に声をかけられるまでずっと、名前の右肩を温めていた。


160502、161028
200527
四年前の連載のなり損ないです。今以上の凄まじい説明文。本当は七話くらいまで書いていたのですが、続きが出来ず頓挫しました。短編にて消化。

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