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▼ 酔わざれど




なるほどこれはシャレにならないレベルらしい。

一体今晩の何が悪かったんだろうか。度数はせいぜい10パー前後、ロック縛りではあったものの空きっ腹に流し込んだわけではないし、フレーバーこそバラバラだったが基本は果実酒、酷いちゃんぽんもしていない。単純に飲んだ量か?あの程度なら許容範囲だと思っていたんだが、そこから見込み違いだったのか、体調が万全でなかったのか。

いや、この際もう何だっていいんだけど。冷静に自己分析するだけの思考回路は健在だが、結局のところ言えるのはただ一つ。

「……気持ち悪…」

胸焼けは無い。ただ胃の腑がぐるぐるする。眩暈に似た感覚からして、これ以上無闇に動けば間違いなく吐くだろう。ほとんど確信に近いそれを現実にしないよう、壁に頭を預けたまま深々と息を吸う。おもむろに見上げた夜空はよく晴れていて、真上にはまん丸の月が浮いていた。

どうりで明るいわけだ。吐きそうでさえなければもっと楽しめただろうに。
思いながら、吐いた息は深呼吸というよりため息に近かった。蓋を外せば呪詛が漏れそうだ。せっかくの良い月夜にリバース危機か。不愉快な席の不味い酒だった。いや、元はと言えば返品出来た喧嘩をがっつり買い取った自分が悪いのか。そうだな、自業自得でしかない。


辛うじて脱出した店先の路地、自販機横に古いベンチが置かれていなければ今頃地面に座り込んでいた自信はあった。冷たいベンチも壁も火照った体に心地いいが、如何せん身を預けるには固くて痛い。

手元にあるのは先ほどから数分おきに着信を告げていたスマホ一つ。初めは同期から、次に先輩の名が浮かんだ後には電源を切った。本日の強がりは完売した。正直喋るのも億劫だ。黙って暫く寝ていたい。

がらり、少し離れた壁伝いに引き戸が引かれる。振動が壁を伝って頭に響き、思わず顔をゆがめて首を離した。垂らした脳味噌がぐわんと揺れる。
どれくらいすれば動けるようになる?荷物をまとめて出てきていればこのままタクシーでも呼んだのに。いや待て、今ここで乗車なんてしたら車内で吐くしか道が無い―――がこん。自動販売機がボトルを吐き出す音を聞いてふと思う。荷物は無理でもせめて財布は掴んでこればよかった。それがあれば水は買えたろうに、

思って下げた視界、頭に浮かんだボトルの水が、膝に垂らした手の間に押し込まれる。

「―――起きてるな」

半分落とした瞼が持ち上がる。ざり、スニーカーの靴底がアスファルトを擦る音が、降ってきたぞんざいな低音と相まって、やけにクリアに鼓膜を揺らした。腰掛けたベンチが軋み、反対側に体重が加わるのがわかる。わずかに傾けた頭、向けた視線が視界の端、大きな手がボトルのキャップを容易く捻るのを捉えた。

「何が『思うほど酔ってない』だ。陥落寸前じゃねぇか、阿呆」
「……その節はどうも…」
「その上電話も繋がんねぇし。どっかでぶっ倒れたかと思ったわ」
「…すんませ……」

素っ気なくも途切れることなく重ねられる言葉にはどことない棘がある。基本的にさっぱりしていて根に持つことに縁のない岩泉には珍しい、言い咎めるような口調だ。ちくちく突き刺さるそんなお小言には弁明したい点も多々あるのだが、如何せんそんな元気がないのと、売られた喧嘩を買い取り損ねたことは否定できないため、大人しく謝罪を吐き出しておいた。
どっちにせよ岩泉の機転が無ければここまで逃げてくることも叶わなかったのだ。感謝こそすれ文句を言える立場にはない。

膝に置かれたボトルの冷たさが心地いい。喉の渇きを思い出してキャップに手をかける。力が入らない。唇を噛んで力もうとした瞬間、伸びてきた手が私の手を押しのけた。私の握りこぶしでも包み込んでしまえそうな手のひらが、キャップの頭を握る。

「握ってろ」

言われた意図を理解するのにたっぷり三秒。ぎろり、不機嫌そうな三白眼に睥睨され、漸く察してボトルに両手を添える。目一杯押さえこんだはずのそれは、それでも明らかに岩泉の握力には力負けしていた。呆気ない一ひねりで易々と切られた封、グラスを取られた時と同じくらい迷いの無い手は、私の膝にキャップを残して去ってゆく。

「…ごめん…」

ころり、膝に転がる透明のキャップが私の中の何を呼び覚ましたのか知れないが、なんだか急にいろいろと情けなくなった。礼でなく謝罪を吐き出した声は自分でわかるほど萎れていて、その弱り具合にうっかり目頭が熱くなる。

自覚はある、これは酒の所為だ。わかっているがゆえに自分でげんなりする。この展開に泣く要素などどこにもなく、思考はいつも通りこの上なくクリアである。手綱が引けないのは体のみ、問題なのはそこに涙腺も含まれるということだ。

そこまで冷静に分析しているというのに、現在私の統率下に無い涙腺に対して無自覚砲撃を浴びせてくるのが隣の男である。

「…別に、怒ってるわけじゃねぇよ」

―――性質の悪い声だ。嘘を吐けない性格がそのまま表れている。
言い過ぎた、なんて副音声が聞こえそうなバツの悪い声が鼓膜を撫でる。そういう無自覚の優しさが私の脳味噌を馬鹿にしようとしているアルコールに拍車をかけるなんてまるで考えちゃいないのだろう。嫌になるほど良い男だ。断じて褒めてるわけじゃない。

黙ってボトルを持ち上げる。口をつけたそこから流れ込んだ冷たい水は、爛れたように熱い喉に心地良かった。覚束ない指先の力がボトルを揺らしたせいで、零れた水が口端を伝った。億劫に持ち上げた手の甲で拭い、ベンチに背を預け直す。

視線を感じる。気のせいだろうと瞼を落とせば、ぐらり、腰掛けた身体の重心が傾いた。間髪入れず飛んできたのはやっぱりあの大きな手、肩を掴まれ支えられる。おい、と呼ばれる声に瞼を持ち上げれば、ごめんの言葉を出す前に、やや間を置いてベンチが軋んだ。

「、…」

一瞬浮いた体重が、さっきよりずっと近い場所に再び落ちる。夜風にまじる自分以外のひとの匂いに、傾いた頭が自然と持ち上がった。髪が何かに触れる。身じろいだ腕がその温度を捉えた。視界を横切る逞しい腕、こめかみに触れる武骨な指が、ぞんざいに、けれど慎重さを隠せずに、頭をそっと引き寄せる。身体ごともたれかかった先の温度に思わず息が詰まった。

「……しばらく寝てろ。少ししたら送る」

耳ざわりの良い低音が静かに響く。鼓膜へ、触れた頭から直接に。跳ね上がる心臓の原因は多分、アルコールのせいだけじゃない。

シャツ一枚越しの逞しい肩、斜め60度の傾きが、火照った脳味噌に心地いい。伏せた視界が彼の足元に行き着いてはっとした。地面に置かれたバックパックを下敷きにするそれが私の鞄だと気付いた途端、ぶわり、心臓が握り潰されて、言い様の無いいろいろが溢れ出した。

(―――ああ、もう)

形容しがたい衝動に突き動かされて、手に取ったのは無造作に投げ出されていた大きな右手。触れ合う肩が跳ねるのを無視して握り込んだそれは、当然私の手より二回りも大きくて、掌は厚く、骨ばった指は長かった。

「っおま…おい名字、」
「……この手が悪いんだよなあ、」
「はあ!?」

グラスを奪い、電話を掛け、キャップを捻り、肩を貸し。今日一日、もっと言えば今晩だけで私は何度この手に世話になったことか。
ややいびつな関節は繰り返した突き指の所為、手のひらの皮の厚さは打ち下ろしてきたボールの数を物語る。整えられた爪とかさつく肌のアンバランスさ。うん、好きだなあ。漠然と思う。言葉には乗せない。そのくらいの分別は踏みとどまっている。

「ハンドクリームもちゃんと塗りなよ、大事な手だろ」
「…この酔っ払い、いきなり何して」
「それからアレね、バレーする手。あんま女の子勘違いさせないことね」
「、」

そう、勘違い。口の中で転がして確かめる。飴玉のようにゆっくり溶かして飲み込むために。
なるべく軽く聞こえるように、地に足つかなくなりつつある思考回路に便乗して、へらり、笑って身を起こす。そのまま悪戯に弄んでいたのを解放しようと、その手が不意に、私の手を握り込んだ。私の様に中途半端な戯れではない、意志を持った明らかな力。

何を。起こした頭を持ち上げようとした、その瞬間、降り注いでいたはずの月影が遮られ、唇に触れる柔い熱。

「――――、」

衣擦れの音が耳を焼く。服越しに伝染する体温。凍り付く首裏にゆるり、回る手が髪をまさぐる。いつの間にか絡められた指は握り込まれ、逃げることを許されない。

項を捉えた手のひらが持ち上げるように顔を上向かせる。合わさる唇が微かに開き、私のそれを食むように咥え込んだ。
重なりが深くなる。きつく香るアルコール。火傷しそうなほどの熱と共に、さっきまでとは質の違う酔いが回り始める。熱い。たべられる。

走った本能的な恐怖は、野生の勘じみた何かによって拾われたに違いなかった。

「…っ」

緩まる拘束の隙間に再び月光が差し込む。照らされた鋭い双眸と目が合った。見開いたままに違いない私のそれを見詰める瞳に散る一瞬の躊躇。
孕んだ不安とせめぎ合う熱に、ああもういいか、何かが切れた。

視界を瞼の裏に投げ込む。返事はそれで十分だった。

躊躇いがちに触れる唇を拒まず受け入れる。内側から燃えるように体が熱い。わずかに空いた隙間を埋めるようにゆっくりと睦み合う。火照る体に眩暈がする。溶けそうな熱を孕む唇を擦り合わせ、名残るアルコールを舐め尽くされる。

酔いが回る。ぐらり、傾ぐ体に唇が離れた。逞しい腕はやすやすと私を引き寄せ支えたものの、一連の動作は咄嗟の反射の功績だったのだろう。そうっと頬を包む手からは、我に返った動揺がひしひしと伝わってきた。

「…名字、」

囁くような声にはっきり滲んだバツの悪さに甘いため息を吐きたくなる。吐きたくなる、というのは実際そんな余裕は皆無であり、正直声を出すのも億劫なほど酔いが体に回っている故だ。

わるい。
ぽつり、呟かれる謝罪に濡れた唇を引き結ぶも、結局堪えられずに笑ってしまった。シャツ一枚越しに触れる肌は私に負けないほど熱い。相変わらず安心するほど素直で嘘を吐けない男だ。

アルコールの所為には出来ない。たとえリバース一歩前でも思考は依然明晰だ―――完売したはずの強がりの在庫を引っ張ってこれるくらいには。
熱の引かない頬を暗がりへ、鳴りやまない心臓を隠し、頭を揺らさぬよう注意してゆっくり彼から身を起こす。

噛み合った視線の先、ゆらり、揺れる瞳のわかりやすさに笑みが漏れる。眉間に入る深い皺は、酷く複雑に混在する感情を持て余していることを物語る。
なるべく不敵そうに笑う。何でもないよう聞えるように、平気を装うのは得意技だ。

「岩泉、酔ってる?」
「、…名字ほどじゃねぇよ」
「思うほど酔ってないって言ったろ」

しれっと切り返せば黙り込む岩泉に、今度こそ素のままの苦笑が漏れた。そしてたったそれだけの動作で身体がふらつく。あ、こりゃ駄目だ。前言撤回。

ごめん、やっぱ肩貸して。言う前に黙って距離を詰められる。一瞬身じろいだが、私が動かなくて良いようにとの配慮だろう。同じく無言で気遣いに甘えれば、さっきと同じ、斜め60度の温かな傾きが戻ってくる。違うのは包み込まれたままの手だけ。

「お前こそそれのどこが酔ってねぇんだよ」
「失礼だな…思考は常にクリアだよ」
「なら、同意したってことでいいのか」

素っ気ない声の唐突さに一瞬言葉を取り落とした。…はてこの男、一体どこのどのタイミングで何のスイッチを切り替えたのか。さっきまでの躊躇を失くして落ち着き払った問いかけが、のらりくらりと躱す退路を一つ一つ断ってゆく。

「…意外だね、そんなずるい手を使うとは」
「嫌か?」

見上げるまでもなく確信する。見上げてしまえば逃げ場はない。彼の目がいかほどに物を言うかは今晩だけで嫌というほど理解している。

「…しばらく寝てろ。少ししたら送ってやる」

さっきと同じ素っ気ない台詞が、比べ物にならないほど甘く響く。ほどけるような囁き声にいちいち掴まれる心臓がまた悔しい。
それでもぺたり、頬を寄せた逞しい肩が先ほどとは段違いの熱を孕んで火照っているから、何も言わずに瞼を下ろし、まどろみの中に身を投げた。


170505
お粗末様でした。

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