空蝉 | ナノ


夏が孵化する匂いがする。
乾いた土のような、雨が降った晩の翌朝のような、噎せ返る死んだ夏の匂い。夏という季節が孵化した時、既にそれは死んでいるのだと思う。春が始まりを告げる季節ならば夏は終わりへと向かう季節だと誰かが言っていたことを思い出しながら栞は古びた障子を開け、青い空の一等遠い場所に広がる大きな入道雲を見つめた。

夏に近いけれど、夏と呼ぶには生温い。そもそも梅雨すら訪れていない、そんな中途半端な時期を生きている間は土の中で眠る蝉のような気持ちになる。どんな世界があるのかも知らず、己の最期など知らず、ただ目覚める日を待ちながら終末への道程を夢見るのだ。

五つ年下の妹は夏が嫌いだと言っていた。ああ確かに妹には夏よりも冬が似合うと、完全なる少女を内に秘めた妹の横顔を眺めて納得したのは一体いつの話だったのかもう栞は思い出せないけれど、妹の頬に青紫の真新しい痣があったことだけは覚えている。

身体に現れる傷や痣は時間と共に薄れ、痛みもつらさも忘れていく。けれど、妹の内側に刻まれた傷はきっと死ぬまで薄れることはないだろう。流した血の色や味、痛みを忘れはしないだろう。

栞は妹になれず、妹は栞になれない。従って妹の痛みを代わりに受けてやることも出来ない。せめて自分が女に生まれていれば妹と同じ苦しみを共有出来たのかもしれないと悔やんだところで、何の解決にもならないことは栞が誰よりも理解していた。


おにいさまは悪くないわ、悪いのはあの人たちよ。男に生まれたことはそれほど誇らしいことなのかしら。あの人たちも妾の子じゃない、私と何が違うというの。何も持てない癖に、傷付く恐ろしさなんて知らない癖に。女が流す血の味を知らない癖に。


見た目の幼さにそぐわない冷たい声で呟いた妹の声が耳の奥で何度も反響しては夏の気配に消えていく。孵化した夏に付き纏う死の匂いは女の羊水と同じ温度だと言ったのは誰だっただろうか。

夏が死んだまま生まれ、人は死のなかで息をする。もしも自分が蝉であったならば、地獄のような外を知るよりも冷たく湿った土の中を世界だと信じ込んで土の中でひっそりと死んでしまいたいと思った。