春骨 | ナノ



お祭りに行けるかもしれない。陰鬱とした生活に射したその一筋の光明を支えに燈雀は幾度か死の淵へ追い遣られつつも、なけなしの根性と意地で踏ん張りながら半月後に床を上げた。人間、本気でやれば何とかなるものだと熱の引いた額に手のひらを宛がう夜鶴の安堵が滲む表情を見上げ、しみじみと思考を巡らせる。「薬湯を少し減らしましょう」と提案し、夜鶴は火鉢の中に転がる炭を灰にまみれた箸で突っついた。ぱち、と細かい火の粉が箸の先で舞った。

「あとは滋養のあるものを食べて、安静にしていれば大丈夫ですよ。まだ朝晩は寒うございますから、油断なさらぬようきちんと着込んでくださいね。春宵祭に行かれるのでしょう?」

「ごめんなさい、お前まで巻き込んでしまって……」

「早世さまのお側付きとして毎年同行しておりますので、陛下にお小言を頂くのは慣れています。ともに叱られましょう、燈雀さま」

赤く熱を持った炭がのっそりと横たわる火鉢に土瓶を掛けた夜鶴は悪戯を企てる子どものように声を抑え、使い古された薬研をずるずると部屋の隅から引きずり出して朗らかに笑った。まさか、薬湯を減らそうと提案した矢先に新たな薬湯を煎じるつもりなのだろうか。幼少の砌より飲み続けた薬湯の味が舌にじわりと広がり、燈雀は思わず頬を引き攣らせた。

夜鶴とて、好き好んで燈雀に不味い薬湯を飲ませているわけではない。すべては燈雀の身を案ずるがゆえの味だと、誰よりも燈雀自身が理解していた。そうでなければ、壁を埋め尽くすほどの薬棚に仕舞われた数多の薬草を管理し把握することはできない。組み合わせひとつで生にも死にも近付く薬湯の配合に頭を悩ませはしない。

有難い話だ、と燈雀は視線を開け放った障子の先へ向けた。放っておけばあっという間に事切れるであろうこの身を、少しでも案じてくれる誰かがいる。たとえ次代の女王を死なせてはならぬという義務感に近い感情によるものであったとしても、それは幸福なことだ。

「ねえ、少し庭に出てもいいかしら。薬湯が出来るまでには帰るから」

「あまり遠くに行ってはいけませんよ」

爛漫の春に守られた美しい庭を愛でることができる、その事実に頬をうっすらと赤く染めながら燈雀は踏み石に並んだ草履を履き、天恵の陽が照らす庭を散策するために足を踏み出した。


燈雀が知る禁裏の春は、取り囲むかのごとく咲き誇った数多の桜がほろほろと花びらを溢し、橋の欄干に散花の影が落ち、彩り淡き花が蝶を呼び寄せるそのさまだ。燈雀が身を置く紅葉殿から見える景色のすべて、と言っていい。迂闊に出歩くことも憚られるほどに広く、構えられた殿(あらか)や蔵の数は両手両足では到底足らぬと語る侍女や使用人の話が事実であるならば、燈雀に与えられた世界はひどく狭いものだ。切り取られた空と、美しくあまやかなものだけで拵えられた箱庭で生まれた燈雀は、禁裏の塀が何色であるかさえ知らない。

朱塗りの橋を渡りつつ、池の縁を埋めるように咲いた水仙や牡丹、丸く剪定された低木の花をぼうっと見つめなる。魔を祓うとされる菖蒲、絹の雨を受けて花びらをしとどに濡らす紫陽花などの彩りが水の膜に包まれる夏の庭も美しいが、春の庭は一等美しいと思った。垂れさがる枝下の桜ははらはらと薄いかけらを落とし、群れを成す山吹は白と橙を宿し、石楠花があまやかな空気の内側でふわりと蕾を綻ばせる。大島桜の枝で羽根を休める鶯の囀りは尊き春の訪れを祝福していた。

「一輪、摘みましょうか」

高くもなければ低くもない聞き慣れぬ声にびくりと肩を揺らし、燈雀はきょろきょろと辺りを見渡した。振り向いた先の橋の袂に人影を見捉え、いったい誰であろうかと思わず手のひらに汗が滲む。女王たる母親に疎まれた燈雀に話し掛ける者は実兄と薬師、そして一握りの侍女のみだった。誰もが知る女王の機嫌を損ねてはならないという暗黙の了解を解さぬ者がこの禁裏にいるなど有り得ない話だ。

「ああ、申し訳ございません。わたくしは昨年の霜の月より燈籠(ひかご)さま付きの侍従として名を賜りました、浮橋と申します。この辺りではあまり人を見ないもので、ついお声を掛けてしまいました」

何が面白いのか、くすくすと小さく笑みを溢しながら燈雀の傍らへ歩み寄って頭を垂れたーー自らを浮橋と名乗るそれは声だけでは判別出来なかったが、くっぽりと浮いた喉仏は男のものだ。燈雀の影を覆い尽くしてしまう、すらりと伸びた背丈はさほど兄と変わらない。線の細い顔立ちは傍目から見ればきっと好ましいもので、禁裏に身を置く侍女や使用人の噂となるために存在しているようだと思った。

「お前、花に詳しいの?」

「ええ、庭師をしておりましたので。侍従の職を拝命してからというもの花に触れる機会もめっきり減ってしまい、わたくしの我が儘で池の付近のお世話を」

その名の通り恋に恥じらう年若い娘のごとく淡い色を宿す花びらが幾重にも重なった乙女椿を指差し、あれは先日咲いたばかりなのですよ、と浮橋は微笑んだ。その指は生白く、土や種子などの生命の根底に近いものとは縁遠い、人の手によって慈しまれ愛されたものだった。母の、女王の寵愛を受けた者の指は白い。白栲の衣であってもここまで白くはないと断言できるほどに透き通る肌は痛ましさすら感じる。薄暗く甘い香の匂いが立つ禁裏の奥に閉じ込め、陽を与えないからだ。陽を知らぬその姿はかつて兄が教えてくれた、海の底に住まう魚の退化にも似ていた。

きっと、浮橋の指にも燻る甘い香の匂いが染み付いている。母の手が届く場所にいる者へ近付いてはならない。行き着く末に、泣きを見るのは己だけである。未だ癒えない過去の心的外傷を自ら抉ることもあるまいと踵を返した燈雀の名を呼び、浮橋はゆるりとした所作を以て頭を垂れた。

「もうじき、乙女椿の蕾がすべてひらきます。お暇でしたら、また来てくださいね」

「……そうね、時間があれば」

至上の喜びであると言わんばかりに破顔した浮橋を背に燈雀は夜鶴の元へ帰るために足を踏み出す。ああ、やはり、男は苦手だ。磨り減った神経を宥めるように溜め息を吐き出し、春の匂いが日増しに濃くなる箱庭の頭上に広がる青空を見上げた。