春骨 | ナノ


女王が治めるこの国において、神の家と揶揄される櫻里において、次代の君主となるであろう娘を生むことは女王に課せられた義務のひとつである。

女が家督を継ぐがゆえに、女尊男卑の風習が常識に深く根差している櫻里に生まれた男の扱いといえば、言葉にすることさえも憚られるほど憐れなものだった。生まれてすぐに母親たる女王から引き離され間引かれるか、運良く生き長らえたとしても禁裏の隅で肩身の狭い思いをしながら日々を過ごし、飼い殺される。母親には会えず、血を分けたきょうだいの顔すらも知らず、青い空の先を灰色が滲む瞳で見つめることしか許されていない男にだけは生まれてはならぬ。どうか、女であれ。女として、この箱庭に生まれ落ちてくれ。そう願い望んだ末に生まれた赤子が女ではないと知った時の、母親のうつろに満ちる果てしない絶望を、未だ子を持たぬ燈雀が推し量ることはできない。

しかし、女王の血を引く女は必ず箱庭に生まれくる。初代女王の御代から続く定説が覆されたことは一度たりとて無い。血の匂いと羊水の温度に限りなく近い春で満たされた箱庭には、やがて女王の胎で育った女の名が刻まれる。櫻里の男の名などひとつも見当たらぬ色褪せた系譜には、女の名前と、女が愛した夫の名前だけが刻まれるーーただひとり、唯一の例外を除いて。


きしりと廊下の板間が軋む微かな物音が鼓膜を揺らし、燈雀は薄い瞼を押し上げた。布団に横たえた体躯は水を吸ったかのようにずっしりと重く、呼吸をすることすらひどく億劫に感じられる。込み上げる咳をひとつふたつと吐き出し、今日は何日なのだろうかと思考を巡らせた。冬の終わりに体調を崩し、爛漫の春が訪れるこの時期まで床を上げてはすぐに寝込み薬師を困らせるという負の連鎖を繰り返していた燈雀は目覚める度に日付を数える癖がついた。

一人きりの寝所で考えることといえば、病弱極まりない己の身に対する恨み言ばかりだ。ならば、いっそ日にちでも数えていたほうが気分は落ち着く。身体まで出来損ないとは。これが次代の女王になるなど、櫻里の名が泣くわ。失望と侮蔑にまみれた母の声を思い出し、にわかに呼吸が浅くなる。失望には慣れていた。侮蔑にも、慣れていた。しかし、母の冷たい眼差しにはいつまで経っても慣れなかった。己が出来損ないであることは誰よりも燈雀自身がよく理解している。努力を積み重ねようとも、見てくれる誰かがいなければ意味を成さぬものだという事実も理解している。涙が渇れてしまえば、楽になれるのだろうか。じわりと目尻を伝い落ちる生温い滴を袖口で拭い、もう一眠りしようとやさぐれた気持ちのまま布団に潜り込んだところで、きしりきしりと板間を踏む音が寝所の前で止まり、廊下に面した障子が開かれた。側付きの侍女が白湯でも持ってきてくれたのかと顔を上げた燈雀はそこに佇む姿を捉え、ぎょっとしたような表情を浮かべて起き上がる。

「おや、起きていて平気なのかい?燈雀」

湯呑みが載った盆を右手に持ったその男は燈雀の傍らに腰を下ろし、藍色の空を引っ掻く三日月にも似ている柔らかな弧を唇に描いた。あにさま、と呼び掛ける戸惑いを多分に含んだ己の声の拙さと、ふと落とした視線の先にある寝着の乱れにかっと頬が赤く染まる。いくら実の兄とはいえ、寝起きの姿を見られてしまうのは多少なりとも気恥ずかしいものだ。

「薬湯を渡そうと思ってね。熱がまだ下がらないんだろう?咳も止まらないようだし、ちゃんと飲まなくてはいけないよ」

「えっ、あ、ありがとうございます……」

「いい子だ」

緩んだ襟元を手繰り寄せながらあれやこれやと重なる羞恥に視点を泳がせる燈雀に湯呑みを手渡した男こそ、唯一の例外として櫻里の系譜に名を記す、女王が初めに生んだ「子」であり燈雀の実兄たるそのひとだった。誰よりも美しく、誰よりも聡明で、ひどく出来の良い五つ歳の離れた兄を母は溺愛した。人は美しいものを愛する生き物だ。それは自らが生み落とした子にも言えることで、手間ばかりが掛かる出来損ないの妹の存在など最初から母の目には一切映っていなかった。苦味と酸味が白刃戦を繰り広げているような味わいの薬湯を飲み下しつつ、母がこの光景を見ればきっと兄に手間を掛けさせたことに対する嫌味をぐだぐだと撒き散らすに違いないと思った。

早世が女であったならば、お前などすぐに花宮(はなのみや)に放り込んでやったものを。兄を讚美した、からくれないで彩られた唇が吐き出す冷えた毒が繰り返し思考を蝕む。女であるがゆえに、男に生まれた麗しい兄の代わりに、燈雀は今日も生かされている。

「床を上げたら春宵祭に行こうか、燈雀」

「で、でも……私が母上さまに叱られてしまいます……」

「夜鶴もついでに巻き込めばいいさ。母上さまは夜鶴に甘いから、許してくださるよ」

かつて母の教育係として宮仕えをしていた罪の無い御用聞き兼薬師を犠牲にするのはさすがに如何なものかと思いはしたが、燈雀には兄の申し出を断る理由もなければ首を縦に振る勇気もなかった。春宵祭は遠い伊勢の地を訪れる暇を持たぬ人々のため、女王が天照大御神をお迎えした天春(あまのはじめ)大神宮で年に一度催される祭である。江戸中から集まった露天や見世物が出るのだと人伝てに聞いてはいたものの、己の目で確かめたことはなかった。お祭り、行ってみたい。純粋なる興味に突き動かされ、燈雀はこくんと静かに頷いて薬湯を飲み干す。

「そのためにも、養生しなくてはね」

燈雀の手から湯呑みを取り、吸い飲みで白湯を飲ませた兄は花霞の空をぼんやりと映し取る灰色の双眸に慈悲の影を滲ませ、うつくしく笑んだ。お祭りに行けるかもしれない。一人では行けなかった場所でも、兄が一緒にいてくれるのであれば怖くはない。そう思うと、一日の大半を布団で過ごし熱と退屈に魘される褪せた日々にも色が添えられる。淡い希望を胸に燈雀はもぞもぞと布団の中へ潜り込んだ。

「お前が眠るまで手を握っているから、ゆっくりお休み」

「あ、兄さま……私はもう子どもでは…」

痩せた燈雀の白い手を大きな手のひらが包み込み、ひんやりとした温度が指先まで伝わる。障子を揺らす風の音や落雷の轟きに怯える度、枕を抱えて泣きついていた幼い妹のままだと兄は思っているのだろうか。互いを隔てる皮膚の下、ごうごうと流れる血の匂いは同じ女王のものであるのに、どうしてこんなにも遠いのか。俺にとってはまだ子どもだよ。長くしなやかな睫の奥に隠した、子猫や小鳥に向けるような、己の手のひらにすっぽりと収まるであろうちいさな存在を愛でる眼差しに気付かぬふりをして、燈雀は薄い瞼を閉じる。知ってしまえば、この手のひらは燈雀を慈しんではくれない。知らなければ、幸せでいられるのだ。たとえそれが飴細工で拵えられたまやかしの幸福であったとしても。