女に生まれた地獄 | ナノ


お前には桃の花が似合うね。そう言って、崩れることのないうつくしくも柔らかな、慈母のそれに似た笑みを唇に描いたそのひとは未だ春浅い光の庭を花曇の灰色に映していました。女子(おなご)の節句であるからと浮き足立つ侍女の声も、心地の良い高さを以て空気を震わせる和琴の言祝(ことほ)ぎの音色も、春に望まれ希求され愛された彼が瞬きをするだけではらりと自壊するものなのだろうと思いました。女王が死に没したとしても世界は変わらぬまま首を挿げ替え存続するけれど、彼が花に伏せたとき世界は身を裂くよりも痛ましい悲鳴を上げ、慟哭し、色を喪うのだろうと思いました。

衣魚喰いによる欠落が穴を開けた朧気な記憶のなか、今生の春が、世界が、原初の女の手によって作られた箱庭が彼の前に膝を折り無償の愛を捧げていたことは今でもよく覚えています。すべては彼のために。世の理すら彼の手のひらの上にあるものなのだと、己の皮膚の下に流れる血の色が赤であると信じて疑わなかった幼子にも、それらが純真なる崇拝であることは理解出来たのです。

「私はあなたのような女王になりたいのです」

人知れず努力を重ねなければかみさまとして完成しない、出来損ないなどではなく、比類なき春の恩寵を与えられる女王に。唇から洩れた言葉に彼はすうと双眼を細め、女の血を連想させる灰色に伏せた睫毛の影をゆらりと落としました。開け放った障子の向こう、冬ざれの気配を帯びる庭にはあえかな花びらを綻ばせた桃の花が枯れ葉の匂いを纏う生温い風に揺れています。お前には桃の花が似合うね。未だ春浅い女の庭に、分け隔ての無い祝福をもたらすかの如く微笑んだ彼の姿を私は生涯忘れることはないでしょう。他の誰でもない、私にその花が似合うと言ってくれた。「次代の女王」ではなく、私自身に。私は、それが何よりも嬉しかったのです。

「けれど、私はあなたにはなれません。あなたはかみさまなのですから」

女であるがゆえに、原初の血の寵愛を受けるがゆえに、春を御するあなたにはなれません。紛い物でもなければ出来損ないでもない、世界が跪拝し魅了され愛を捧げる唯一にはなれません。もしも私が男であったなら、あなたのようなひとになれたのでしょうか。ついぞ口にすることの出来なかった問い掛けは熟した果実のように喉の奥で緩やかに磨り潰され、内壁をどろりと成れの果てが垂れてゆきます。

「あなたは、私のかみさまなのです。今も、昔も」

目線を上げた先、慈悲深き色を宿した薄墨がただ静かにこちらを見据えていました。それは風切り羽を切られ空を見上げながら地を這う鳥を見遣る眼差しにも、盛りを過ぎ輪郭から末期に浸食される紫陽花に救いの手を伸ばすさまにも似ていました。震える唇は短いその言葉すら吐き出せずに、沸き上がる名前のない感情を食んでいます。私は、間違っているのでしょうか。いずれ人々に縋られ信仰に食い潰される私があなたを神として崇めることを、愚かしいと思っているのでしょうか。美しいものは許される。美しいひとは愛される。だからきっと、美しくあれば私も愛されると思いました。私はあなたになりたかった。代替として挿げ替えられる存在ではなく、理想を肉付けし作り上げられる偶像ではなく、完全なる女王に。この願いを罪悪と呼ぶのであれば、私はどんな罰も甘んじて受けることでしょう。たとえ喉を裂かれ目を潰され鼓膜を貫かれてもあなたの生を祝福する春の匂いだけは忘れはしないのです。