夏を囚える | ナノ


幾分か近くなった空の下を羽搏く春告鳥の囀りに促され、ふと足を止める。顔を上げた先、淡い紅色に身を染めた桜がぽってりと花びらを綻ばせ、今ぞ盛りとばかりに咲いていた。女王の自室に繋がる唯一の渡り廊下から見える春の破片は天恵の如き眩さを纏い、光に満ちた庭へひとときの郷愁を添える。人々が愛し、女王が厭う、春が在る。三二厘は鬼の血を色濃く宿した赤を瞬かせ、ほう、と浅い息を吐いた。

「やあ、三二厘」

桜の花びらを一枚一枚丁寧に千切り、薄絹の春の夜と共にとろとろと蜜のなかで熱したような、肺に重く垂れる甘い香の匂いがした。それが白檀の匂いであることに気付き、ひくりと喉が引き攣る。悟られまいと聞き覚えのあるその声に視線を戻し、早世さま、と正面に佇む男の名を呟き、三二厘はぎこちなく笑みを取り繕った。この渡り廊下ですれ違うということは、女王に何らかの用件があったのだろうか。聞けば答えを返してくれるであろう疑問を意識の片隅に追い遣りながら行き場のない思考を彷徨わせ、三二厘は手のひらにじわりと滲む汗に気付かぬふりをする。

「燈雀に会うの?」

「ええ、まあ」

瞼を柔く伏せ、にこりと崩れぬ微笑を湛えた男はかつて三二厘が他国から買い入れた衣服を身に纏い、花曇りを溶かした灰色の羽織を肩に掛けていた。癖のない黒髪に映える桜色の耳飾りが花びらを舞い上げる風に揺れ、俗世において凡そ歓迎されはしない揃いの赤が否応なしに桜色を追う。妹である女王とは似ていない、ぞっとするほどに整った顔立ちさえも三二厘には恐ろしく感じられた。舞い縋る桜の花びらが渡り廊下の木目を浸食し、何かを暗示するように足袋の先へ引っ掛かる。知ってはいけない、と思った。これは、きっと、知ってはいけないものだ。

「そう、ゆっくりして行ってね」

「……おおきに、」

春の薄墨を孕んだ眼を細め、ふわりと微笑んだ男は三二厘の傍らを通り過ぎてゆく。血よりも深く鮮やかに色を放つ鬼の赤に春の影がゆらりと落ち、目には見えぬ温度を振り払うために歩を進める。散らばる春のかけらが、祝福の指が含み持つ温度を知ってはいけない。噎せ返る春に沈む、あえかな白檀の香に喉元を掴まれたような気がした。