市庭へ君臨す | ナノ


白檀の匂いがした。
霜柱が朝日にきらきらと耀く冬の朝を想起させる、思考を緩やかに溶かすような、あえかな白檀の匂いがした。兄の纏うそれに似た、つんと肺のあたりに伸し掛かる香りを視線で辿り、燈雀は薄紅の布に包まれた一振りの刀をぎゅうと握り締める。染みひとつ無い打ち覆いの下、死化粧の施された女王を想い、はらりと涙が頬を伝った。

無色透明の雫は静寂を伴いながら落下し、花霧と呼ばれた刀を包む薄紅を濃く鮮やかに彩る。一度も抱き締めてはくれなかった。一度も、名前を呼んではくれなかった。疎ましげに睨まれることはあれど、慈愛に満ちた眼差しを向けられたことはなかった。兄のように非の打ち所がない、ぞくりと背筋を凍らせるほどに美しい女の匂いを内包していたのなら、自分は母に愛されていたのだろうか。春に沈んだ女王の指先の色すら知らぬまま、燈雀は零れる涙を袖口で拭う。

「可哀想に」

隣に座した兄の唇から零れた言葉が鼓膜を撫で、無意識のうちに浅くなった呼吸を整えようと奥歯を噛みしめた。言葉が含み持つ本意は、決して母親の死を悼み嘆くものではない。その先にある、底なしの灰色に気付いてはいけない。ぞくりと背筋を這い上がる違和感から意識を逸らし、やはり兄は母親に似ているのだと思った。亡骸となった母親を見据える花冷えの曇天や、宵闇を映すぬばたまの髪は今生の穢れを受けつけぬ艶を放ち、骨張った手さえもひどく美しい。

「大丈夫だよ、燈雀」

真綿のような柔らかい低さを孕んだ、心地の好い落ち着いた声が胸の虚に落ちる。聞き慣れたはずの、兄の声を恐ろしいと思った。氷柱を連想させるような、きんきんと骨に響く母親の声が思い出せない。出来損ないと貶す声も、侍女を呼び付け行き場の無い苛立ちをぶつける声も、純潔の鱗と共に剥離する。薄墨の春に散らされる、桜の花びらが瞼の裏で舞う。

「お前は母上さまに似ているから」