青年はよろめく御帝の体を支え、入り口を塞ぐ女たちに視線を遣る。少女のそれによく似た、密やかな笑みを零していた女の唇には何の感情も浮かんでいなかった。喜怒哀楽を持たぬ、黒々と渦を巻いて夜に沈む瞳で青年と御帝をじっと見据えたまま沈黙を食む女たちの影が、ふいに小石を投げ入れられた水面の如くゆらりと揺らめいた。鱗が魚の背から落ちるように、キャンバスにこびりついた絵の具を削り取るように、ぼろぼろと濡羽色の髪や傷ひとつない肌が腐食し、女の身から剥離してゆく。波打つ影、ぼたりぼたりと落下しては影に飲み込まれる肉体、噎せ返る月下美人の甘い香り。この世のものとは到底思えぬその有り様にびくりと肩を揺らす御帝を女たちは愛おしげに見据え続ける。 「ああ、ああ、なんて口惜しい」 「私たちが先に知るはずだったのに」 「でも好いの、善いのよ。あなたがそれで良いと言うのなら。優しいあなたはきっとあの方のお友達になってくれる」 「だって、すべてはあの方のためにあるのだから」 血液の代わりであると言いたげにあまやかな月下美人の芳香を撒き散らしながら、女たちは影のなかに一人残らず崩れ落ちた。揺らめいた影は瞬く間に霧散し、灰色の石畳には聖女の化身と呼ぶに相応しい清き花の、喉につかえそうな甘い匂いだけが残像のように漂う。安堵による脱力感がどっと押し寄せ、御帝は深い溜め息を吐き出した。どうやら、助かったらしい。 「あ、あの!」 「何?」 「助けてくれてありがとうございました!」 佇まいを直し、背筋を伸ばしてぺこりと御辞儀をする御帝を興味の薄い眼差しで一瞥した青年は芽吹きの気配すら窺えない真冬の雪を連想させる白い手をコートのポケットに入れ、「拾わないの?」と呟いた。きょとんとした表情を浮かべたまま首を傾ける御帝に金色は再び呆れの色を纏い、あれ、と視線を御帝の背後に投げる。促され、振り向いた先にあったそれは。 「えっ?……あああああ!?」 紙袋から飛び出し転がる正方形の箱と絵本の無惨な姿を認識した御帝は思わず裏返った叫び声を上げて駆け寄り、がくりとその場に膝をつく。座り込んだ拍子に御帝の手を離れてしまったと思わしきフルーツタルトの状態を確認する勇気はなかった。 絵本はクラフト紙に包まれているため、たとえ土にまみれたとしても絵本自体には何の影響もない。しかし、どう考えてもフルーツタルトは手遅れである。どうしよう、お母さんはフルーツタルトが好きなのに。母に対する申し訳なさと悲しみが同時に込み上げ、紺の双眸にゆらりと涙の膜が張る。物の分別がつかぬ幼子ではないのだ。泣いてはいけない。泣いてはいけない。ぐっと涙を堪え、唇を痛みを覚えるほどに噛み締める。母ならば分かってくれるはずだと自分に言い聞かせながら白い箱を紙袋へ収めてふと視線を落とすと、左手の甲に見覚えのない模様がぼんやりと浮かんでいた。 ボディペイントや刺青に似たその模様は鳥籠を模したフレームに白い花と蔦が絡み付き、英語でもなければ日本語でもない、十八年間の人生で一度たりとも目にしたことのない言語が中央に灰色のインクで綴られているという何とも不可思議なものだった。まさか汚れではあるまいなと軽く拭ってはみるものの、模様は御帝の皮膚に染み付いたまま離れなかった。 「それ、汚れじゃないから落ちないと思うけど」 「ひゃあ!」 いつの間にやら背後に佇み、身を屈めて御帝の手を覗き込んでいた青年の声と距離の近さに慌て、御帝は調子外れの声を上げた。まったく以て心臓に悪い。 「落ちないって、えっと、どういうことなの?」 紙袋と絵本を抱えて立ち上がりながら、紙袋の表面に付着した土を払いのける。早く帰らなければ両親を心配させてしまう。家に帰ったら、今日の出来事を両親に聞かせよう。長い間探し続けていた絵本を漸く見つけ、そして。 「君はとこよのみちの客だからね」 |