02 | ナノ


内側でちかちかときらめく宝石のような、深みに沈む美しさを湛えたなめらかな曲線を描く指先だった。御帝が知るどの温度にも当て嵌まらぬ、骨の先まで凍えてしまうのではなかろうかと案ずるほどに冷たい手のひらだった。

皮膚に纏わりつく湿気と雨の気配を帯びた赤土の匂いが漂う路地裏を眩い月明かりがうっすらと照らしていた。掴まれたままの手首から伝わる無機物の冷たさに背筋を震わせた御帝はぺたんと地面に座り込み、怖々と表情を強張らせながら目前に佇む人物へ視線を向ける。夜の垂れ衣にじわりと溶けるような黒のフードを目深に被った人物――背格好から推測するに青年だろう。彼は御帝を見下ろしつつ掴んでいた手首をするりと離し、どこから来たのと想像していたものよりも柔らかく落ち着いた年若い青年の声で問い掛けた。

「とっ、とうきょう、です」

混乱と戸惑いに満ちた脳が弾き出したであろう返答に納得したのか、青年は今しがた御帝をずるりと引き込んだ入り口に視線を滑らせる。女のひそやかな笑い声が薄暗い路地裏に響き、御帝は引き攣る喉の奥から迫り上げるか細い悲鳴を咄嗟に飲み下した。広いとは御世辞にも言えない入り口を幾重にも折り重なった体躯で塞ぎ、裸身の女たちが皆一様にしっとりと美しい指先を御帝へ伸ばしていた。

「君も運が悪いね、お迎えに見つかるなんて」

お迎え、とは女たちのことだろうか。やけにあっさりとした青年の言葉が思考に籠る熱を冷ましていく。慈愛が滲む微笑みを浮かべ、ぬばたまの髪を垂らし手を伸ばす女たちは御帝に語り掛けることもなければ距離を詰める気配もなかった。青年が御帝の傍らに在るがゆえに危害を加えないのか、それとも単なる気紛れか。ひとつの疑問を噛み砕き理由を模索しながら、せっかくの誕生日だというのに何故このような目に遭わねばならないのかと己に降り掛かった災難を嘆く。贅沢は言わない。せめて自宅に帰りたい。

「君、名前は?」

「えっ……わ、私?」

「君以外に誰がいるんだい」

呆れを多分に含んだ青年の声に怖じ気付く心を叱咤する。叱られたわけではない。きっと、呆れられているだけだ。気を取り直し、「墨染御帝」と呟いた声は思いの外震えていた。言い様のない不安を訴える心を宥め、ぎゅうとワンピースの裾を握り締める。

「御帝」

「は、はい!」

「助けてあげようか」

「……ふへっ?」

数度瞬きを繰り返し、御帝は素っ頓狂な声を上げた。凡そ年頃の女子高生が発するにはあまりにも可愛いげのない声であったが、青年は特に気にする様子もなく、御帝の返答を待っている。助けるとは、異形の群れに追い詰められ身動きの取れない御帝に救済の手を差し伸べるということだと解釈しても良いのだろうか。ぽかんと口を開け、驚愕の色を帯びた双眸を彷徨わせる御帝に青年は小さく吐息を零すように、春の寵愛を受けはらりと咲き綻ぶあえかな花にも似た美しさを湛えた笑みを浮かべ、手のひらを差し出した。

「助かりたいのか、助かりたくないのか。君はどちらを選ぶんだい?」

人生は取捨選択の連続で、選択に選択を重ね続けた結果、導き出した答えを我々は現在と呼んでいる。高校生になったばかりの頃、現代文を担当していた教諭が使い古した黒板を背にそう語っていた。取捨選択。必要なものと、不必要なものを見極めること。誰かのためでなく、自分自身のために選ばなくてはならない日が必ず訪れる。教諭が懐かしそうに、ひとつひとつ言い含めていた理由がやっと分かった気がした。

「……助けてくれるんですか」

「ああ」

「何の、メリットもないのに」

「それを決めるのは君じゃない」

夜空を照らす月が紫煙のような薄く汚れた雲を纏い、青年の容貌を宵闇のなかへ隠す。金色の眼がより一層美しさを孕み夜の幕の下で耀くさまを凝視し、皮膚が思わずぞわりと粟立った。差し出されたその手のひらは薄暗い世界の底でも、退化を促す深海の果てでも、宝石のごとき純然たる白を失わないのだろうと思った。

「私を、助けてください」

いつの間にやら震えの止まった指先をゆっくりと持ち上げ、青年の手のひらに伸ばす。魂の末端までぱきりと凍えそうなほどに冷えたそれはすっぽりと御帝の手を包み込み、地面に座り込んでいた彼女を引き起こす。ふらりとよろめいた御帝の肩を支え、青年は笑った。

「いいよ。君は俺だけの客だ」